血のさざめき
日赤従軍看護婦の方々への敬意を表して
夜の帳が下りた暗闇の中熱や痛みにうなされる呻き声が聞こえる。小皿に油を垂らしただけのランプを持ち、一つ一つのベッドを回って巡回する。準夜勤ほどではないけれど、傷による熱や痛みで眠れない人が数多くいる。助けを求めて、わたしやもう1人の看護婦の白衣の裾を掴んだり、ベッドから飛び起きる人もいる。
「痛い、痛い、痛くて眠れないんだ…!」
戦況が悪化して、もう日本から薬や物資の供給は無くなっていた。まともな薬もなく、やれることと言えば辛うじて残っている麻酔薬をでまかせに与えることぐらいだった。
一体、あと何度この夜を明かせばいいのだろうか。ろくな処置もできず、未熟な技術しか持っていないわたしにそれでもありがとうと言ってくれる兵士たちを見ては何度も思った。
「血のさざめく音が聞こえるんだ」
わたしとさほど年齢は変わらないぐらいの青年の汗を拭こうと、その顔に手を添えたときだった。うわごとかと思い、気にせずに処置を済ませ次へ移ろうとした。
「聞こえているんだろう?」
しっかりとわたしの目を見て、そう問いかけてきた。その声は見た目よりもしっかりと力強く大人びていた。話しかけられているとは思わず、驚いてはい、と裏返った声で返事をしてしまった。
「こうして痛くて眠れない夜は、血のさざめきの音が聞こえるんだ」
「血、でしょうか」
「ああ、そうだ。意識が沈んだり浮き上がったり、まるで海を渡る船のようだ。熱い傷口から血が全身に流れて、その波の音が聞こえるんだ」
その音をわたしは聞いたことがない。それはわたしが戦場に立ち、お国のために戦い傷ついていないからだ。彼の言葉に勝手に責められている気分になり、申し訳なくなってしまった。せめて少しでも休めるように、とランプを顔から遠ざければ、いやそのままで構わないと言われてしまった。
「どうせ寝れやしない。そのまま少し付き合ってくれないか」
もう1人の夜勤の看護婦の様子をそれとなく探った。夜勤は基本2人体制で行う。1人の患者につきっきりになっていては回らない。どうしようかと、うまく答えられずにいると、その方はそのままわたしの態度を肯定と捉え話し始めた。
「敗けるだろうな、君もそう思うだろう」
「あ、あまりお話されると傷に障りますよ」
急になんてことを言いだすんだ、ここは野戦病院とは言えこの方の上司にあたる方がいないとは言い切れない。どこで誰が聞いているかわからないのだ。慌てて、思わず声をひそめれば脂汗の滲んだ顔を少しだけ綻ばせ楽しそうな表情をした。
「そう焦るなよ。聞いてるやつなんていやしないさ。ここでは夜になるとみんな自分と戦ってる、誰も他人に構ってられるほどじゃない」
自分でしょうか、と問えば軽く顎を縦に振った。
「ああ、そうだ。傷の痛みや這い寄る蛆虫と戦う者もいれば、眠れば最後朝を見ることができないかもしれない恐怖と戦うやつもいる。負けようと、負ければ苦しくないと囁くもう1人の自分とひたすらに戦っているんだ」
毎朝、2人くらいは亡くなっている。隣のベッドで寝ていた人が死んでもみんな悲しまない。心を動かすことなんてない。わたしも同僚の看護婦も今はもう泣かなくなってしまった。初めてここで亡くなった方を棺に入れた時には、1人で持ち上げる遺体の重さと不釣り合いなほど痩せてからっぽのお棺を見て涙も鼻水も何もかも止まらなかった。
「あなたは何と戦っていらっしゃるのですか」
この時には、夜勤だとか巡回しなくてはとかそんなことは思わなくなっていた。ここにいる皆全て、いや日本にいる国民全てがこの戦いの当事者であるのに、彼はどこか鳥のように上から眺めているような言い方ばかりしていた。
「友、母全ての屍の上に立ちそれでも生きながらえようとする苦しみと、だよ」
治療で無理やり麻酔も効かないまま傷口を縫い付けている時の兵士と同じ顔、苦しそうに歯を食いしばり天を睨みつけている。生きている、それは幸運なこと。自分が生きていることに苦しみながら、生きようと苦しむ人と同じ顔をしている。若く未熟なわたしではこの方の心の葛藤が理解できず、ただ俯いてしまった。
「学友たちはみんな死んでいった、東京にいる家族は三月の空襲でどうなったかわからない。それでもなお俺は死ねない。死んでいくやつらはみんな、おかあさーん!って叫んで死ぬんだ。何度もこのベッドに運ばれ、その度にどうかみんなの元へ連れて行ってくれ、と頼んだことか」
彼は両手で皺ができるほどきつくシーツを握りしめ、振り絞るように言葉を紡ぎ続けた。わたしもどうかその苦しみを楽にしてやりたい、と包帯で巻かれたその手を握った。
「それでも、あの血の音が聞こえるんだ。生きることだけを目指して、身体中を駆け巡る自分の血のさざなみの音が聞こえるんだ。お国のためと思って死ねばもう苦しまなくていい、死に甘えたい。でも、死に甘えようとすれば俺の血が生きろと叫び出す。だから、俺は生きる。お国のために犬死なんかしない、負けたって恥でもなんでもない。生きてやる」
