集金員は楽じゃない
ゴミ袋や、ビール瓶を入れる黄色いケースやらが、所狭しと置かれたアパートの通路。目標は、一番奥の部屋だ。外に出された洗濯機や下駄箱をすり抜けながら突き進み、やっと目的のドアをノックする。
「こんにちは、帝都電力です」
さらに二度ほどノックをするが、反応は無い。どうやら留守のようだ。
「ラッキー」
篠原ミコトは笑みをうかべた。不在の場合は、電力メーターの二次側、つまり電柱から来た電気がメーターを経由して家に入る方の配線を引っこ抜き、『電気を止めました』のチラシを投函して作業終了だ。
「おーい篠原、どうした?」
障害物の遥か彼方で、先輩職員の飯田が、咥えタバコでミコトを呼んだ。
いつの世でも、先輩というのは後輩に嫌な役回りを押し付けるものと、相場が決まっている。ご多聞に漏れず、ミコトの先輩である飯田も、一年先に職場に居たからといって、ただそれだけで、ミコトをあごでコキ使った。
「飯田さん、お留守みたいです」
「あーそう。じゃ、オレは車に戻ってるわ。この辺の現場、ここで最後だし。次はちょっと離れた場所だからな」
「あ……」
ミコトの返事も待たず、飯田はさっさと帝都電力のロゴ入りの軽自動車に乗り込んでしまった。ミコトはムスッとしながら、物に阻まれた狭いアパートの通路を戻り始めた。折りたたんだベビーカーに足をぶつけて呻く。
「いったい、住人はどうやって出入りしてるんだよ、まったく!」
ミコトは悪態をつきながら、アパートの裏に回って集合メーターの所に行こうとした。今度は手入れをされていない樹木と、足元の雑草が行く手を阻んだ。足元に気を取られていると、顔にクモの巣がハラリと纏わりついた。
「うぎゃあああ!」
ミコトは何とも情けない声を上げて、顔中をかきむしった。ハッとして周りを見回す。こんな所を飯田に見られたら、またバカにされる。それでなくても、お子様だとか、チビスケだとか言われているのに。大学を卒業しているし、当然二十歳も過ぎているのに、そんな事を言われたくはないけれど、仕方がないか……。
身長は百六十センチあるか無いかで、髪はネコッ毛の天然パーマ。近眼のせいか、メガネの奥のつぶらな瞳は、いつもうるうると潤んでいるみたいに見えた。華奢な体つきと、色白でうっすらソバカスのある小顔は、女の子よりカワイイと、昔から言われ続けてきた。
「おっと、仕事、仕事」
ミコトは計器番号を確認し、積数の文字盤に目を留める。ぐるぐる回っている。
「なんだよ、居留守かよ……。チッ、仕方ないか」
ミコトはメーターの二次側につながる配線を引っこ抜いた。ぐるぐる回っていた計器がストップし、電力が供給されなくなった事を示す。電力停止作業完了。これで、溜まっている電気代を支払うまで、もう通電してはもらえない。
クモの巣を避けながら、『電気を止めました』チラシをドアに挟みに行く。居留守をつかっていても、電気を止めた途端に中から人が出てくるケースは、しょっちゅうある。
さっきの部屋のドアが開いた。やっぱり、居やがった。ミコトはため息をつき、狭い通路を再び進んで、開いたドアの傍に行った。
中から出てきたのは女の子だった。どう見ても、小学校五、六年生くらいだ。ほっそりとした体つきで、手足が長く顔が小さい。まるでバービー人形のようだ。春休みはとっくに終わっているはずなのに、どうして平日の昼間に学校にも行かず、家にいるのだろう?
