1.勇者の接待、あるいは家畜の矜持①
「──で、近藤君。これはどういうことかな?」
ねっとりと湿り気を帯びた声が、デスクのパーティション越しに降ってきた。課長の肥えた指先が、俺の提出した報告書を小刻みに叩いている。
「このデータの整合性、君がダブルチェックしたと言ったよね? 先方の担当者が困惑して電話してきたぞ。君の『可も不可もない』仕事のせいで、私の午後のスケジュールがどれだけ狂ったか、理解できているのかい?」
「……申し訳、ございません」
俺は椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
実際には、そのデータミスは俺ではなく、課長のお気に入りである後輩が入力したものだ。
俺の役割はその尻拭いだったはずだが、それを指摘する気力すら湧かない。
ここで反論したところで、返ってくるのは更なる罵倒と「協調性の欠如」という評価だけだ。
「謝って済むなら、私らは高い給料をもらっていないんだよ。いいか?君の代わりなんて駅前で石を投げれば当たるほどいるんだ。明日までに全部やり直しておいてくれ」
課長は鼻を鳴らし、加齢臭を残して去っていった。周囲の同僚たちは一瞬だけ俺に同情の目を向けたが、すぐに自分のモニターへと視線を戻した。
俺という人間は、このオフィスに充満する空気の一部に過ぎない。
吸って、吐いて、汚されて。
誰からも必要とされず、誰の心にも残らず、ただ摩耗していく歯車。
その日の残業を終え、終電間際の駅のホームに立ったのは、日付が変わる直前だった。
冬の冷たい風が、薄いコートを突き抜けて心臓を撫でる。
暗い線路を見つめながら、ふと思った。
もし今、ここから一歩踏み出したら、この「代わりのきく人生」は少しはドラマチックに終わるのだろうか。
「……死ぬ勇気すらないくせにな」
自嘲気味に吐き出した独白が、白い霧となって消える。その時だった。
「お疲れ様です、近藤様。今日も実のない一日でしたね」
背後からかけられた声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、そこには夜の闇をそのまま切り取って仕立てたような、長いマントを纏った男が立っていた。
黒い髪。その隙間から覗く鮮やかな青のインナーカラー。
そして何より奇妙なのは、その男が両の目を完全に瞑っていることだった。
それなのに、彼は正確に俺の顔を──いや、俺の内面を見透かしているかのような、静かな微笑を浮かべている。
「……誰ですか」
「失礼いたしました。私はレクター・カーヴェ。不動産、あるいは……『世界』を取り扱う商人でございます」
「世界……?」
冗談か、あるいは新手の宗教勧誘か。
しかし、レクターと名乗った男が差し出した漆黒のカタログを目にした瞬間、俺の思考は凍りついた。
ページの中で、美しいエルフがこちらに微笑みかけ、黄金の城が朝日に輝いている。それが紙に印刷された写真ではなく、まるで窓の向こう側の景色のように確かに「生きている」のがわかったからだ。
「近藤様。あなたはもっと価値のある存在として、完璧な世界に相応しいお方だ」
レクターの低い、心地よい声が俺の脳を直接撫でる。
「誰もがあなたを英雄と呼び、誰もがあなたに愛を捧げる。上司の叱責も、孤独な夜も存在しない。そんな『完璧な世界』を、今なら管理いたしましょう」
「そんなこと、できるわけが……」
「契約はこの扉をくぐるだけ。代価は後払いで結構ですよ。……ようこそ、完璧な世界へ」
レクターが指を鳴らす。
すると、駅のホームにあるはずのない、真鍮の装飾が施された重厚なエレベーターの扉が、音もなく現れた。
扉が開くと、中からは今まで嗅いだこともないような、花の蜜と陽だまりの匂いが溢れ出してきた。
「さあ、近藤様。その一歩であなたの人生は『伝説』に書き換えられます」
俺は吸い寄せられるようにエレベーターに乗り込んだ。
背後で扉が閉まる直前、レクターの声が耳に届いた。
「一つだけルールを。向こう側では決して、『これは偽物だ』と口にしないでください。……それを言えば、ゲームは終了となりますので」
ガタン、という軽い振動。
エレベーターが上昇を始めたのか、下降を始めたのか、俺にはわからなかった。
ただ、次に扉が開いたとき。
俺の目の前には、どこまでも青い空と、俺を「勇者様」と呼んで跪く、美しい少女の姿があった。




