仕事もやってます
翌朝、樹が部屋にやってきた。
「朝から来てくれるなんて」
「予定変更して夜行で帰ってきて、そのまま来た」
「そばにいなきゃいけないときに、いなくてごめん。怖い思い、ひとりでさせて」と抱きしめられて、私は首を振る。安心感が胸に広がっていく。
「…朝ごはん、食べた?」
「まだ。急いでたから」
「簡単なので良かったら作るから、座って待ってて」
パン、トマトとハムを入れたオムレツ、果物、それにコーヒー。本当に簡単な朝ごはんだけど、樹は「美味しい。沁みる」と食べてくれる。ふと、ニヤリとしてこういう。
「思ってたより部屋きれい」
「…昨日掃除した。どんなだと思ってたの」
「目名先生みたいな」
私は吹き出す。目名教授の研究室はまさしくカオス。本が床に積み上げられていて、卒論指導してもらおうと部屋に行っても、どこに座ればいいのか迷う。しかも本をどかすと「それは場所が決まってる」と怒られるのだ。「あの研究室は何十年ものじゃん。年季が違う」と、少し気持ちが楽になって樹に向き合う。樹の笑顔を見て、気持ちを和ませるために冗談を言ってくれたのだと気づく。
「本当に何も証拠はないのか」
「そうだね…ない。葵ちゃんの言葉と、野々ちゃんが葵ちゃんを見たってことだけ。どうとでも言い逃れはできる感じ」
「本当は、よつばが作ってくれた朝飯だけに集中したいのに。初めてなのに」と言いつつ、樹は考えを巡らせている。
「別の角度から考えてみよう。なんで池田さんはそんなに強気なんだろう」
「美人だから…?」
「池田さんは確かに美人だけど、それだけで校舎長も本部長も味方だって言い切るかな。実は、単なる若手講師間の噂だと思って、今まで気にもとめてなかったんだけど」
葵ちゃんがベテランの先生方の夜の相手をして、お小遣い稼ぎをしているというのだ。
「まさか」
言うと同時に「私、オジサンを引き寄せちゃう体質みたい」といったときの葵ちゃんの自慢気な表情が蘇る。まさか校舎長や本部長とも、そういう関係…?古瀬先生のこと好きだったのに?簡単に割り切って、そういうこと出来る子だったなんて。
「現場を押さえたら、池田さんを退職に追い込める」
「退職なんて」
「そうしないと、よつばを守れない」
「今の仕事、やりがいあるんだろ。ずっとビクビクしながら働くなんて無理だ」と真剣に言われて、私は頷いた。
「やば、もう仕事行かなきゃ。鍵もうひとつどこだ…あった。これ渡すから、閉めて出てね。今度会うとき返してくれたらいいから」
出勤して生徒の合否情報を確認して青ざめる。ここまで全落ちしている生徒を発見したのだ。このあと本命校の入試があるが、あまり見込みがないから、今のうちにすべりどめに出願しておかないと大変なことになる。
樹のことで浮かれたり、大沼さんや葵ちゃんのことでビクついたりしていた自分を激しく呪いながら、今から出願できる大学や試験日程を探して、あらかじめ取り寄せておいた願書を準備し、彼の自宅に電話をかける。ああもう、一番やらないといけないことができていなかったなんて、チューター失格だ。電話口には、沈んでいるお母さんの声。
「ご本人は…」
「勉強するので電話に出たくないと」
「私どものサポートが足りず、結果が思わしくなくて申し訳ありません」
「いえ、本人の力ですから…」
「今からでも出願できる日程があります。願書も校舎にあります。本人に校舎に来るよう伝えていただけませんか。どうしても来たくないということなら、家まで伺いますので」
「わかりました、ありがとうございます」
ひとまず手を打ってほっと一息つく。今日は葵ちゃんは休みだから、ビクつく必要もない。K大文系クラスの希望者から小論文を回収したりと受験関係のこともこなす一方で、来年度の募集についても作業を進める。珍しく定時に仕事が終わって、「今日は自炊しよう」と久々にスーパーでお弁当やお惣菜じゃないものを買って帰宅した。
と。