「あの……」女の子は泣きそうな目でミコトを見上げた。
「おうちの人に、この手紙を渡してくれるかな?」
女の子はじっと黄色のチラシを見詰めた。電気代の未納金五か月分が、つらつらと書かれている。
「今、お金を払えば、電気つけてもらえますか?」女の子は唇を噛みしめて、くしゃっとチラシを握りしめると、家の中に引っ込んだ。
子供相手は非常にやりにくい。親の未払いのせいで、言わなくてもいい相手に、事情を説明するのはいかがなものかと思うが、これも仕事だ。いつ、誰と金の話をしたか、未払い客のリストに記入しなければならない。
女の子は封筒を手に戻って来た。
「これで、今日のところはどうか許してください」消え入るような声で、女の子が差し出した封筒には、二千円が入っていた。表に返してみると、『修学旅行積立金』と書いてある。
こんな金、もらえるわけがない。
「あのさ……。これじゃ、金額ゼンゼン足りないし。おうちの人が帰って来たら、このチラシにある窓口まで払いに来てくれれば、すぐに電気をつけるよ。ねっ」
ミコトは女の子の目を見ないように言うと、二千円の入った封筒を返却してクルリと背を向けた。
「あの……待ってください。お願いです。お父さんもお母さんも今日は帰って来ないの。一人で、夜……暗いと怖いです」
つい、うっかり振り向いてしまった!
絶妙のタイミングで、女の子のつぶらな瞳から涙がポロリとこぼれた。
ああ……今日もノルマ達成できず……か。
ミコトはため息をつき、カバンの中からピンクの紙を取り出した。一週間後の日付を記し、女の子に手渡す。
「今日は、電気つなげるけど、一週間後のこの日までに支払いが無ければ、また同じ事になるから。必ずおうちの人に見せてね」
「ありがとう……本当に、ありがとう」女の子は何度もミコトに向かって頭を下げた。
車に戻ると、飯田が読んでいたスポーツ新聞から目を上げた。
「おい、やけに遅かったじゃねえか」
「人が出てきて……」
ミコトは飯田の鋭い視線を避けるようにうつむいた。
「金、もらってきたのか?」
「いいえ、来週まで延伸しました」ミコトはボソリと言って、運転席のシートベルトを締めた。
飯田は無言でミコトを見詰めた。
ミコトはいたたまれなくなり、上ずった声で言った。
「だ、だって……仕方ないじゃないですか。小学生の女の子が一人で出てきて、修学旅行の積立金二千円を払おうとしたんですよ」
「けっ……じゃあ、一部収入二千円って事か」
ミコトは目を丸くする。
「そ、そんな! 先輩、鬼みたいなこと言わないでください! もらえるわけないでしょ、そんなお金」
お前、バカじゃねーの? といいたげな目で、飯田はミコトを見て言った。
「金に、そんなもこんなもねぇよ。何の金だろうと、もらえるもんをもらわなきゃ、仕事になんねぇよ」
飯田は長い前髪を、うるさそうにかき上げた。長身で、パッと目を惹く容姿。『花がある』と言う言い方がピッタリの飯田は、女子社員から絶大な人気がある。飯田はミコトより二つ年上だ。一年先輩だが、二つ年上……。これは、あくまでもミコトの推測だが、つまりは一浪しているという事だろう。出身大学も二流程度、有名一流大学卒のミコトとは、ダンゼン頭の出来が劣る……と、ミコトは思う。しかし、入社してしまえばそんな事は関係ない。仕事が出来るか出来ないか、女にモテるかモテないか、上司にウケるかウケないか、そんな事がとても重要なのだ。
「じゃあ、先輩は子供から金を取り上げるようなマネ、やった事がありますか?」
