職場のお荷物・・・って、人から格下げ???
飯田の代わりに、今日ミコトに同行してくれるのは、入社六年目の島だった。島は相撲取りのような巨漢で、いつも汗をかいていた。
「よろしくお願いします」ぺこりと頭を下げると、島は頷いてニコッと笑った。「まいう~」のタレントにそっくりだとミコトは思った。
「今日の件数は十六件か」
ファイルを片手に運転席に乗り込もうとするミコトに、島は慌てて声をかけた。
「ダメダメ! 新入社員が運転なんて、危ないじゃないか」
「え? でも……」昨日までやっていた事をいきなり止められて、キョトンとするミコトに、島は怒った様に言った。
「新人のキミに何かあったらボクが叱られちゃう。さぁ、キミは助手席に乗って」
最初の現場は県営住宅だった。この県営住宅内だけで七件だ。今日は早く終わるかもしれない。顧客カードをめくって確認していると、太った手がファイルごとカードを全部取り上げた。
「あ……」と言ったミコトに、島は小さい子に言い含めるように話をした。
「現場では、ボクが対応する。キミは黙ってボクのやり方を見ていればいいよ」
飯田の「勝手に行ってこい」的な指導に慣れていたミコトは、島の過保護ぶりに少々困惑したが、黙って頷くと彼について歩き出した。
『団地』と呼ぶのがふさわしい県営住宅は、全部で八棟あり、すべて同じ造りだ。差別するわけではないが、やはり公共の住宅である県営住宅や市営住宅には、料金滞納者が多いように思えた。様々な事情を抱えて生活している人が、多く入居しているからだろう。母子家庭であったり、老人の一人住まいであったり、体に障害を抱えていたり。世の中には、本当に色々な理由で働きたくても働けない、払いたくても払えない人が居るのだと、この仕事に就いてから、ミコトは初めて知った。
「篠原くん、ボクが停止作業をするから、キミはチラシを投函してきてくれる?」
すでに大汗をかいている島が、黄色いチラシをミコトに手渡した。
「え、ボクは実務もやらなくていいんですか?」ミコトは目を丸くした。
「ああ、まあ……後で一件くらいやってもいいけど……。時間無いし、ボクがやった方が早いから」
ミコトは複雑な気持ちでチラシを入れに、一階のポストに向かった。
「島さんのやり方だと、オレ、本当に見てるだけでいいみたいだな」
次の家を訪ねると、中年の主婦が出てきた。化粧っけの無い顔は、かなり疲れているように見えた。ミコトは表札を見て、顧客カードを思い浮かべた。『ハマダ ノリ』。確か母子家庭と書いてあったように記憶している。
島が支払いの交渉に入るが、主婦は「お金が無いのよ」の一点張りだった。
「ハマダさん、生活保護受けてますよね。昨日が支給日だったでしょ」
主婦はぐっと口をつぐんだ。
「昨日の今日で、お金が無いって事はないでしょう」島は淡々とした口調でしゃべる。
「でも……」主婦は島の巨大な腹のあたりに視線をさまよわせて、何かもぐもぐ言った。
「電気代の支払いは、毎月の事ですしね。当然ご承知だと思いますけど」
島は、じわじわと理詰めで物を言うタイプだと気付いた。ねちっこい言い方は、お客との間の空気をいやーなものへと変えてゆく。
ミコトはじっと主婦を観察した。
「生活保護のお金って、我々の払った税金なんですよね。それで生活なさっているんですから、電気代くらいは払ってくださいよ」
これにはさすがにミコトもギョッとした。そこまで言うのか?
