チューター北見の日常
大学の日本史学科を卒業した私が新卒で入社したのは、大手の予備校。教材作成のチームを希望したけれど通らず、卒業した大学がある地方の校舎に配属された。
校舎の仕事は、講師対応、生徒募集、模試運営、クラス担任を持っての生徒指導、校舎主催のイベント運営など幅広い。ひとつのことに集中して取り組むのは得意な反面、マルチタスクが苦手な私にとってはしんどい仕事だけれど、一番近くで受験生を支え応援できる仕事でもある。
大量の業務連絡を確認していると、同じ校舎に配属された、同期の池田葵ちゃんが通りかかった。
「北見ちゃん、もうお昼出られる?行けそうなら一緒に行こ」
「あと五分くらいでいける」
「よかった。愚痴らせて」
葵ちゃんはパッと目を引く華やかな美人で、おしゃれで、頭の回転が早くて、ハッキリ物を言う。ファミレスでタバコを吸いながら、葵ちゃんを指導している先輩に直接不満をぶちまけた話をしている。私はタバコは苦手だけれど、葵ちゃんには息抜きだから、やめてほしいとは言えない。
「だから私言ったの。竹浦さんももっと受付カウンターに出てって」
「葵ちゃん、勇気あるね」
「だってみんなのためじゃん。みんな迷惑してるんだもん。生徒が相談に来ても、いつもいないんだし」
葵ちゃんの指導係でチーフの竹浦さんは、生徒募集や校舎運営の企画をするために、事務室にこもっていることが多い。
「校舎の仕事で一番大切なのはさ、校舎に来てくれた入塾希望者と生徒の対応でしょ?そこを疎かにしちゃだめだって言ったの」
「竹浦さんは何て?」
「ごめんって。これからはもっとカウンター出るって」
「葵ちゃんはすごいなぁ」
竹浦さんは入社年度からして四十歳を少し過ぎたくらいだから、かなり先輩だ。チーフだし。そんな人にちゃんと物を言えるなんて。
「竹浦さん、私には甘いっていうか、弱いから」
「なんで?」
「私、オジサンを引き寄せちゃう体質みたい」
「へえ…」
「なんか言い寄られてる感じがしないでもないんだよね」
「え、でも竹浦さん既婚者でしょ」
「大丈夫大丈夫。竹浦さんはどうか知らないけど、私はそんな気ないから。顔は大目に見て中の中くらいだけど、私から見たらただのオジサンだし、大して仕事できるってわけでもないし。私はもっと仕事できる人がタイプなの。っていうか、英語の古瀬先生狙いだから」
古瀬葉平先生は若手のホープだ。ほかの予備校とも掛け持ちしている人気講師で、授業はわかりやすいし顔も良く、当然生徒に人気がある。参考書も出していて、けっこう売れているらしい。
「古瀬先生、格好いいよね。授業も参考書もわかりやすいらしいし」
「そ。どれくらい印税もらってるのかな。あ、北見ちゃん!横取りしないでよ。古瀬先生、北見ちゃんの担当クラス…トップクラス私大文系の英語も持ってるでしょ」
確かにそうだけど、私なんかがスター講師候補に近づけるわけがない。そう言うと葵ちゃんは笑った。
「まあそうだよね。北見ちゃんと私は違うもん」
そう。私と葵ちゃんは違う。地味でダサくて貧相な体つきで髪はボワボワの癖毛で、言いたいことを言おうにもその場では話がまとまらなくて、いつも後から家で泣くしかない私と、美人で頭の回転が速い葵ちゃんはモノが違う。自分で思っているのと、他人に言われるのとではダメージが違う。
「大沼さん怖いから、早めに戻るね」と葵ちゃんに断り、「もしかして傷ついた?ごめんね」という声を後に校舎に急ぐ。大沼咲子さんは六年先輩の、私の指導係だ。休憩から戻ってきた私を見つけて「北見!」とヒステリックな声で呼ぶ。
「はい」
「ねえ、模試の試験監督のシフト表まだなの?」
「あれ、明日までにっておっしゃってませんでしたっけ?」
確かにそうメモしてある。間違いない。けれど大沼さんは、角ばった顔の中の細い目をさらに細めて私を睨む。
「最終が明日までなの!あんたよく間違うから、私がチェックしてあげなきゃでしょ?私だって忙しいんだから、早めに出してよね。そういう気遣いできないわけ?」
「すみません、すぐやります」
「急いでよ」
急いでシフトを作っていると、生徒が相談に来て作業が中断。ようやく生徒が帰って作業に戻ると、また大沼さんが「北見!」と呼ぶ。
「はい」
「長々生徒と喋りすぎ」
「相談を受けていたので」
「相談を受けるなとは言ってない!生徒は勉強に時間割いたほうがいいんだから、さっさと帰らせるのも仕事だって言ってんの」
「あの子ちょっと精神的に弱いので、無理に帰らせるわけには」
「そこをうまく持ってくのが仕事なの。それであんたの仕事が遅れたら、私だって迷惑なんだから」
「わかった?」とキレ気味に聞かれたら「はい」と答えるしかない。大沼さんに叱られているこの時間の分も、仕事は遅れていくのに。暗い気持ちで自分の席に戻り、またシフト表に向かった。
シフト表を作って大沼さんに提出し、追加で提出された通学定期の申請書をチェックし、そのほかの仕事も何とか終わらせたのが十二時手前。終電に乗り、マンションの最寄駅の駅前で晩ご飯を買う。
「二十四時間営業のカレー屋さんがあって助かる」と呟きながら食べるカレーは、美味しくない。疲れているはずなのに目がさえてなかなか寝つけず、ようやく眠りについた頃には夜中の三時になっていた。