「樹!?なんでいるの?ずっといたの?」
「一回家に帰って荷物置いて、また来た。晩飯も一緒にと思って」
メッセージ入れていてくれたらしいが、スマホの充電が切れていた。
「職場で充電すればいいのに」
「それは盗電」
「そっか。で、家にいて嫌だったか?」と聞く樹に「正直嬉しい」と本音が漏れる。家に帰ったら彼氏がいるなんて、今までなかったことだから。「良かった」という樹の笑顔に見とれていると、エコバッグに目をとめた樹が「今日は自炊の予定?」と聞く。
「何作るつもり」
「…餃子。と、酢の物」
全然オシャレじゃない。横文字の料理とか、家庭的な料理なら煮物系とか。樹が家にいるなら、そんなのにすれば良かったと後悔する。餃子と酢の物って。実家ではいつもこの組み合わせなのだが、それにしても餃子と酢の物って。
「やった。俺、餃子大好きだよ。俺の分も作れる?」
「できる」
「ビールある?」
「うん」
「発泡酒じゃなくて?」
「今日は珍しくビール」
「やった」
タネを皮で包んでいく私を、「俺、絶対それできない。なみなみにするやつ」と樹は感心したように眺める。焼いている間も横で後ろでちょろちょろしているので集中できない。というか、何かとろうとして動くたびにぶつかるので、邪魔だ。
「キッチン狭いんだから、ずっとここにいると危ないよ。意外にちょろちょろするね」
「邪魔?」
「正直ね。もうすぐできるから、部屋で待ってて」
「嫌だ。ここにいたい」
そういって樹は私を後ろから抱きしめた。
「あのね、樹」
「何?本当に邪魔?ちょっと怒った?」
「違う。私、心の準備できてる」
「いいの?」
「うん」
「そう言ってくれるの待ってた」
樹が後ろから私の左頬にキスする。私は顔を左に向けた。唇が重なる。
「ねえ樹、これ餃子焼きながらする話かな」
「何しながらでもいいんだよ」
翌朝、ベッドの中で樹が聞く。
「今日遅番で、明日休みでしょ」
「うん、でも明日は…」
「何か予定あるの」
「A大の商学部」
「ああ、応援行くの?」
「うん。地区本部として重点校じゃないし経費下りないから自費だけど。朝の新幹線だと間に合わないから、夜行バスで今夜から行ってくる」
「気を付けて。じゃあ俺も今日は家帰る」
仕事を終えてバスターミナルへ向かい、夜行バスに乗る。ひとりになると昨日の夜のことを考えてしまってほとんど眠れない。昨夜は何度も「よつば」と呼ばれ、「可愛い」と言われて。私も「樹」「好き」と何度も何度も言った気がする。思い出すと体が疼く。
ほぼ睡眠時間なしでA大の正門前に立つ。寒い。
「あ、北見さん!」
「きたちゅーじゃん、来てくれたの?」
「顔見れてなんか安心した」
パラパラと生徒たちがやってくる。
「筆記用具足りてる?消しゴムは?時計は?」
100均でまとめ買いした筆記用具を持ってきたのだ。業務で応援に来たわけではないから、校舎の倉庫に大量にあるノベルティは持ってこられなかった。うっかりさんが多い私文クラスのメンバーのこと、ペンを一本しか持っていない子には、「二本くらい持っていきなさい」と手渡す。
「きたちゅー、お母さんみたいだよ」
「お姉さんでお願いします」
そんなやり取りをして、彼らの後姿を見送る。試験会場で問題に向き合うときにはひとりきり。私は離れた場所で応援することしかできない。気持ちを飛ばすといっても、本当に何かが飛んでいくわけじゃない。
けれど、頑張れ。
別に合格実績をとりたいからじゃない。いや、そんなこといったら校舎長に怒られる。これからの校舎のためにも、実績をとらないといけないのはいけないんだけど。実績が悪ければ、クラス自体が潰されかねない。けれど、それよりも何よりも、彼らと私の頑張りが報われますように。
祈りながら帰りの新幹線に乗り、ほっとして暖かい車内でようやく眠る。目が覚めてメッセージを確認したら、樹から連絡が入っていた。
”今、池田さんをつけてる”
”証拠おさえた”




