スノウフレイク
灰色の雲が全天を覆っていた。
地面は一枚石のように固く冷えてどこまでも広がっている。山々に囲まれた盆地はどこまでもやせて乾き、薄白くこごえていた。
どっと寒風が走り地面にしがみついているわずかな草と灌木をふるえさせて砂塵をまきあげて走り去ってゆく。
山のきわから一対の黒いレールが土地を横切って延びていた。
ここにある人造物はこの単線だけであった。家屋や倉庫はおろか畑や水路すら存在しない。
灰色の地面を縫うようにそれは風景に一条の線を描いていた。
遠くから羽音のような異音がかすかに風の中に交じる。ディーゼルのエンジン音。やがて山の際から列車が顔を見せた。
(冷えこんできたなあ)
ぼくは首をすくめて寒さに身体をふるえさせた。
車窓の風切音、調子の狂った笛を吹き鳴らすような音が大きくなった。
列車が山裾を回って高地に出て風がまともに吹きつけている。座席下の暖房はフル稼働しはじめたが間にあわず、車内の気温がぐっと下がるのが感じられた。
ぼくは車窓からぼんやりと外を眺めた。
遠くの山が少しずつ動いてゆく以外はほとんど変わらない単調な風景。暖房が効き始めたせいで少し寒さはましになった。レールがきざむ規則正しいリズムを聴いているうちに少しずつ眠くなってくる。
そのときそれが起こった。
ぼくははっと目を開いた。レールの音、暖房機の運転音、そして風。車内は何も変わっていなかった。
気のせいか。
ふたたび目を閉じようとした時にもういちどそれが聞こえた。
ぼくは座席から立ち上がり車内を見回した。誰もいなかった。ぼくは首をかしげた。
上空を流れる大気はいきおいを増して山脈にぶつかり山を駆け上ってゆく。高度が上がると大気はみるみるうちに真っ白な霧のかたまりになった。それは盆地の上空に押し戻され、折り重なって厚い灰色の雲になる。しかしそれでも大気の流れは止まない。
そしてそれがある臨界に達した時に別の動きが始まった。零下の温度で飽和した水蒸気は、空気中の微細な塵を核に結晶を作りはじめたのである。
顕微鏡で見るならばそれらの無数の結晶は美しい幾何学美を有する対称構造を示していただろう。しかもそれらの形はいずれも異なっており一つとして同じ形のものは存在しないことも分かっただろう。
きっかけは大気の状態のわずかな変化の一押しであった。しかしそれは一度始まってしまうと止まるところを知らなかった。一瞬のうちに大気は白い結晶で満たされた。そしてそれらの結晶は自らの重みで次々と落下を始めるのであった。
最後尾の車両のデッキの扉を開けてぼくは外に出た。流れるように上の方から大気が白くなった。
最初のひとかけら。ぼくの手の甲に舞い降りた白い結晶がそのまま体温で溶けて消えた。
車両の後方に流れゆく線路を見ると、その向こうへ吸い込まれてゆくようにいつしか無数の雪が舞い散っていた。そして見わたすかぎりの荒野も次第に薄白く覆われ始めていた。
ぼくは耳をそばだてる。
はるか上方から。狂おしい風の音にかき消されそうな言葉にならない言葉。声にならない声。
(キタ)
(カエッテキタ)
ぼくは耳をそばだてる。
聞こえる。
「何をご覧になっておられるのですか」
声に振り返ると後ろに車掌が立っていた。
「ここは何もないつまらない土地ですよ」
「いや、誰かの声が」
「声?」
車掌は帽子のツバに手をやって目深にかぶりなおした。
「ああ、あれですね」
「あれ?」
「ええ。理由はよくわからないのですが、このあたりを通りかかる時に時々よくあることなのです。さあ、戻りましょう。こんなところにいてはこごえてしまいますよ」
車掌からそれ以上の説明は得られそうに無かった。
声もいつの間にか消えていた。
帰ってきた、と言っていたな。
車内に戻りながら、ぼくはふと気がついて言った。
「ここはずっとこんな荒れ地だったんですか」
「ずいぶん昔、何十年も前に集落があったという言い伝えがあります。ほとんど記録にも残されていないのですが」
ぼくは窓の外を見た。荒涼たる大地は固く冷え切っていた。そこにかつて人が住んでいたという事実があったとしてもそれはほとんど想像に難い。そこは昔から変わらず不毛の地であり今後も永久にそうあり続けるだろうとしか思われなかった。
いまや何もない空間は雪によって覆い尽くされていた。夕暮れの薄明の中で大地は白く鈍いかがやきを残していた。それはすべてを覆い隠す冷たいぬくもりだった。
(かえってきた)
ぼくは声にならない声で呟いた。
帰ってきた。雪とともに。
やがて外はすっかり暗くなった。列車は盆地を抜けてまた山間部に入っていた。もうしばらく走ると海が見えるはずだと思われた。