思わずミコトが自分の口に手をやった時、主婦がキレた。
「生活保護だからって、バカにすんじゃないよ! こっちの苦労も知らないくせに。払ってやるよ、払えばいいんだろっ! このデブ!」
主婦はギャーギャーと口汚く罵ると、家の中から五千円札を持って来て、島の腹に投げつけた。
「毎度ありがとうございます」島はしれっとして言うと、さらに付け加えた。
「奥さん、未納分は一月、二月、三月分です。一番古い一月分に充てて、おつりが千二百九十円出ますけど、まだ二月、三月分が残っちゃいますから、おつりの分を二月分の一部に充当させてもらいますよ」
有無を言わせぬ島のセリフに、主婦は悔しそうに唇を噛むと「勝手にしやがれ」と言い、バタンと勢い良くドアを閉めた。
今の一幕を見ていただけでハラハラして、ミコトは大汗をかいていた。
「ん? 篠原くん、どうかしたの?」
島がいつものにこやかな顔に戻って声をかけてきた。まるで檻の中の動物を棒でつついて隅に追いやるような島のやり方に、ミコトは危ういものを感じた。
「あのぉ、島さん。今みたいに言って、逆ギレされて殴られたりした事、無いんですか?」
島は、フフフと笑ったが、目は笑っていなかった。
「ボクだって、きちんと相手を選んで物を言うさ。でも、もし相手が暴力に訴えるなら、それこそ思うツボなんだよ」
「え?」ミコトはどういう意味かと目を瞬かせた。
「傷害で警察呼びますよ、って言えばいいし」
「でも、もし逆上した相手に刺されでもしたら……?」恐れをなすミコトに、島はニヤリと不敵に笑って言った。
「刃物を持ち出した時点ですでに犯罪だし、刺されたら……まさに傷害事件だよね。ソイツは警察に捕まって、要注意人物のファイルに移されるから、ボクら下っ端のリストから外される事になるね。そうしたら、もう課長の扱い分だから、ボクらは手を出さなくて良い。厄介なのが一件減る、というわけだ」
ミコトはあんぐりと口を開けた。挑発するような事をしておいて、厄介なのが減るって、それで本当にいいのかよ!
何だか釈然とせぬままに、県営住宅最後の一件となった。ミコトはチラリと島の手元のカードを盗み見た。
『ニワ トリオ』
今まで滞納履歴は無く、今回が初登場の人物だった。
『丹羽』という表札を確認してチャイムを鳴らすと、しばらくたって中から「どうぞ、あいています」と返事が返ってきた。
「こんにちは、帝都電力です」
島と共に玄関に入ると、中から饐えたような臭いがしてきた。ミコトは思わず眉根にシワを寄せた。
島は顔色ひとつ変えず、すぐ支払いの話に入る。このあたりはさすがだ。
「数日前から具合が悪くて、動けないんです。電気代……気にはなっていたんですけど、銀行にも行けなくて」
顔色の悪い中年の男性が、懸命に布団から起き上がろうとしていた。ミコトは思わず島を押し退けて家に上がりこむと、男性を布団に寝かしつけた。本当に具合が悪そうで、顔や手が酷くむくんでいる。何日も風呂に入っていないのだろう。饐えた臭いの元は本人だった。
島は男性の様子を気にも留めず、マニュアルどおりに対応した。
「じゃ、お支払いが無いという事で、電気止めます」
丹羽さんは、布団の上に寝たまま、「仕方ないですね」と言って、咳き込んだ。ミコトは彼が気の毒になってしまった。
島が停止作業をする間、ミコトは気になって再び丹羽さんの家のドアを開けた。
丹羽さんは、ぐったりと目をつぶったまま動かない。異常なほどにむくんだ顔や手を見て、ミコトは何気なくズレかけた布団を直してやろうとしてハッとした。チラリと見えた彼の腹が、尋常でない大きさに膨れ上がっている。ミコトは慌てて島を呼びに行った。
「島さん! 丹羽さん、ヤバイですよ。すっごいお腹が膨れてて……きっと本当にヒドイ病気ですよ」
