滝川先生
講師室の大きな机を借りて作業をしていたら、日本史担当講師の滝川樹先生がいつもより早くやってきた。
「先生、申し訳ありません。すぐどけます」
講師室はフリーアドレスだけど、先生たちはたいてい、自分のお気に入りの席が決まっている。私が作業していた机は、滝川先生がいつも座る席だったのだ。気難しい先生なら、怒鳴りつけるか、ムッとするか、校舎長に苦情を言われてしまう。私は急いで片付ける。
「焦らなくていいよ。俺はそんなことで怒ったりしないし」
「ありがとうございます」
意外に優しい言葉。滝川先生には、私が私大文系クラスのほかにもうひとつ担任を持っているK大文系クラスの日本史を担当してもらっている。けれど、クラス担当が決まったとき挨拶したくらいで、ほとんど話したことがない。生徒から聞くところによると授業はわかりやすく、日本史の時間を楽しみにしている子も多いらしいが、クールな印象の人なので、勝手に苦手意識を抱いていた。
滝川先生は、この予備校の歴史系の講師には珍しく、若くて細身でスタイルが良くてパリッとした服装の男前だ。たいてい他の歴史系講師は、中年でお腹が出ていて、同じような色褪せた水色チェックのシャツを着ている。私文クラスの日本史を担当してくれてる白石先生みたいに。ほぼ片付け終わったところで「かっこいいから滝川先生のこと苦手だったのかも」と気づいて先生を見ると目が合ってしまい、話しかけられる。
「北見さんて、K大の日本史学科出身だよね」
「え、あ、はい」
「俺もなんだ。先輩後輩だね」
「はい。あの…存じ上げてました」
私は先生の講師プロフィールを見て先輩だと知っていたけど、なぜ私が後輩だと知っているのだろう。そう疑問に思ったら、どうやら私の卒論の指導教員から聞いたらしい。
「こないだ学会で目名教授に会ってさ。北見さんの話してたから」
「そうですか。教授、お元気でしたか」
「相変わらずだよ。北見さんのこと、残念がってた。ピカイチだったから院に誘ったのに、って」
そうだった。教授から「大学院で研究を続けないか。院試を受けてみたら」と誘われたが、断ったのだ。本音を言えば研究は続けたかったけれど、経済的に余裕がなく、自分が研究者としてものになるか自信もなかった。歴史系の研究者のポストは少ない。表向き男女差別はないけれど、女性ならなおさら門が狭いのは周知の事実だ。
正直にそう言うと、滝川先生は「俺も自信ないよ。ポストがあれば大学に戻りたいんだけどね」と遠い目をした。先生がそんな希望を持っているなんて知らなかった。研究者になれば、講師は辞めてしまうのだろう。「そうなったら先生のためにはいいことだけど、会えなくなったら私は少し残念かも。かっこいいし意外に優しいし…生徒にも人気だし」と思いながら、片付けを終えて席に戻った。
その途中。
「野々ちゃん、どうしたの?」
講師室担当のバイト、石倉野々ちゃんが暗い顔をしているのを見て私は声をかけた。野々ちゃんはまだ一回生だから私とは入れ違いで、学年はかぶっていないけれど大学の後輩にあたる。だからお互い気安く話せる仲なのだ。講師室で働き始めて三ヶ月足らずだけど、もう講師陣のチョークの好みもすっかり把握して、先生方からも「講師室の石倉さん」と可愛がられている。
「北見さん…」
大学で友達ができなくて、退学したいのだという。せっかく入った難関大学、しかも文系では一番難しい法学部。一回生の前期が終わる前に辞めてしまうのは、客観的に見れば正直もったいない。親御さんもきっとがっかりするだろう。
「野々ちゃん、辛い気持ちはわかるよ」
「ありがとうございます」
「でも私…うまく言えないんだけど…野々ちゃんはすごくいい子だし、きっかけがあればすぐに友達ができると思うんだ」
「そうでしょうか」
「そう思うよ。今からでもサークルとかには入れるし、それにほら、法学部は自主勉強会とか無料法律相談のグループとかもあるじゃん。無理にとは言わないけど、そういうのに入ってみたらどうかな」
「本当に退学したいなら私には止められないけど、退学しちゃったら戻れないから。せっかく辛い受験勉強乗り切って合格したんだし、一度冷静になって考えてみて」と話すと、野々ちゃんは頷いた。
「北見さん、ありがとうございます。何か気持ちがちょっと前向きになりました」
「本当?良かった。私、全然ためになるアドバイスなんてできないんだけど」
「そんなことないです。私の話をちゃんと聞いて、私のこと考えてくれてるってわかります」
そう言ってもらえて、私の方が嬉しい。
「北見さんはいいチューターさんです。生徒にもちゃんと寄り添ってるのがわかるし。大沼さんがなんと言おうと、私はわかってますから」
驚いて野々ちゃんの顔を見ると、彼女は「大沼さんは声が大きいから、講師室まで聞こえてます」と小さな声で言った。
「そっか。じゃあ先生方にも私が叱られまくってるってバレてるね」
きっと、滝川先生にも。たぶん呆れられているか、哀れまれている。
「そうかもしれませんね。でも先生方はたいてい授業の準備とかで忙しいですから」
「そっか…良かった」
野々ちゃんに褒めてもらえて、今日は少しいい気分で家にたどり着く。久々に自分で晩ご飯を作って、撮りためていた歴史番組を見ながら食べると、実家の味がした。