飯田を睨みつけて、ミコトは詰め寄った。ここまでシビアに言うからには当然、ミコトに出来ない事が、飯田には出来るということだ。
「当たりめェじゃねえか。あれは、正月明けだったか……寒い日でさ。電気を止めた途端に子供が出てきやがってさ、わらわらと四人も」
「で、どうしたんです?」ミコトが身を乗り出す。飯田はつまらなそうに鼻を鳴らして言った。
「マニュアルどおりに、『金を払えば電気をつける』って言って、チラシを渡したら、お年玉の袋を持って来たんだ……一番大きい子がさ」
ミコトは絶句する。
「お……お年玉」
「それでも足りねぇよって言ったら、弟もお年玉を持って来て、それでちゃんと集金して電気つけてやったぜ」
ダメだ……! オレにはそんな事出来ない! ミコトは頭を抱えて呻いた。
その様子を、憐れみともつかぬ目で見つめながら、飯田が言った。
「なあ、篠原よぉ……。今、お前があの女の子に同情して金をもらわなかったからってさ、たぶんあの家、次はガス屋が来て、その金持って行っちまうと思うぜ」
「な!」ミコトは言葉を失った。
ああ……なんて、ヒドイ世の中なんだろう。こんな時、ミコトはつくづくそう思うのだった。
憂鬱な気分で次の現場に移動する。持ち出し件数二十件のうち、まだ半分も終わっていない。
「飯田さんも手伝ってくださいよぉ。今日まだ一件も仕事してないじゃないですか」
ミコトは口を尖らせる。
助手席のシートを倒し、顔の上にスポーツ新聞を乗せていた飯田が、新聞をずらしてチラリとミコトの方を見た。
「あのなァ、オレはお前の指導員として来てるの。だから、実務は全部お前がやるの。わかった? ミ・コ・ちゃん」
ミコトのこめかみに青筋が浮いた。
「いくら新入社員だからって、そんなふうにからかわないで下さい!」
ハッハッハ! 楽しそうな笑い声が車内に響いた。ミコトが怒るほどに、いつも飯田は楽しそうに笑うのだった。
次の現場はマンションだ。車を止めて出向リストを確認しているミコトの手元を、飯田が覗き込んだ。
「あ……ここ、オレ、行くわ」
「え?」
飯田はミコトの手元から顧客カードを奪い取ると、さっさとマンションのエントランスに入って行った。
「ほえ~、めずらしー。飯田さんが自ら出向くなんて」ミコトは何気なく飯田の向かった家の名義を見る。
『タコジマ アソブ』
「タコジマ……? なんじゃこりゃ。ヘンな名前」
ファンキーな名義に、ミコトはどうしても『タコジマ アソブ』なる人物の顔を見たくなってきた。路肩に止めた車から降りて、ドアをロックすると、ミコトは飯田の後を追った。
「えーと、確か307号室だっけ……」
エレベーターを三階で降りて、開放廊下を覗くと、飯田が307号室の中に入って行くのが見えた。飯田が「自分に任せろ」と言ったのに、のこのこついて来たのは気が咎めたが、どおおおおしても『タコジマ アソブ』の顔が見たい。中年のオッサンか、はたまたタコのような赤い頭をした若者か?
ミコトは307号室のドアを軽くノックして引き開けた。
「すみませーん」
玄関に展開されている光景に、ミコトは思わず「あ!」と言って後ずさった。
飯田が大柄の美女と、濃厚なキスシーンを繰り広げている。飯田はチラリとミコトを見ると、女の腰に回した手をサッサッと振った。あっちへ行ってろ! のサインだ。美女はうっとりと目を閉じて、飯田の唇を貪っている。
半分腰が抜けたような情けない状態で、ミコトは307号室を後にした。
な、なんてことだろう! 飯田が他人の奥さんと? これは明らかに、不倫だ!