焦るミコトをチラリと一瞥し、島はタオルで汗を拭うと言った。
「予定より大幅に時間が遅れてる。早く次の現場に行くぞ」
「島さん!」ミコトを無視して、島は団地の階段を降りて行ってしまった。
――もうちょっと頑張ってみろよ。……おまえなりのやり方でさ。
ミコトの脳裏に、今朝の飯田の言葉がよぎる。
「オレのやり方で……」
ミコトは丹羽さんの家に引き返すと、躊躇わずにその家の電話で救急車を呼んだ。
数分後に到着した救急隊員は、ミコトに向かって言った。
「電気屋さんが来てくれて、この人、運が良かったよ。こんなに腹水が溜まっていたら、そのうち死んでしまうよ」
ミコトは勇気を出して行動して良かったと思った。しかし、車に乗り込んだ途端、島の嫌味が飛んできた。
「正義感出しやがって。篠原、お前のせいでどれだけ時間をロスしたと思ってるんだ。お前の仕事が終わってから、オレだって自分の持ち分、回らなきゃなんねぇのに……。どうしてくれんだよっ!」
「あ……」舞い上がった気持ちが、一気に急降下した。
それっきり島は一言も口を利かなくなってしまった。いやな雰囲気の中で、ミコトは飯田の顔を思い出した。
ミコトが遅くなったり、何かやらかしたって、飯田はこんなふうに文句を言ったりは、しなかったのに……。
島は結局何ひとつミコトに手を出させなかった。マンションの十階、メーターボックスを開けて停止作業をする島の後ろで、ミコトは所在無げに自分の胸ポケットに入っている防犯ブザーをいじくったりしていた。
飯田は、病院に行って消毒してから会社に来ると言っていたが、大丈夫なのだろうか。
「おい、篠原」
ぼんやりと飯田の事ばかり考えていたミコトは、突然呼ばれて驚いた。
「ハイッ!」返事をした拍子に、なんとミコトの手から防犯ブザーが滑り落ちた。
「あ……」
プルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル
ストッパーだけをミコトの手の中に残し、けたたましい音と共に、防犯ブザーは階段の手すりの間から落下して行く。十階のフロアから一気に一階まで落ちたブザーは、よほど頑丈なのか壊れもせず、遥かな下界で迷惑極まりない音を出し続けている。
「何してんだよ、篠原! 早く拾って止めてこい!」島が鬼のような形相で、ミコトを叱り飛ばした。
エレベーターを使う事も思い浮かばず、ミコトは十階から一階まで、ぐるぐると階段を下りていった。
一階から三階付近の住民が、窓やドアから顔を出し、何事かと辺りを見回している。
ああ……マズい!
マンションの住人が外に出てき始めた頃、ミコトはやっとブザーを回収し、ストッパーを差し込んだ。
「あービックリした」ホッとため息をついたミコトの周囲には、大勢の人が集まっていた。
「ちょっと、電気屋さん 何してんのよ!」太ったおばさんが怒った。
「大きな音で、赤ちゃんが起きちゃったでしょ!」若い主婦が、泣きじゃくる赤ん坊を抱いて、目を吊り上げた。
大汗をかいてようやく一階に下りてきた島と二人で、ぺこぺこと頭を下げ続け、やっとの事で現場を離れる事が出来たのだった。
島はカンカンだった。
「明日もお前に付いてくれって、課長に言われたけど、もうこりごりだ。オレは断るからな」
ミコトは助手席で俯いて小さくなった。
職場に戻ると、さっそく島は本日ミコトがやらかした事の数々を、坂井課長に逐一報告し、そして最後にこう、締め括った。
「……ですから、もう篠原くんの指導員を降ろさせていただきます!」
さすがの坂井も、島の剣幕に圧倒されて、「わかった、わかった」と言ってから、彼にねぎらいの言葉をかけただけに留まった。
