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001-2:異世界が来た②

 ハアトは硬直した。

 冷蔵庫の扉も開けっ放しのままに、水を手にしようと少しだけ前にかがんだ体勢で、首だけが背後に視界を向けようとして捻られている。

 それを維持するには少し疲れるような体制だが、脳からの指令はストップしてしまい、体はそのままの姿から動かない。


 人間、本当の恐怖に直面した時には動けなくなる。

 なんてどこかで聞いた話だったが、今まさにそれを自身の行動を持って証明した形になる。


 脳が思考をやめようとするのは、今日だけでもう二度目だ。

 その二度の出来事は妙にしっかりとハアトの頭の中で繋がっていて、目の前の、この化け物じみた生物が幻や妄想の類ではない事を理解できる。


 ハアトの姿を捉えた巨大なナメクジが、ゆっくりとその上体をもたげた。床に粘液が糸を引く。

 ハアトの目の前で開いたナメクジの口の入口に、ボロボロのアイスピックみたいな牙が無数に並んでいるのを見て、そこでやっと、本能が「何とかしろ」と指示を出した。


 ナメクジが、覆いかぶさるように倒れ込んでくる。 

 とっさに手繰り寄せたのは椅子だった。

 リビングの真ん中に置かれた木製の四足テーブル。それとセットになっていた木製の椅子を、目の前に引っ張り出して、その背もたれの裏に隠れ込んだ。

 ドン、と巨大なナメクジの体重を受け、椅子が軋む。ギシリと危うい音を立てたが、それが壊れるまでには至らなかった。


「う、うわー!」


 ハアトは半狂乱になって叫びながら、椅子の背を力任せに押した。

 そのまま巨大なナメクジの体をひっくり返しながら、壁際まで押し進んだ。

 鈍い衝突の感覚と一緒にグチャリと水っぽい音がして、突き当りの壁に粘膜が広がる。

 一瞬遅れて、反動が返ってきた。

 分厚いゴムの塊に押し返されるように椅子が弾かれ、ハアトも椅子と一緒にリビングの床に転がった。


 倒れた勢いでハアトが頭を打ったのは、ちょうどシンクの真下だった。

 シンクの下には収納スペースが設けられている。その中には調理器具が収納されているはずだった。


「こ、これで……」


 扉を開け、並んでいた器具の中から一番大きな包丁を引き抜いた。

 刃渡り十五センチほどの、ごく一般的な三徳包丁だ。肉にも、魚にも、野菜にも使えるので三徳という、万能包丁である。


 包丁を両手でしっかりと握ると、ナメクジに向き直る。

 問題のナメクジはというと、壁にぶつけようが特に弱っている様子もなく、ただぶつかった拍子にひっくり返ってしまったらしい体を元に戻そうもがいている。


 チャンスだ、とハアトは走った。

 起き上がる前にと距離を詰め、全力で包丁を振り下ろした。


「死ね、化け物!」


 ブチュ、とやはり水っぽい音がした。

 力を込めた両手に、ブヨブヨとした粘膜を物理と突き抜ける感触が返ってきた。

 だが、所詮はただの包丁に過ぎず、ナメクジは大した反応もしてこない。

 不気味な目玉だけがハアトの姿を捉えたまま、体を起こそうとねじったりしている。

 二度、三度と包丁を突き刺すが、やはり効果はなかった。傷口から粘液のようなものが微かにこぼれる程度だ。

 どうやら、傷が小さすぎるように思える。


「くそ、これじゃダメだ……」


 もっと大きな武器はないか。

 そう考えて、真っ先に浮かんだものがあった。

 ハアトの部屋に転がっていた、あの剣だ。


「そうだ、あの剣なら……」


 粘液でベトベトになった包丁を投げ捨て、階段を駆け上がる。

 下りてくる時と違って、もう音を気にする必要もない。

 部屋に戻ると、その剣は床に転がったままだった。

 持ち上げると、意外にもズシリとした重みを感じた。

 刃は、剣としてはそれほど大きくはないように思えるが、さきほどまでの包丁とはまるで違う。

 それが玩具などではない、本物の金属の塊なのだと、なんとなくわかった。


 これなら、大丈夫だ。


 重厚な感触を手に、階段を転げるように駆け降りる。

 階下のナメクジは、今まさに起き上がろうというところだった。

 二つの目玉がギョロリと、再び姿を現した獲物を狙う。

 ナメクジが上体を起こそうと動く。


「う、うおぉぉぉぉぉ!?」


 もう少しで一階にたどり着くというところで足がもつれた。

 体がバランスを崩し、なんとかコケはしないものの、ハアトはそのまま止まれなくなる。


 ええい、もう、なるようになれ!


