波乱の独り立ち
定時になり、本日の業務終了を告げるチャイムが鳴った。いつものように、島が真っ先にフロアから引き上げて行った。同じフロアにいる女性職員二人も帰り支度を始めた。
この女性二人は、もと帝都電力の社員だった人たちで、子育てが一段落したのでパートということで雇われている。しかし、元々十年近くこの会社でOLをしてきただけあって、基本的な業務の知識は、島や岩佐より上だった。
「私たち、パートだから」これが、彼女たちの口癖だったが、ミコトが電話対応などひとりでオロオロしていると、さりげなく助けてくれたりするのだった。
「お疲れ様でした」
席を立った女性職員二人にミコトが挨拶すると、そのうちの一人、露崎めぐみが近づいてきた。年齢三十七歳で、小学生の母である露崎は、誰が見ても子持ちには見えなかった。服装や化粧のせいもあるが、それだけではない、キャリアウーマン的な雰囲気を漂わせているのだ。
たしか、先日来店した支店長は、露崎の事を『めぐちゃん』って呼んでいたっけ。
偉い人と知り合いなんですね、と声をかけると、「誰も最初っから偉いわけじゃないわよ」と言われた。
「篠原くん、もう仕事終わりよねぇ。これから三人でちょっとだけ飲みに行かない?」
「え? でも、明日の仕事が……」
ミコトは躊躇った。お姉さま二人と飲みに行くなんて……なんだか恐ろしい。
「大丈夫よ、遅くならないから。私だって娘の塾のお迎えがあるから、酔っ払うまで飲んでる時間無いし」
もう一人の女性職員、酒場ちづるがニッコリ笑った。おっとり癒し系の酒場は、露崎とは対照的に「お母さん」というイメージがぴったりだった。年齢も、酒場の方が露崎より上だった。
露崎は飯田のほうに顔を向けて言った。
「……ってことで、飯田くん。篠原くん借りるわよ」
「なんでオレにいちいち断るんですか」飯田がムッとしたように言い返した。
「だって、飯田くんが保護者でしょ?」
酒場がまじボケで言って、ニッコリ笑う。たぶん、指導員と言いたかったに違いない。
飯田は「お疲れさん」と言って、犬を追い払うようにひらひらと手を振り書類をめくり始めた。
ミコトはほとんど強引に熟女二人に挟まれて会社を出た。
女性二人に連れて行かれた所は、大皿料理のお店だった。
「まずはビールで乾杯、といきたいとこだけど、篠原くんあまりお酒、得意そうじゃないから、好きなの頼んでいいよ」
露崎がミコトの前に「どうぞ」とメニューを押しやった。
「じ、じゃあストロベリーフィズで……」
ミコトが小声で遠慮がちに言うと、露崎は「かっわい~」と言って、彼の頭をぐりぐりと撫でた。女性から可愛いと言われるのは抵抗があるが、露崎や酒場くらいの年齢の女性では、怒る気にもならなかった。
女性二人は恐ろしく酒飲みだった。ミコトが一杯目の半分しか飲んでいないのに、彼女たちはもう四杯目を注文していた。
「ほら、いちおう主婦だからさ、時間がもったいないのよ」酒場は肉じゃがをほおばりながら、さらにスティックサラダを引き寄せた。
「私たち、何かあると、美味しいものを食べて、飲んでストレスを発散する事にしてるのよ」
あ……そうか、二人は自分の為につきあってくれているのだ。ミコトはようやく気がついた。この二人になら、何でも言えそうな気がした。
「オレ、失敗ばかりしてて。今日も防犯ブザーを……」
露崎がゲラゲラと遠慮の無い笑い方をした。ムスッとするミコトに、酒場が優しく言った。
「それって、何か腑に落ちないこととか、気になる事があったからじゃないの?」
ミコトはハッとして目を見開いた。
「ひょっとして、島のやり方と飯田と、どっちの方がいいかな、なんて比べたりして、ボケボケしてたんじゃないの?」
露崎にズバリ言われて、ミコトは言葉を失った。露崎は綺麗にマニキュアの塗られた爪で、シガレットケースからタバコをつまみ出すとワイン色の唇に咥えた。
「島のネチネチしたやり方も、飯田の手段を選ばない取り立て方も、どっちもどっちだけど、でも、私に言わせれば二人は同じタイプよ」露崎はそう言ってタバコに火をつけた。
「同じタイプ……?」
とてもそうは見えないけど。ミコトは首をかしげた。
「二人とも、人に仕事を任せられないタイプ」
「そんなことないですよ! 飯田さんいっつもオレにばっかしやらせて、自分は車の中で寝てるんですから!」
露崎の言葉に、ミコトは飯田の所業をぶちまける。
酒場がフッと笑った。
「この一ヶ月、キミが支払いを先延ばしにしたお客、どうなったか知ってる?」
「え?」
ミコトはキョトンとする。そんな事は考えたことが無い。だって、お客さんが払いますと言った日を設定したのだから、払っていて当然だ。
「そ、そんなの支払い済みになってるに決まってるでしょう? その日に払うって約束したんだし。後から確認したら、ほとんどちゃんと支払ってあったし」
ハァ……と露崎がため息をついた。
「あんたが延伸したお客、全部飯田が後から念を押して回ってるんだよ。奥さんに言ったってダメな家もあるし、だから時間を変えて夜に足を運んだりさ」