「いやー、困ったなあ」
坂井課長のため息に、ミコトは穴があったら入りたい心境だった。これでは、完全なる職場の厄介者だ。
「飯田くん、ちょっといいかな」
自席に座り、こちらに背を向けている飯田に向かって、坂井がいつになくやわらかい口調で声をかけた。
「な……なんすか?」
振り向いた飯田の顔は真っ赤だった。彼の顔を見た途端に、ミコトの顔も羞恥と怒りで真っ赤になった。
ミコトと目が合って、堪えきれなくなったように飯田がプーッと吹き出した。彼につられて周囲に居た何人かもクスクスと笑い出した。皆が自分の失敗談を聞いていたのだと思うと、ミコトは逃げ出したい気分になった。
ふと隣を見ると、なんと坂井課長までが笑いを堪えて苦しげな顔になっているではないか。
なんて嫌な職場なんだろう。……ひどいよ。
ミコトは泣きたいのを懸命に堪えた。
ひととおり笑いの波が去ると、真面目な顔で坂井が言った。
「飯田くん、明日からまた、篠原くんを頼むよ」
飯田はチラリとミコトを見て言った。
「いやぁ……オレもちょっと、お断りですね。足もこんなだし、自分の仕事も溜まっちゃってますから」
「ええ? い、飯田さん?」もしもーし! ミコトは面食らった。
話が違うじゃないか! 今朝、面倒見てやるって、あんた確かに言ったじゃないか! アレは幻か? 飯田さんのうそつき!
ミコトは言葉が出ず、口をパクパクさせたまま、心の中で飯田を罵った。
「そこでですね課長、件数を減らしてひとりで行かせちゃったらどうですか?」
飯田がさらりと放り出すような発言をする。
「え?」な、何を言い出すんだ、と言わんばかりの顔で、坂井が飯田とミコトの顔を交互に見た。
「し、しかし 飯田くん、先程の島くんの話、聞いていたでしょ」
坂井の言葉に、飯田は意地の悪い笑みを浮かべて頷いた。
「ですからぁ、コイツ緊張感が足りないんですよ。前から思ってたんですけど、コイツは人に頼る事に慣れちゃってる、お坊ちゃんなんで、その辺から叩き直さないとダメっすよ、課長」
「飯田さん、ひどい!」ほとんど涙目のミコトに向かって、「うーん、それも一理あるなあ」と、坂井も珍しく飯田を支持する。
坂井にしてみれば、飯田に断られた以上、もうミコトに付いてくれる先輩は居ないし、それならばいっそ一人でやらせても同じ事だった。
「よし、わかった。じゃ 篠原くん、明日は六件だけにするから、一人で行くんだよ。今までの成果を発揮できるように頑張ってね」
完全に見捨てられた、と思った。
オレはゴミだ。ホコリだ。……いや、チリか? もっと厄介な……ウンコだ。ああ、もう誰もオレに近づきたくないに違いない。ウンコなら、いっそ何処へなりとも違う職場へと流してくれ~。
ミコトは下唇をクッと噛みしめると、真っ赤になった目を洗いに、トイレに向かった。
顔を洗ってトイレから出てくると、廊下の向こうから上条ありさが歩いて来た。
「篠原くん、ちょうど良かった。あなたにお客様が来てるわよ」
「お客様?」
上条ありさは窓口担当だ。わざわざ窓口に自分を訪ねてくるなんて、いったい誰だろう。
心当たりが無いので、不安になりながら、ミコトはありさに付いて営業窓口へ向かった。「あちらの方よ」
ありさに言われてお客様フロアを見たが、 窓口カウンターの一番端の席に、ミコトの知らない青年が一人座っているだけだ。
「知らない人だよ。誰?」ありさに問い返すと、私だって知らないわ、と冷たく返された。
ミコトはカウンター越しに青年の前に行くと、おずおずと話しかけた。
「お待たせいたしました。篠原ミコトですが」
上目使いで青年を見る。年齢はミコトより少し上くらいだろうか? 濃紺のスーツをパリッと着こなして、いかにもビジネスマンといった雰囲気だが、近くで見てもやはり見覚えの無い顔だった。