ミコトが顔を真っ赤にして軽自動車のハンドルに突っ伏していると、何事も無かったかのように涼しい顔をして、飯田が戻ってきた。
「ホイ。全額集金したぜ」そう言うと、飯田は顧客カードと現金をミコトに手渡した。助手席に乗り込んだ飯田は、ダッシュボードから粗品用の白いタオルを一つ取り出した。彼は勝手に封を切ると、タオルを首にひっかけて言った。
「悪いけど、この先の公園に寄ってくんねぇかな」
公園に着くと、飯田は真っ直ぐ水道に向かって歩いて行き、二、三回うがいをすると、バシャバシャと顔を洗った。
「オエ……まずい口紅だ。ニナリッチか?」
飯田の後を犬のように付いて歩いて来たミコトは、恐る恐る彼に声をかける。
「飯田さん……いいんですか? 仕事中にあんな事……。しかも、人の奥さんと」
「え?」
飯田が何事かと言う顔で振り向いたが、ミコトと目を合わせた途端に、サッと顔を背けた。
「別に……いいんだよ。だって、金もらえただろうが。カラ手で帰って来る誰かさんより、よっぽどマシだと思うけど」
ミコトはぐっと答えに詰まって、口をつぐんだ。確かに飯田の言うとおりかもしれない。自分たちは電気を止めるのが仕事ではない。未納金をもらってくる、集金員という肩書きなのだ。止めるのは、やむを得ずの時の手段だ。でも……。
複雑な表情で眉根を寄せるミコトに向かって、飯田は五百円玉を手渡して言った。
「おい、篠原。あそこの自動販売機で缶コーヒー買ってきて。冷たいヤツね。お前も好きなの買えよ」
ケッ……またパシリかよ!
ミコトは黙って自販機に走って行った。
十年前に山を崩して住宅地になったこの辺り一帯は、それなりに街路樹も育っており、のんびりとしたたたずまいを見せている。公園内にも緑が多く、砂場では小さい子供を遊ばせている若い主婦のおしゃべりが、風に乗って耳に届いた。
公園を突っ切って戻ってくると、飯田は長い足を組んでベンチに座り、両腕を背もたれに回してぼんやりと空を見ていた。
ミコトはふと歩調を弛めて、飯田の視線を辿った。パステルブルーの春の空に、白い綿雲がひとつ、ふわりと浮かんでいる。
彼はアレを見てるのか? ……なんかあの雲、シュークリームに似てるな。
「あー、シュークリーム食いたくなってきたな……」
飯田がボソリとつぶやくのが聞こえ、ミコトはドキッとした。こんな無神経な冷血漢と同じ事を考えていたかと思うと、動揺を隠せない。ミコトはドギマギしながら、缶コーヒーを飯田の鼻先に突きつけた。
「お、サンキュー」
飯田は軽い口調で言うと、プシュッとプルタブを開けた。
いただきます、と言ってミコトは飯田の隣に腰を下ろした。無言でコーヒーをすすりながら、ミコトは横目で飯田を盗み見た。
目元まではらりと掛かった前髪を、春のそよ風がふわりと掻き乱すと、整った顔が現れた。誰が見ても、必ず平均以上のイイ男と認めざるを得ない。ミコトは飯田をひと目見た時から、自分と比較しては、絶えず落ち込んでいた。
「お前、どうして帝都電力に入ったんだ?」
突然飯田に尋ねられ、ミコトは口ごもる。面接用の答えは簡単だ。「御社に魅力を感じたからです」「公共性のある仕事に、やりがいを感じます」等々……。でも、今の飯田の問いは、そんな事を訊いているのではない……と思う。
「オレ……向いてないですよね、この仕事」
ミコトは思わずポロリと本音をつぶやく。
入社してから早一ヶ月。電気代の回収を担当する部署に配属され、毎日何十件もリストアップされた未払い客の家を回るが、ほとんど回収できた試しが無い。
「お金が無い。もう少し待ってくれ」と言われる度に、ついついズルズルと延伸してしまうという事を繰り返しているのだ。
「向いてる、向いてないと判断するのは、時期尚早だと思うが、本人がそんなふうに思ってんなら、きっと向いてねえんだろうな」
飯田もミコトの言葉を否定しなかった。
「オレ、ダメなんです。飯田さんみたいに、シビアになれない。ついつい気の毒になっちゃって……」
飯田はじっとミコトの横顔を見ていたが、残りのコーヒーを一気飲みすると言った。
「まぁ、お互い人間同士だからな。気持ちはわかるが、同情したからといって客の言いなりになってばかり、というのもちょっと違う気がする」
