交わる糸
―――ドンッ。
振り返って視界の端に入った人物に驚いてから身構える時間は無かった。押し倒されて、体の自由を奪われ大の男に馬乗りになられたのでは身動きは取れない。
シャワーから出続けるお湯が男の服を濡らしていったが、気にする人間はいなかった。
遮られたシャワーの湯が大きなシミを広げてゆくのを視認しながらカヤは体に落ちてくる水滴や男に触れられている部分全てに、次第に嫌悪を膨らませていった。こちらが裸だという現状が尚更言いようのない怒りを駆り立てる。腕に全力で力を込めても歯がゆさが増す。
「お前は、敵か?」
テスロは赤に近い明るい茶色の色素を持った瞳の男だった。彼は射殺すような目力でカヤを睨みつけた。
自然いつもより鋭くなったカヤの目が三白眼になり、視線がかち合う。しかし最初に目をそらしたのはカヤだ。
「もう一度聞く。お前は何者だ?」テスロは選択を迫った。「わけの分からない輩をあの方に近づける訳にはいかないんでな。敵か?」
チラリと光るナイフがカヤの首筋に押し付けられた。テスロはカヤが怯えて目を見開き、体の下で戦慄するのを感じた。
カヤは上に乗った男の顔を見ながら、「敵じゃない」――ゴクリと喉が動いた「ナイフを、退けて」と言った。
「まだだ。聞きたいことがある。なぜ俺たちがあの場に行くことを知っていた?そして奴らや、主と面識があるのは何故だ」
カヤの目が考えるようにキョロキョロと動くさまを静かに見守っていたテスロのナイフが薄皮の上を滑り、喉の下へと下がって行く。驚いたカヤは頭の中でどう話そうかと思って組み立てていた話の冒頭を口にした。
「あなたが、知らないだけだよ。前に知り合う機会が、どちらにもあっただけ。人と…人の糸が、交わるのは私には決められないし…」
テスロの手が首筋へと戻ってくる。
「焦らされてやってもいいんだが、」とテスロが言うので「だから」とカヤの声が重なった。
「私とチェルバルトは知り合いってだけで、一時期飲み友達にはなったけど…多分。あいつらとも――あんた達の敵な――とも面識があって、悪いような関係じゃなかった。あくまで表面上はね。
なんであの事を知ってたかって?私は飲み友達が多いんだよ。けど私の他にも知ってる人は沢山いる。あなた達の行動の予測を付ける人がいても可笑しくない…だろう…ということ」
「本当か?」
カヤは小さくため息をついた。横目でテスロを見上げる。「本当だよ。ほかに聞きたいことがあるのか?無いなら殺すとか言わないで欲しいんだけど。…その場合、あんたもチェルバルトも死ぬと思うぞ」カヤが不快そうな顔をする。「…脅してるんじゃない。事実なんですよ。…もちろん私は殺されたくないけど」
「ほう?お前は俺たちの敵じゃない。さっきそう言ったよな?どうして俺達が殺されると思う?」
「…そりゃ、飲み友達が多いから、だね…」
「俺は是非ともお前の友人にどんなのがいるのか気になるな。お聞かせ願えるか?お嬢さん」
「全裸でか?」
テスロはここへ来て初めて笑みを浮かべた。「じゃあ、二人で湯船にでも浸かるか。今は寒いからな」そう言ってカヤの上から体を退かし、扉の前で自身を壁にしてモウモウと湯気の出る湯船を示した。
カヤはその光景に恐怖しか湧かず、湯船とは反対の壁の隅っこに棒立ちになって男を不安そうに見上げた。このまま湯船に沈められるんじゃないのか…?