ミコトは目を丸くした。
知らなかった……。
「島は飯田みたいに面倒な事をしたくないから、全部自分でやったんだと思うし、だから基本は同じタイプなんだよ」
「じゃあどうして飯田さん、明日からひとりでやらせちゃえ、なんて言うんだろう。オレの任されたのって、元々全部飯田さんの持ち分だし。同行しないというだけの事で、今までと変わらないと思うけど」
ミコトが飲み物のグラスを見詰めたままつぶやく。
「今までと同じか、同じで無いかは、キミしだいなんじゃないのかな? 飯田くんもたぶん、勝負に出たんだね」酒場がなにやら意味深な発言をした。
「とにかく、仕事に責任を持つ……ひとりでやるって、そういう事よ」露崎はそう言ってふうっと煙を吐いた。
明日からがんばってね、と二人に肩を叩かれ、ミコトは複雑な気持ちで家路についた。
*
独り立ちの朝は、ミコトの前途を暗示するかのように、どんよりした雲が垂れ込めていた。
朝のミーティングを終えると、ミコトは自転車のキーを取りに行った。車の台数は限られている。病院に行ってから出勤する、と言っていた飯田はまだ来ない。彼が車を使うかどうかは知らないが、足が悪いのだから、彼の為に一台は残しておくべきだと思った。幸い今日の現場は事業所の周辺だ。ミコトは坂井課長に行ってきますと挨拶をして外に出た。
昨日は色々な事があり、ちゃんと顧客カードのチェックもせずに女性二人と帰ってしまった。ミコトは自転車にまたがったまま、今日の分に目を通した。
『タクミ商会』ずいぶん、高額な電気代だな、とミコトは思った。同じ名義で何口も契約がある。ミコトは地図を確認し、『タクミ商会』へ向かった。
集金先の住所は何の変哲も無い雑居ビルだった。カードに記されているとおり、二階に上がってゆくと『タクミ商会事務所』の看板を掲げた部屋があった。ここで使用している電気代じゃないのだろう。やはりどこか別の場所に、大きな施設があるはずだ。
インターホンを押すと、中から男性の声で応答があった。
「こんにちは、帝都電力です。お支払いの件なんですが」
ドアが開いて、ミコトはいきなり腕をつかまれ事務所内に引き入れられた。
「な……」
腕をつかんだ男の目が鋭い。素人のミコトでさえ、ひと目でただ者じゃないとわかるこわもてだ。
「電気屋さん、そういった内容の話は、インターホン越しにしちゃいけないよ。うちだって客商売だからね、誰かに聞かれたら恥ずかしい。まるで、滞納しているみたいに聞こえるし」
ミコトはチラリと顧客カードに目を走らせた。
滞納してるじゃん!
「田村、来客かしら?」事務所の奥から女性の声がした。
「社長、電気屋さんです」
女社長は、光沢のあるボルドーのスーツを着て、縁の無いメガネをかけている。ミコトは豊かに盛り上がったバストとキュッとくびれたウエストに目が釘付けになった。美人の上に、おそろしくスタイルがいい。叶姉妹の姉にゲキ似だ。
ミコトを見た女社長の目が細められた。
「いつものイケメン君じゃないのね」
飯田の事だな、とミコトは思った。
ま……いいわ、と言って女社長は応接セットに座るように促した。
「あなた見かけない顔だけど、新人?」
女社長は、ソファに座ったミコトの顔をちょっとかがんで覗き込んだ。彼女の豊かな胸の谷間が丸見えになった。女社長は「少し待っててね」と言って、奥の部屋に消えた。
ミコトが落ちつかなげに周囲を見回すと、ドアのそばに仁王立ちする、田村と呼ばれたこわもてと目が合った。
ミコトは慌てて目を逸らし、姿勢を正した。
「お待たせ」と女社長が戻ってきて、ミコトの正面に座った。手にした紙片をミコトに差し出す。
「あ……小切手」小切手を見るのは初めてだ。
「契約四口分の合計よ。預かり書はいつものように、四件バラバラでちょうだいね」
そう言って、女社長は美しい足を組んだ。白い太ももがチラリと見えて、ミコトはドキドキした。
緊張しながら、四件分の領収証を切る。電気代の金額を確認し、本日の日付を入れてさらに電卓で四件の合計金額と小切手の金額を確認した。よし、バッチリだ!
領収証を受け取った女社長は、にっこりと妖艶に微笑んだ。
「次回の集金はいつが良いですか?」
ミコトはマニュアルを思い出して言った。キチンと次回の約束も忘れない。やればできるのだ。
「来月の月末にお願いね」
女社長に見送られて、ミコトは『タクミ商会』事務所を後にした。
自席に置いてある本日出向分の顧客カードを見て、飯田は真っ青になった。これはミコト用にピックアップした現場分だ。
「あいつ! オレのと間違えて持って行きやがった!」
今日の現場は溜まっていた分の中から厳選した、超ハードな顧客ばかりだった。百戦錬磨のツワモノ相手に新人のミコトが交渉しても、相手にされるどころか、逆に難癖付けられて、大変なことになるかもしれない。
「……ったく、あのバカが!」
飯田は足を引きずって駐車場へ向かった。