「え?」ミコトはパッと顔を上げた。今のは、どういう意味だ? 飯田はサッとベンチから立ち上がると、車に向かって歩き出した。
「まって! 飯田さん」
ミコトは慌てて飯田の背中を追いかけた。
車に戻ってくると、飯田が運転席に座った。
「時間が押してる。スピードアップするぞ。顧客カードに良く目を通しておけ」
そう言うと飯田は、本日分の顧客カードが入っているファイルを、ミコトに手渡した。
ミコトはうつむいて、ファイルを受け取った。昼近くになって、まだ予定の半分しか終わっていないのだ。
彼はミコトをダメなヤツだと思って、きっとひどく呆れてるんだろう。
そう思うと、悔しいよりも悲しかった。新入社員とはいえ、一ヶ月近くも毎日、毎日、同じ事をしていれば、そろそろコツが掴めても良いものだが、もともと人見知りの強いミコトは、他人と話をする事が大の苦手だった。それなりに年齢を重ねて、なんとか日常会話は他人に不快感を与えずに受け答えできる程度になったが、ちょっと混み入った話になると、すぐに相手のペースに巻き込まれているのだった。
「着いたぞ」
ぼんやりと考え事をしているうちに、次の現場に到着していた。
古い住居が並ぶ住宅街の玄関先で、インターホン越しに支払いの交渉に入ると、主婦の声が驚いたように言った。
「すみません、電気屋さん。今朝、主人にお金を渡して出勤の途中で支払いをしてもらうように頼んだんです。ですから、今ここにお金はありません」
ミコトは一瞬、口をつぐんだ。こういう場合は、待つべきなのだろうか?
「あの、さっき僕、確認したんですが、まだお支払いいただけてないみたいで……。ご主人はどこでお支払いになるのかご存知ですか?」
「ええっ? どこで払うかなんて、知りませんよ。……本人に訊かないと」
当たり前の事を言わないでくれ、と言う調子で、インターホンから主婦の声が言った。
ミコトはため息をつくと、「わかりました」と言って、しぶしぶ引き揚げた。
また、お金を払ってもらえなかった。持ち出し件数二十件のうち、今のところお金をもらえたのはたったの一件。しかもそれは、先程のマンションで、飯田が『タコジマ アソブ』なる人物から集金した金だ。
ミコトは打率ゼロだった。
車に戻ると、前方から飯田が走って来た。
「篠原、これ、カバンに入れておいてくれ」
飯田は三件分の顧客カードと現金をミコトに手渡した。
「飯田さん、三件もまわってくれたんですか?」
「おお、たまたま三件とも払ってくれて、ラッキーだったよ」
ミコトは目をみはった。自分が一件行って来て、しかも空振りだったというのに、飯田はあっという間に三件のお金を集金して来たのだ。一年先輩だからと言って、あと一年経った時、自分は今の飯田と同じくらい仕事が出来るようになるとは、とても思えなかった。
「すみません、飯田さん。オレがグズなばっかりに……」
シュンとするミコトに、飯田は一瞬「へ?」という表情を見せたが、すぐにハハハと笑って、子供をあやすようにミコトのネコッ毛頭をポンポンと軽く叩いて車に乗り込んだ。
なんだか、まともに相手にされていないようで、ミコトはフウとため息をつき、助手席に座った。
飯田のおかげで、気がつけば残り一件となっていた。
ラストの一件は、大きな屋敷のような住宅だった。門扉に付いたインターホンを鳴らすが、応答は無かった。
こんなでっかい家に住んでいるくせに、電気代を滞納しているなんて、いったいどうなっているのだろう。非常識すぎる。
ミコトは胸の内で悪態をつくと、門の取っ手を回した。鍵は開いている。玄関ドアに目をやると、そこにも呼び鈴がついていた。そちらも押してみようと思い、ミコトはそっと門扉を押し開けた。
彼は勝手に入って行くと、ドアに付いている呼び鈴を押した。やはり応答が無い。留守のようだ。
ミコトは停止作業をするために、住宅の裏へ回って電力メーターを探した。景観を損ねないように、電力やガスのメーターは大抵家の裏や、勝手口付近に取り付けられている。
目的のメーターを見つけ、二次側の配線を引っこ抜こうと手を掛けた時、唸り声がした。
「ウウウウウ」
ミコトはハッとして固まった。庭の方から大きなドーベルマンがこちらを見て唸っている。首輪をしているが、鎖に繋がれていない。犬は呻りながら歯を剥き出した。
ま、まずい!