 いっそ開き直るような気持ちで、剣を握る手により力を込めた。

 そのまま、落下するような勢いのままで、ハアトは剣を振り下した。

 その剣先が、起きかけのナメクジの頭を水風船を割るみたいに叩き潰した。

 粘膜が破れ、体液があたりに弾け飛んだ。

 残ったナメクジの体が力なく震え、平らに広がるように潰れていき、そして最後は煙のように溶けて消えた。

 その後には、粘ついた粘液の跡だけが残っていた。


「や、やった……」


 脅威を排除したという安心感と、それを自らの力で行ったという達成感が同時に湧き出して、足の力が抜ける。

 しかしハアトは、座り込むやいなや、すぐに立ちあがった。

 本音を言えば、そのまま座り込んで、もう倒れてしまいたかった。

 すぐにでもシャワーを浴びて、ベッドに戻りたい気持ちを我慢した。

 だがそれでも、その前に、まずはやらなければいけないことがあると思ったからだ。


 ハアトは剣を構えなおし、ナメクジの粘液の跡を見た。

 最初にナメクジが落ちてきたリビングに戻り、その天井を見れば、そこにも同じ跡が残っていた。

 あのナメクジが天井を這った後が太い線となって残っている。

 それを辿っていくと、裏口のドアまで続いていた。

 さらに辿れば、ドアについた窓が割れているのが目に入った。


「なるほど、ここから入ってきたのか……」


 さきほど目を通したネットニュースの内容では、モンスターは屋内に自然発生したりはしないと想定されていた。

 戸締りをしっかりしていれば、ひとまずは安全だと。

 だが、各地に出現したダンジョンから湧き出て来たモンスターがどこからか屋内に侵入するケースはいくつかあった。


 さきほどの巨大ナメクジは、その侵入してきたケースなのだろう。

 あまり大きくない窓だが、軟体生物ならではの柔軟さで通り抜けたのだ。


 この穴を塞げば、とりあえずは、さきほどのように室内でモンスターの脅威に怯える必要からは逃れられるだろう。

 しかし、そう都合よく替えの窓ガラスなどはない。

 それより、もっと頑丈なもので穴を塞いだ方が良い気がした。

 たとえ割れていなくとも、薄いガラスくらいならモンスター達はそれを割って入ってくるぐらいの力をもっているだろう。

 それに中の様子が外から見えるのも、何かと危険な気がする。


 ひとまず、物置部屋に向かい、使えそうなものを探す。

 ハアトは子供のころは工作が好きだった。

 そのために木材などのストックをこの物置部屋に買いだめて置いていたのだが、もう子供ではない。

 今は工作なんてしなくなった。

 木材のストックは意外にもたくさんあった。

 だが、その一つ一つはハアトが思っていたよりも小さな板だった。

 子供のころはもっと大きく感じたのだが。


 昔使っていた道具箱と一緒に持ち出し、裏口に戻る。

 モンスターが入ってきていないかと慎重になったが、気配も姿もなかった。


 ドアに木の板を打ち付けて塞ぐ。

 他の部屋にも侵入者がいないかと確認しながら見て回り、裏口と同じように窓をすべて封鎖していった。

 一階の部屋を全て見終わり、窓も封じる。

 二階の窓が残っているが、ひとまずはあと回しで良いだろう。

 外の様子も見れるようにしておきたかった。


「よし、これでひとまずは安心だな」


 道具類はすぐ使えるように自分の部屋に持ち込む事にする。

 そうしておけば、二階の窓も封鎖した方が良いと思えばすぐにでも封じられる。


 最後にもう一度、各部屋をチェックして回り、ハアトは風呂場に向かった。

 シャワーを浴びて、不快にまとわりつく粘膜を洗い流す。ついでに剣も洗っておく。

 予備のジャージに着替え、サッパリしたところで、喉の渇きを思い出した。


 そういえば、水を取りに来たんだっけ……。


 今更そんなことを思い出して苦笑する。

 つい忘れていた。

 あんな化け物を見て、そんな考えは頭の中から吹っ飛んでいた。

 当然だよな、と自嘲気味に笑う。

 ぬらぬらと汚れた床を見て、ハアトはハアとため息をついた。


 食欲はしばらくわかない気がした。

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