体を隠したほうがいいのか、しかしどうにも手を胸の前で交差させるのが精一杯なのがカヤの心境だ。戦うのも怖いし、湯船に行くのも怖い。しかし戦えないならないで腕で壁くらいは作っておきたいのだ。それがどんなに有って無いような壁でも。
「チェルバルトの右腕だろう…あなたは。単独行動は得意なのか?ここに来たのは命令されたから?いや、それは今はどうでもいい。とにかく、……何がしたいんだ。出て行ってくれないか」
テスロは腕を組んだ。「どうもあんたは掴み難い性格をしているようだ。端的に面白いが、馬鹿なのか、賢いのか…。まあ、今のところはあんたがビビってるってことぐらいは分かるが、な。チェルバルト」
一瞬呆気にとられた女の顔を見ればここにチェルバルトがいることを知らなかったと物語っていた。上司であるチェルバルトがテスロと行動するのはなんら不思議な点はないが。
そこで彼女は咄嗟に出た自分の質問が己の首を絞めたのか?と疑心暗鬼になった。ただの会話として口にしたのだが、思ってもない方向で将来に不安を感じる。正直自分を信じたくなくなってきた。そもそも今日一日で精神的打撃が大きすぎるのだ。
チェルバルトの肩にかからない程度の美しい金髪は今日も相変わらずカヤの目に留まった。それから緑色の両目がパチパチと瞬きをして、カヤの全身を舐め回すように眺めた。
目の前にいる男、チェルバルトの噂は良くも悪くも皆の耳に入る。正直酒場で声をかけられた時はカヤには嬉しくない相手だった。まず初めに、顔が気に入らない。
チェルバルトがカヤの体を見ている間、カヤが僅かでも感じていたチェルバルトの像が少なからず壊れたのは言うまでもない。ここでタオル一枚渡す甲斐性のあるやつだと思っていたのだが。と考えていると鑑賞が終わったチェルバルトが大きなタオルをカヤに放り投げてきた。
「胸は意外と大きいな。いつも姿勢が悪いからな、お前は。今だって背中を丸めている。ついて来い。そいつと湯に浸からなくてもいい」ウィンクしたチェルバルトはさっさと居室へと向かってしまった。「今度私と入ろう」
顔が心ならずも引き攣る。カヤは以前チェルバルトが怨恨で女に刺されたと聞いたことがあるので真相がどうでも、願い下げだと思った。
「私とカヤの仲だろう?」くるりと振り返ったチェルバルトが彼女の気持ちが伝わったのだろう、不満気に言った。
カヤは足を止めた。チェルバルトが答えを待っているのだ。
「そんなに親しかったかどうかは知らないけど、…壊したのはあんただろう。私は見ての通り普通の、一般人なのに。…部屋だって、見れば大体わかるでしょう?」
「一般人がこんな宝石を持っているか?しかも相当な魔力が溜まっていると見た。城が一つ破壊できる程にはあるな」
カヤの親指の第一関節くらいあるエメラルドがはまっている首飾りだ。細工も細かく、エメラルド以外は金だ。――一体どこから探り当てたのか。自身の悲惨な部屋を見れば一目瞭然だが。
カヤがまた短い間視線を彷徨わせて考えている意思を示した。「…何を言っても駄目か」
「わからんぞ。言ってみたらどうだ?この通り聞く意志はある」
そう言ったチェルバルトは宝石を後ろのテスロに投げて渡し、カヤに両腕を広げて迫って来た。後退する足を凌ぐ速さで間合いを詰めるので、カヤは急いで逃げ道であるベッドの上に飛び乗って床に着地しようとした。しかし彼女は、ベッドの上でチェルバルトが全身で拘束してしまった。特にベッドの上だけは駆け抜けるつもりだったので、カヤは半分泣きそうだ。彼女が固まっているのが面白く、チェルバルトはクスクスと女性ウケのいい可愛らしく整った顔で笑った。
(ヒイィッ。気持ち悪いな。前々から隙あらばスキンシップを図って来る奴だったけど。意図して距離をとったのに結果がこれじゃ最低だな)とカヤは思った。
「すごい鼓動の音だな。小鳥の心臓の音を聞いたことはないが、こんな感じなのか?」
「やめろ!放せ!」男の不穏な手の動きにカヤの感情が揺さぶられた。
チェルバルトはカヤの心臓の上に頭を乗せ掛け、タオルの上から心地よさそうに頬ずりした。
「それにしても慌ただしい。が、胸がなんて癒されることか」彼は手で胸を覆って持ち上げ、タオルから覗く熱い肌にキスの雨を降らせた。
「飲み友達以上の関係になるか?お前のことは好きだからな。みんなの言うとおり、良い子なのか、私自身も知りたい」ニヤリと彼は笑う。「俺の準備は整ってきているぞ?」
その意味を理解したカヤの眉間のしわが一層深くなった。――勘弁してくれ。
無意識の内にカヤの体がブルブルと震えだした。