ミコトの背中に汗がひと筋流れた。……と、その時、背後から飯田が飛び出して、犬とミコトの間に立った。
「おい篠原、早く作業しろ! 引っこ抜いたら逃げるぞ!」
飯田が言い終わらないうちに、犬がこちらに向かって走って来た。
「うわぁ!」思わずミコトは叫び声を上げた。
犬が飯田の脛の辺りに噛みついたのだ。
「飯田さん!」
気が動転して、ミコトは頭の中が真っ白になった。飯田のブルーの作業ズボンが、みるみる紺色になってゆく。飯田は足を犬にかじらせたまま怒鳴った。
「し・の・は・ら ボケェ! 早く引っこ抜け!」
ミコトははじかれたように動き出し、配線を切った。
「逃げるぞ!」そう言うと、飯田は足に噛みついている犬の腹に、もう一方の足で思いっきりケリを入れた。
ギャウン! と悲鳴を上げた犬が、遥か彼方に蹴り飛ばされた。
二人は猛ダッシュで玄関へまわった。すると、なんと家の逆側からさっきの犬が物凄い勢いで走ってくるのが目に入った。犬は狂ったように吠えている。
「うわぁ、き……来た!」
思わず立ちすくんだミコトを、飯田が肩で門の外に突き飛ばした。
間一髪、飯田が脱出して閉じた門扉にドーベルマンが突っ込んで、ガシャンと物凄い音をたてた。
ミコトと飯田は二人して額の汗を拭った。
「マジ、ヤバかったな……」つぶやいて、飯田はガクリと膝を付いた。
「飯田さん、大丈夫ですか?」
ドーベルマンに噛まれた飯田の足は、膝から下が血だらけだった。ミコトは真っ青になった。
どうしよう、どうしよう!
「大丈夫だよ。今のが最後の一件で良かったな。へへっ……」
そう言った飯田の手元から、ひらりと落ちた顧客カードに目を留めて、ミコトはハッとした。大きな赤い文字で『犬放し飼い要注意』と書かれていた。さっき飯田から顧客カードによく目を通しておけと言われていたのに。
無防備に門を開けて入って行った自分を心配して、飯田は犬に噛まれてしまったのだ。ミコトは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
病院へ行ったほうがいい、と心配するミコトに、飯田は「へーき へーき」といつもの調子で軽く言った。
「オレは平気だから。犬に噛まれる事なんて、よくあるんだ。とにかく時間が無いから、早く会社に戻ろうぜ」
飯田は助手席に乗り込むと、涼しい顔でタバコに火を点けた。
血だらけだけど、見た目ほどひどくないのだろうか?