お国のために死んだことを犬死だなんて失礼だと思った。でも、ただ生きることに向かって力強く進もうとする彼の言葉を聞いていると、眼鏡についた埃を拭うように、わたしの瞳に映る世界が徐々に輝き、今まで見ていた世界とは全く違う世界に見えた。汚れた白衣も穏やかな暗闇もランプの灯りに照らされた彼の顔も、そこにあるものは同じなのに違う。汚かろうとたとえこの国が敗けようとそれでも生きようとする青年が眩しく新しい「何か」をわたしに教えてくれたようだった。
「悪かったな、返事もしづらいだろう。明日もしも誰かに」
「生きてください。たとえ、たとえこの国が敗けてしまったとしても、恰好悪くとも生きてください」
ランプを床に置き、耳元に顔を寄せ囁いた。わたしの行動に彼が少しだけ緊張している空気を感じた。それでも、わたしは言わずにはいられなかった。
「犬死なんて、敗けるなんてひどいと思いました。でも、わからないけれどあなたの言葉でわたしは何か大切なものを教えていただいた気がするのです。だから、どうか」
「わかった、わかった。ここは夜目が利く奴ばかりだ、あまり近づいて見られたりしたら処罰されるかもしれん。すこし離れてくれ」
まさか敗けると堂々と言い放った方の言葉とは思えなかった。焦ったように耳元から顔を背け、優しい力でわたしの肩を押した。大人しく距離を取ったものの、どうしてだか一変してしまった世界にわたしは興奮を抑えられずにいた。今まで見たこともない新しいもののはずなのに、ずっとずっとわたしの頭の中、心の中の深くて遠い棚のそのまた奥にしまい込んでいたどこか懐かしさを感じさせるその「何か」。
これは一体なんなのだろう。
「年の頃は?」
「18です」
「そうか、妹と同じだ」
それからわたしたちはなんて事はない自分の歳や家族の話、出身、好きな本などの話をした。親戚の家でいとこたちと夜更かしをしている時のような温かくあまりにも平穏な時間だった。
「君も必ず生きるんだ」
わたしのあかぎれだらけの手を一度ぎゅっと握った。わたしはご武運を、とだけ返した。
これが彼との最後の会話だった。
終戦を知ったのは1945年の8月の朝だった。何日だったかは覚えていない。ただ戦況が悪化して南へ下るために行軍していた最中だったのはよく覚えている。森の中を仲間と野営していた時、米軍の落としたビラを拾い、瞬く間にわたしたちの国が敗けたことは部隊に広まった。
「帰りたい、お母さんに会いたい」
「最後の1人になるまで戦うんじゃなかったの」
「敗けるなんてそんなの嘘よ」
頭に締めていた日の丸をぐしゃぐしゃにする子、ただ静かに涙を流す子、呆然と敗けるわけがないと呟く子。みんなそれぞれで感情を抑えることができないようだった。
わたしはそのビラを見た瞬間、ぶわりと心の中に熱いものが溶けて溢れ出した。そして、そのままとめどなく涙が溢れ出した。でも、この涙は敗戦の悲しみの涙でも無念の涙でもない。
「水を、水を汲んで来ます」
そう残してわたしは谷底の川へ走った。急斜面を構わず走り抜け、どくどくと心臓は早く打ち付ける。はあはあと荒い息、立ち止まれば麻痺したと思っていた指の先まで熱い血が流れている。目をつぶれば、駆け巡るその血のザアザアとさざめく音が聞こえる。
「血の、さざめきが聞こえる」
わたしの涙は悲しみの涙ではない。あの穏やかな夜に知った「何か」がやっとわかった。
「希望だ、生きる希望なんだ」
長い戦争は終わった、わたしのこの涙は希望の涙。心の奥底にしまっていた懐かしいもの、それでいてあの方に教えてもらったもの、それは希望。わたしはがくりと膝から崩れ落ち、そのまま大声をあげてワンワン泣いた。
「たくさんご飯を食べて、弟とお母さんと同じ布団で寝る。ちょっと窮屈でもいいの、その方があったかいじゃない・・・」
日本は敗けた。不思議と今は悲しみを感じられない。きっと必ずそれを感じる。膝から崩れ落ちてしまって、立っていられないほどの苦しみを必ず感じる。
川面に反射する朝日はきらきらと眩しい。息をするのが苦しくなるほど生い茂る木々の葉、ひび割れるように軋む体、胸の奥から溢れ体中をめぐり続ける血と共に希望が私の中をぐるぐると回っている。
いつか必ず悲しみはわたしを容赦なく襲うのだ、それでも今のわたしは生きていて、熱い希望に満ちている。
第二次世界大戦中に各地の戦場へ派遣された日赤従軍看護婦の方々のインタビュー記事を読み、どうにかして書きたいと思ったお話です。勉強不足ばかりが目に付く内容だと思います。そんなに戦争は生易しくないと言われるとは思いますが、「希望」を持つことをテーマにしたお話ですのでどうかご容赦ください。