熱意
全くこんな馬鹿馬鹿しいことがあっていいものか。法治国家だろうが民主主義だろうがミクロな現在進行形の犯罪に一般市民が巻き込まれたくらいでは、それらが全て終わってしまって明るみに出てからでなければどうしようもないワケだ。まあそんなものだとは二十歳になる少し前にはようやく悟った僕だけれど、まさかそれが現実に自分の身に降りかかるときが来ようとは、本気では想像したことがなかったわけで。
その男は突然僕のアトリエ、木造四畳半のアパートの一室に乗り込んでくるとうむを言わさず表に待っていた自動車に僕を放り込み、両手両足を縛ってこの薄暗い部屋まで連れてきて、僕の前にオートマチックの拳銃を放り投げると、いやらしい声で言った。
「あの男を殺せ。そうすれば君を最高の芸術家にしてやろう。そのための場所も時間も道具も地位もやろう」
僕は芸術家を志しているとはいえ矮小な一般市民のひとりには違いなかったので、男がそう言ったときガタガタと歯を身体を震わせて身体をちぢこませて神に祈っていたから、男の言葉などろくに聞いていなかった。
「聞いているのか」
だから聞こえてませんて。
男は何か罵声を吐いてから小さくため息を聞こえよがしにしてみせ、それから部屋の奥の暗がりからパイプ椅子を取り出すと、僕の首根っこをひょいと掴んでそこに座らせた。男も同じ椅子に座ると、先ほどとどうやら同じことをめんどくさそうに繰り返してくれた。やっと少し落ち着いてきて、今度こそ男の言うことを飲み込んだ僕は、「はあ」と意味のない相づちを打つので精一杯だった。顔を上げて初めてまともに男の顔を見ると、怖い顔がこちらを睨んでいたので、慌てて弁解の言葉を探す。
「はあ、あの、大変ありがたい申し出ではありますが、その、僕は結構です」
「俺の言うことが信じられないか」
「め、滅相も……」
「それなら、他人の力を借りてのし上がることに不安があるか? その程度のことで腐食してしまうほど、お前の持つ芸術への意志は俗でもろいものなのか」
「そんなワケねえだろう!」
「ほう」
「いえ、すみません。ちょっと熱くなってしまいまして……。こと、芸術に関しましては、はい」
「だったら拒否をする理由などないな。例え才能があろうと、生きているうちに遇される者は少ない世界だ。こんなにいい話はないと思うが」
「はあ、でも、人を殺さなくてはいけないんですよね」
「お前がそれで警察に疑われることは決してない。目をつぶって引き金を引けば、後の処理は我々で行う」
「はあ、あの、その人を殺すことと、僕が芸術家として成功することに、何か関係が」
「……やはり我々を信用できないようだな」
「め、滅相もない! ただ何故こんな交渉がですね、僕とあなたとの間で交わされているのか、その背後が見えないというのは非常に不安なことでして」
「あの男が死ねば我々には莫大な学の金が手に入る。我々は宗教上の関係で殺しをすることが出来ない。だから手に入る金の一部を使って、誰かに有利な条件を提示してやり、代わりに殺してもらおうというわけだ」
「は、はあ……」
莫大な金とか宗教とか、何やら話が大きくなってきたなと思うと額から一度収まりかけた汗がまた吹き出してきた。指先が細かくふるえる。
「はあ、あの、それで何で僕……」
「芸術家ってのは枠を越えなければならないものなのだろう。既成の哲学や倫理やその辺を蹂躙して楽しむ快楽主義者なのではないかね。ならば、人を殺してみることもきっと君の芸術的才能にきっと良い刺激を与えるはずだよ。酒やドラッグと一緒さ」
「は……」
「つまり、サラリーマンなんかじゃ首を縦に振らない頑固者もいるかもしれないと思ってね。芸術家のような、柔軟な発想の人間の方がいいと思ったのだよ」
「はあ……」
僕はじっと押し黙ることしか出来なかった。その通りかもしれない。同士の中にはこの男の言うとおり、女や酒やドラッグや暴力に溺れていった者もたくさんいた。確かに才能豊かな者たちばかりだったのだ。それに比べて僕は素朴でつまらない生活を送り、やはり作品も素朴でつまらないと批評されていた。
「ちなみにそのう、拒否したらこのまま帰らせていただけるのでしょうか」
「そう思うかね」
「は……」
ですよねーと頭の中で相づちを打つお気楽な自分がいた。ああ、ダメだ混乱し始めている。
「あの〜、どうしても殺さないと、そのお金は手に入らないんでしょうか」
「そうだ」
ですよねー。ああもういいか、なんか芸術のために人さえ殺した芸術家、なんてカッコいいじゃないか。僕は震えた手で銃を受け取って、床に転がっていた男に銃口を向けた。
「は、外しちゃったら?」
「安心しろ、弾はいっぱいに入ってる」
準備がいいことで。僕は身体をくるりと向けて、崖っぷちの何とか的な集中力で男の脚を撃ってから、パイプ椅子で男を気絶するまで殴ると、床に倒れていた彼を肩に担いで逃げ道を探した。エレベーターに乗り込んで、ドアを閉めてから後悔が沸き上がってきた。ホント芸術家になんかならなけりゃ良かった。わずかな可能性でも道があると、そこを試さずにはいられない。
――創造性って、はき違えてる奴いるよな。
エレベーターを出たときに見張りが居ないことを、居ても残りの弾数でなんとかやり過ごせる数であることを祈る。
いずれにしろ、僕の信じる芸術の神は、僕の判断を祝福してくれるだろう。
正直改稿したい文章だけどめんどくさい。