ひょっとして、保険のセールスマンかもしれない。警戒しつつミコトは尋ねた。
「本日は、どういったご用件でしょうか?」
ミコトがおどおどと訊ねると、青年は満面の笑みを浮かべてミコトの手を取った。
「あなたが……電気屋さんですか」
「は?」ミコトは訳がわからず、首をかしげた。
青年は、握った手に力を込めて、大きな声で言った。
「ありがとうございます、篠原さん。あなたは命の恩人です!」
何かの冗談だろうか? 青年の大きな声に、営業課のフロアに居た全員が、窓口の様子に注目した。
不審な目を向けるミコトの手を握ったまま、青年は、感極まったように嗚咽を漏らし始めた。
「本当に、本当にありがとうございました」
「……あのぉ?」
ミコトの声に、青年はハッとして彼の手を離し、ポケットから取り出した名刺を手渡した。ミコトはもらった名刺に目を落とす。
『パチンコ・ニューバード 店長・丹羽鳥彦』
「ニワ…トリ……?」
あ! とミコトは声を上げた。
「あなた、もしかして『ニワ トリオ』さんの?」
「ハイ、本日は父が大変お世話になりました」
そう言うと、丹羽さんの息子は手の甲で、涙をぐいっと拭いた。
「父は、半年前に失踪したきり行方がわからず、私はずっと捜していたんです。そうしたら、今日、いきなり病院から電話があって、父が病気だと」
「ニワ トリオさん……お父さんは、どうなったのですか?」
昼間の様子を思い出して、ミコトが訊ねると、丹羽青年はニッコリ笑った。
「電気屋さんが、救急車を呼んでくれたおかげで、父は危ない命が助かりました。父が見つかり、命も助かって本当に夢のようです」
彼は、何度もミコトにお礼を言い、父親の未払い分全てを精算して帰って行った。
一部始終を見ていた営業課長が、窓口でボーっと立っているミコトに声を掛けた。
「いやぁ、篠原くん、良い事をしたね。今どきなかなか出来る事じゃないよ」
営業課長の言葉を聞いて、他の営業課の社員たちも口々にミコトを褒めた。ミコトは何だか照れくさくなって、顔を真っ赤にしながら営業課のフロアを出た。
落ち込んでいた事が嘘のように、またやる気が出てきた。明日からは一人で現場に出る。考えようによっては、これも自分なりのやり方を試せるチャンスかもしれない、と思う事にした。
「よし! 自分なりに頑張って、飯田さんやさっき笑った人たちを、ビックリさせてやる。今に見ていろ!」
ミコトは鼻息も荒く、自分の部署に戻った。
部署の入口に近づいた時、ミコトはなにやら険悪な空気を感じて、その場に立ち止まった。そっとフロアを覗くと、自席に座っている飯田の横に立って、相撲取りのような島が真っ赤な顔に汗をかき、物凄い目つきで飯田を睨みつけていた。
「まだやってないって、どういう事だよ」島が低い声で言う。
「そのまーんま。あれこれ片付けてたら、時間無くなっちゃってさ」
飯田が先輩に対する口調とは思えない、軽い調子で言って、頭を掻いた。
「朝一番で仕上げとけって、メモつけといただろ」島の声のトーンがさらに下がった。
「だからぁ、そのメモの上にトレイが乗っかっちゃってて、見たのがついさっきなの。そうなっちゃったら、オレがやる事もないでしょ。だから、島さんにそのまま返却したんですよ」
飯田はもういいかげんにしてくれ、という態度で前髪をかき上げた。惚れ惚れするようなカッコイイその仕草も、今の状況では島の怒りを煽るだけのような気がするのだが、本人にその自覚はないらしい。
冷静な島が、とうとう声を荒げた。
「オレはお前のせいで、今日一日あの坊やの子守りだったんだよ。おまえが自分の不注意で捻挫なんかするから、オレがお前の代わりをしなくちゃいけなかったんだぞ。それなのに、せめてオレの仕事を手伝うくらいの気づかいは無いのかよ!」