ミコトは飯田の言葉に従って車を運転し、会社に戻った。
会社に戻ると、飯田は着替えて傷の手当をするから、と言って更衣室に行ってしまった。心配で「手伝います」と言ったミコトのおでこをチョンと軽くつついて、飯田は「さっさと仕事しろ!」と叱りつけると、更衣室のドアをパタンと閉めた。まるで、オレに構うな、迷惑だ。とでも言うように鼻先で閉められたドアを、ミコトはやり切れぬ思いでじっと見詰めた。
今まで自分をダメなヤツだと思った事など一度も無かった。勉強はいつも人より出来たし、スポーツだってそこそこだった。思えば何かにつまずくなどという事が無いままに、今日に至った気がする。
気が抜けたようにふらふらと自分のデスクに戻ると、ミコトの上司の坂井課長がやって来た。この部署で一番偉い坂井は、今年の二月に転勤してきたばかりの新課長だった。
ひとことで言うと『脂ギッシュな中年』というのがピッタリだ。小太りで、少し薄くなり始めた髪に、ゆるくパーマをあてている。小さな下がり気味の目がいつも笑っているように見え、この男の第一印象を温厚そうに見せていた。
「どうかね、篠原くん。仕事には慣れたかい」親しげにポンと肩に手を置かれ、ミコトは坂井を曖昧な表情で見返した。
「頑張っているようだね。頭にクモの巣がついているよ」
そう言うと、坂井はミコトのネコッ毛を一房つまんで、何かを捨てる仕草をした。父親のような雰囲気に呑まれ、つい本音が口をつく。
「もう一ヶ月になるのに、僕はぜんぜん慣れません。どうしてでしょうね」
「ふーむ、本来なら一流大学卒のキミに、こんな末端の現場作業をさせるのはどうかと思っていたんだけど、これもボクの前任者の方針でね。今年度はその方針を変えられないんだよ。もう少し我慢してくれよな」
ハァ……とため息をつくミコトに、坂井は思いもよらぬ言葉を言った。
「一ヶ月も経つのに、満足に新人に仕事を仕込む事も出来ないとは、こりゃ、指導員である飯田の責任だな」
「え!」
つい、うっかり言ってしまったグチが、とんでもないことに!
「か、課長。それは違います! 誤解です。僕は……」
ミコトが弁解する間もなく、坂井は別の話をし始めた。
「そうそう、篠原くん。もうすぐ支店長との懇談会の時間だ。筆記用具を持って会議室に行きなさい。ネクタイをキチンと着用し、社章も着けてね」
ミコトは「あっ」と口に手をやった。すっかり忘れていたが、今日は新入社員と支店長の懇談会があったのだ。支店長は、平社員のミコトにとっては、会社の中で最も偉いと認識している人物であった。普通、会社で一番偉いのは代表取締役社長だが、大きな会社組織である帝都電力は、本社に勤務しない限り社長の姿をナマで見る機会など皆無だった。したがって、社長はミコトにとっては雲の上の目に見えぬ存在だ。実際に姿を見て話の出来る範疇で、支店長は今のミコトの中で、最も上の人なのである。
ボケッとしているミコトに、念を押すように坂井は言った。
「終わったらすぐに外の店で接待するから、キミも来るんだよ」
「え、でもまだ仕事が……」
あたふたするミコトに、坂井はつまらなそうに言う。
「そんなのは飯田くんにやらせておけばいい。キミは早く会議室に行きなさい」
ミコトは慌ててデスクの引き出しからノートを取り出して、ふと飯田の言葉を思い出した。
『時間が押してる』
あれは、ひょっとして、支店長との懇談のことを言っていたのだろうか。
まさかね……。
ミコトはズレたメガネを鼻に乗せなおすと、会議室に向かった。
飯田は男子更衣室のパイプ椅子に座り、犬に噛まれた左足にそっと触れた。
「うっ……」
思わず口から呻き声が漏れる。
早く会社に戻らなければと思い、平気なフリを装ったが、本当はあまりの痛みに今にも気を失ってしまうのでは、と思うほどだった。
血液で湿って重くなったズボンの裾をめくって、飯田は思わず顔を背けた。自分の足が正視できない。肉を食い千切られなかっただけ、幸運だったのかもしれない。
