カタログの余白
「幸福とは、何だと思われますか?」
その声は、深夜の地下鉄のホームや誰もいない路地裏、あるいはひどく寝付けない夜の枕元で、唐突に響く。
声の主は、時代錯誤なほど深い黒のマントに身を包んだ男だ。
黒髪に混じる青いインナーカラーが、街灯の乏しい闇の中でそこだけ鋭く浮き上がっている。
レクター・カーヴェ。
彼は常に両の目を閉じたまま、獲物──もとい、将来の「お客様」を待っている。
「愛されること。必要とされること。あるいは、神のように万物を統べること。……人類が数千年の歴史の中で追い求めてきた答えは、実は驚くほど単純なシステムで再現可能なのですよ」
レクターは、細長い指で一冊の漆黒のバインダーを開く。それは、この世界に存在するいかなる不動産業者も取り扱わない、特殊な物件の目録だった。
ページをめくれば、そこには「世界」が並んでいる。
あるページには、魔法の粒子が舞い、伝説の獣が空を駆ける極彩色の楽園。
またあるページには、嫌悪すべき他者がすべて排除され、自分を肯定する声だけが響く優しい虚飾の街。
更に別のページには、絶望と恐怖に支配されながらも、それを打ち砕く「英雄」としての椅子が用意された暗黒の地。
これらすべてが、レクターの取り扱う商品──「異世界」だ。
「神々が世界を創ったというのは、遠い昔の寓話です。今の時代、理想郷は作るものでも目指すものでもない。……対価を払って、買い取るものなのですよ」
レクターは、目を瞑ったまま静かに微笑む。
その微笑みは慈悲深い聖者のようでもあり、あるいは、巣にかかった獲物を眺める蜘蛛のようでもある。
彼は死神ではないし、悪魔でもない。
ただ、人々の渇望を、絶望を、そしてその魂の最後の一滴までを効率よく管理するシステム、その具現者。
「さあ、案内いたしましょう。あなたの惨めな現実を、完璧な物語で塗り替えるために」
レクターが指を鳴らすと、何もない空間に不自然なほど重厚なエレベーターの扉が音もなく現れる。
その扉が開いたとき、向こう側から漏れ出すのはこの腐りかけた現実には存在しない、甘く…それでいて吐き気を催すほど完璧な幸福の匂いだ。
「お客様の幸福を、管理いたしましょう。……ようこそ、完璧な世界へ」
こうして、新たなゲームの幕が上がる。
それが、救済への入り口なのか、あるいは次の世界を構築するための素材への入り口なのか。
それを知っているのは、目を瞑ったままの管理者、レクター・カーヴェだけだった──。