「無いですね。誰の仕事だろうと優先順位ってのがある。島さんに渡された仕事は、オレの持ってる分に比べたら、急ぐ必要を感じませんしね。しかも、こんなのはただ手間がかかるだけで、誰にでも……それこそあの坊やにでも出来ますからね」
もう言う事は無い、と言うように飯田は島にクルリと背中を向けた。
島の顔色は、いまや赤から紫のような色に変わっている。見かねた入社五年目の男性社員・岩佐が、なだめる様に割って入った。
「もし、良かったらボクがその仕事やりますよ。ちょうど、手が空いたし」
じゃあ頼む、そう言って島は岩佐に書類を渡すと、しぶしぶ自席に引き揚げていった。
今度は岩佐が飯田の横にかがみ込んで、彼に向かって注意をした。
「飯田、お前は正しいよ。だけど、言い方ってもんがあるだろ。……いいかげん、うまくやれよ。俺だって庇いきれないぜ」
飯田は岩佐の顔を見ずに、小声でボソボソと何か言った。
岩佐はすっと立ち上がると、飯田の肩をポンと軽く叩いて、ミコトの立っているフロアの出入り口に歩いて来た。
彼はミコトを見て「あっ」と言う顔をした。
「し、篠原、居たんだ。お……お客さんって誰だったの?」
ミコトは岩佐に向かってちょっとだけ微笑むと、頭を下げて自席に向かった。
先程の揉め事は、そもそもの原因がどうやら自分らしい。「あの坊や」というのは間違いなくミコトのことだ。
飯田は眉をしかめてミコトをチラリと見たが、すぐにデスクのパソコンに目を戻してしまった。
せっかく営業課で皆に褒められて、やる気を取り戻していたのに、自分のフロアに戻った瞬間に一気にまた落ち込んだ。
自分のデスクに座り、何となく散らかった書類をまとめたりして、仕事をするフリをしていると飯田に呼ばれた。
「おい、篠原。ちょっと」
机を回り込んで飯田の席に行くと、顧客カードの束を二つ渡された。
「これ、明日の現場出向分だ。オレのとお前の。残確だけやっといてくれ」
「残確?」
「お金が払い込まれたかどうか、確認しておく事だよ」
いつもと変わらぬ言い方で言うと飯田はまたパソコンに目を戻した。何気なく見えたパソコンの画面には、県庁のホームページが開かれていた。「子供の権利四か条」などという文字が目に付く。
島が怒るのもちょっとわかる。飯田はインターネットなどを見ていて、全く仕事をしている様子がない。
ミコトは自席のパソコンを立ち上げると、業務の画面を呼び出した。画面を見詰めながら、ミコトはさっきの飯田たちの言葉を、思い返した。
――こんなのはただ手間がかかるだけで、誰にでも……それこそあの坊やにでも出来ますからね。
飯田はミコトを「坊や」と呼んだ。
事実上、戦力にならない事は認めている。しかし、島からは完全に厄介者扱いをされ、自分への指導を『子守り』とまで言われた。
でも、何より一番のショックは飯田に見捨てられた事だった。
この部署に配属されて薄々感じていた事が、先程の揉め事で一気に明るみに出たような感じだった。飯田は明らかにこの部署で浮いている存在らしい。岩佐だけはどちらかというと中立を保っているように見えたが、それ以外は課長も含めてほぼ全員が飯田に好感を持っていないようだ。
そんな飯田が、彼には申し訳ないけれど、同じ様な「はみ出し者」のミコトの気持ちをわからないはずはない。その、「はみ出し者」の飯田にまで、自分は「はみ出し者」扱いされたのだ。
――ひとりで行かせちゃったらどうですか?
面倒くさそうに言う飯田の顔がいつまでも頭から離れなかった。
ミコトは上の空のまま、とりあえず残確を終えるとカードを自分のファイルにしまった。




