イキルイミ
人はなぜ生きるのだろう。
私が常にこの疑問と頭の中で格闘しているのは、なにも私が不幸な身の上だという訳ではない。
これは人としての責務である。
人はなぜ生きるのか。
この一文に込められた意味を少しでももぎ取ることが出来るのであれば、私はあらゆる時間も身分も利益も、喜んで投げ捨てるだろう。
私は不幸ではないが、幸せとも言い難い。
というより、本能的に幸せにならないようにしているのかもしれない。
何十年と生きていると、世の中のことわりというものが、なんとなくわかってきてしまう。
有頂天から奈落の底へまっさかさまに転落する経験を、幾度となく味わった。
幸せや不幸というものは性質的に数値化できない概念だという考えはここでは無視して、一本の振り子としてたとえてみる。
私たちは生まれたとき、振り子の位相は九十度からスタートする。
そこが幸福度の端だ。
まあ、人生のスタートが幸せの絶頂か不幸のどん底かはどちらでもいい。不幸からスタートするとみる方が、その手のことを専門とする人たちからは受け入れられるのかもしれないが。
産声を上げた直後から、振り子は下ろされる。
現物の振り子と比較してすさまじく長いスパンをかけて、振り子は反対側ぎりぎりの地点に到着する。最初が不幸と仮定すればここで最高の幸福を得る。
振り子は往復を繰り返す。
それは人生に高低差があることを意味する。
往復を繰り返していくと、だんだんと勢いは減衰してくる。
やがて振り子の振動は終わりを告げる。そして人は一生を終える。
……自分で思考しておいて、この例えはなかなかにいいかもしれない。そう思った。
まあとにかく。
昔ほど、自分が今はたして幸福なのか不幸なのか、それが判断できなくなってきているのだ。
それにより私は焦った。世の中の多くの人が経験することだろうと思う。
しかし、先の振り子によって私たちの人生が支配されているのだとしたら、私たちは自分が今幸福なのか不幸なのかを問うこと自体が無意味なのだ。
そのころには振り子の勢いは全盛期から大きく減退し、もはや幸せにも不幸にも振り切っていないからである。
そう考えれば、私は無駄に幸福を追い求めなくて済む。
氷点下のはるか高みまで、漠然とした雲の中を潜り抜けていく必要がない。
しかしそれでも、私たちは生きる意味そのものを、一人遊びの対象にせざるを得ない。
この命題は、とても扱いに困る。
人間にとっては、とても手に余るものだ。
一生かけても、命をかけても、ある一定の理解にすら永遠に届かない。
もはや漠然という言葉ですら言い表せないほど。
生きる意味を追い求めるという無限性。
その無限性をもって、人は永遠の存在となって、人生を閉じるのだろう。
それは、とても素晴らしいことなのではなかろうか。
やがて戦争は来る。
第三次世界大戦などという格好のいい名前を付けられることはなかった。
私はただひたすらに、明日の景色を願った。
どこの国も、困窮状態に至っていた。
戦争は、外力なのかもしれない。
振り子にとっての。
止まりかけたその人生の鼓動を、もう一度始動させるほどの、莫大な威力なのだ。
あまりに強制的で、無慈悲で、冒涜的な行為だろう。
そして、あまりにも迷惑だった。
せっかく、二度と手に入らない感情のブレというものを追い求めなくても済んだというのに。
もう一度振り子を人為的に動かしてしまっては、私はまた幾度となく幸福の絶頂を、強制的に迎えさせられることになるのだ。
それほどの体力は、もはや私には残っていない。
そしてついに食べる物が無くなった。
あとは死ぬだけだ。
今、どうしようもなく平和が恋しい。
死ぬ直前は、自分の人生をもう一度詳細に振り返って、その過程に生まれた様々な思考を反芻し、生きる意味というものを自分のためだけに定義してから、目をそっと閉じる。
そういうプランであったのに。
でも、優先順位が完全にひっくり返ってしまったのだ。
生きる意味というものを考察する前に、私は、自分が今本当に幸せなのか不幸なのかを確定しなければならない。
振り子は、今、凄まじいエネルギーをもって運動している。
今の私は、死ぬ直前の今の私は、それに翻弄されてしまっているのだ。
なぜそうなったのか。
戦争という外力によって、振り子がもう一度動かされたからだ。
それはもはや、神への冒涜だ。
そうは思わないだろうか?
この世の中のありとあらゆる、さび付いて停止したすべての振り子に、せめて花をささげたかった。