この仕事はある意味犬との戦いでもある。
ミコトに話したとおり、飯田は何度も犬に噛まれた経験があった。いろいろな会社の取立て人や作業員が入れないように、わざと犬を放し飼いにしている家もある。
しかし、さすがにドーベルマンともなると、アゴの力は尋常ではない。
飯田は更衣室の奥にあるシャワールームに行き、痛みを我慢して患部を洗った。帰社途中でミコトに買ってこさせた消毒薬や包帯で、何とか傷口を覆う。巻き付けるそばから血に染まる包帯を見て、飯田は眉をしかめた。
とりあえず、定時であがって医者に行くことにして、何とか手当てを終えた。ズボンをはき替えると、飯田は何事も無かったような顔で自分の部署のフロアに入って行った。
自分のデスクに戻ると、元々山積みになっていたトレイの山が、さらに一段高くなっていた。新人のミコトに付いて、一日中外回りをしているが、飯田には飯田の仕事がある。ミコトのために時間を費やしたからといって、その間誰かが彼の代わりに彼の分の仕事をしてくれるわけではない。必然的に仕事は溜まってゆく事となり、今では積み上がったトレイがタワーのようになりつつあった。
どこから手を着けていいかわからず、ぼんやりと書類の入ったトレイの山を見詰めていると、課長の坂井がやって来た。
「飯田くん、今日の結果はどういうことだ?」
ミコトに対する態度とは打って変わって、厳しい声で坂井は言った。手には本日出向分のリストを持っている。無言で振り返った飯田に、坂井は不愉快そうに目を細めて言った。
「持ち出し件数二十件のうち、収入が四件、停止作業が五件。あとの十一件が延伸とは! お金をもらって来なさい、お金」
「どうも、すんません」
飯田はうわっつらで謝って、椅子に座ったままぺこりと頭を下げた。
「いいか、篠原くんは新人だ。何の為にお前が同行してると思ってるんだ。前・課長の石塚さんに気に入られていたからって、私は彼のようにお前を甘やかす気は無いからな」
小さな細い目を吊り上げて飯田を叱りつけると、坂井はくるりと背を向けて、それから、ふと思い出したように付け加えた。
「篠原くんは懇談会の後、私や所長と共に支店長の接待に入ってもらう予定だから、彼の分の残務整理もやっておくように。いいね」
飯田は返事の代わりにピクリと片眉を吊り上げて坂井を見た。
彼の態度に、坂井の顔色がわずかに赤味を増したかに見えた。坂井は手に持ったリストをぐしゃっと握りしめて踵を返すと自席に戻って行った。
飯田は、坂井の前任者であった石塚を懐かしく思った。前・課長だった石塚という人物は、極めて有能な上司であった。たった二年の任期の間に、飯田のいるこの事業所の債権回収率を県内トップに押し上げたやり手だ。部下の扱いが上手く、業務にも精通していて、誰からも一目置かれる好人物だった。
委託社員として働いていた飯田の仕事ぶりに惚れこんで、正社員に引き揚げてくれたのも、石塚だった。委託社員から正社員に引き揚げるなど、今どきの就労事情では、異例の好待遇だった。委託社員と正社員では、圧倒的に待遇が違う。福利厚生や労働条件など、天と地ほどの差がある。
飯田は自分を取り立ててくれた石塚の恩に報いる為に、一心不乱に努力した。また、石塚も、中途採用の飯田を、他の社員と区別する事無く正当に評価してくれたのだった。
しかし、その石塚も、今年の二月に辞令が出て、さらに上へと出世して、この事業所を去ってしまった。
後任の坂井は、けっして無能ではないが、石塚と比べると、やはり彼はただの凡人だった。坂井は前任者の石塚に対して、異常なほどにライバル意識を持っているらしく、石塚の忘れ形見のような飯田に対して、最初から敵意のこもった態度で接してきたのだった。
飯田は痛む足を庇いながら、のろのろとミコトのデスクに移動して、坂井に言いつけられたミコトの仕事を、黙って片付け始めた。




