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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

残響

作者: ユヅリユウ

 あいつがいなくなった。夏の終わり、むせかえるような暑さの中で彼は白い煙となってのぼっていったのだ。

 俺は彼の友人として、葬儀に参列していた。


「息子はいつも君のことを話していたよ」


 彼の父がわずかに赤くなった目元で、柔らかく微笑みながら口を開く。


「ちょっと不器用なところもあるけど、優しいんだって。あの子があんまり嬉しそうに話すから、君のことはまるで自分の子供のように感じていたよ。……なんて、初対面なのにおかしいね」


 彼と同じ面影を宿し、よく似た声で笑う。俺はその表情を見て、左手をそっと背中に隠した。薬指には、彼とおそろいの指輪がはめられている。


「いえ……。彼は俺にとって良い友人でした」


 本当のことを話す気にはならなくて、ただ曖昧に微笑んで返す。息子を亡くしたばかりの親を動揺させることもないだろう。

 あいつは、……あゆむは、まるで歌うみたいに軽やかに笑う人だった。高校の時の同級生で、クラスメイトにいつも囲まれていた彼。人と話すのが嫌いで、周りから遠巻きにされていた俺とは正反対の人間だった。


白須依人しらすよりとくん。……依人くんって呼んでいい?」

「よくない」


 なんの偶然か、俺は彼と同じ図書委員になってしまったのが最初に話したきっかけだった。俺が授業をサボっている間に、委員会決めが行われたらしく、気がついたら仕事を押し付けられていた。最悪である。


 そして俺は放課後の図書館で、前橋歩まえばしあゆむと共にカウンターに座っている。室内は誰もおらず、ただしんと静まり返っていた。春のあたたかな夕日が差し込み、なんとも眠気を誘う。

 どうやら図書委員は決められた時間にカウンターで待機して貸し出しの手続きを行ったり、本の整理を行ったりする、らしい。面倒臭いことこの上ない。おまけに馴れ馴れしく前橋が話しかけてくるものだから、俺は大袈裟にため息をついた。


「話しかけてくるなよ」

「えっ、なんで。せっかくだし仲良くなろうよ」


 彼が制服のネクタイをいじり、唇をとがらせながら「いいでしょ?」とわざとらしく上目遣いで覗き込んできた。それを無視していると、彼がため息をついて本を読み始める。最初からそうしてればよかったんじゃないか。俺に構うなよ……。


「ねえ、何読んでるか気になる?」

「気にならない」

「やだな、話題提供してあげたのに。つれないね」


 懲りずに前橋が話しかけてきたので俺は淡々と返事をする。しかし彼は聞いてもいないのに、手に持っている文庫本の表紙を俺に見せてきた。

 そこには『太宰治短編集』と書かれている。


「知ってる? 太宰治。有名どころだと、『人間失格』とか、『走れメロス』だね」

「あ? あー……授業でやったような、やってないような。あれだろ、”メロスは激怒した”とかなんとかってやつだろ」


 思わず返事をすると、前橋が「そうそう、よく知ってるね」と柔らかく笑い、それから歌うような口調で続けた。


「僕はこの中でも『駈込み訴え』という短編が好きでね、ユダとキリストを描いた作品なんだ。ユダって知ってる? 現代でも裏切り者の代名詞として有名なんだけど」

「さっきからばかにしてんの?」

「まさか。してないよ」


 なんなんだこいつ……。そう思うのに、彼が軽快な語り口で話すものだから聞き入ってしまった。


「ユダはね、キリストに愛されたかったのに彼が思うほどの愛は返ってこなかったんだ。だから銀三十枚を対価に、キリストを売ってしまう。史実だと最終的にキリストは処刑されるし、罪の意識からユダは自殺を選ぶんだけど。『駈込み訴え』はその中の一部分、キリストを売るシーンを描いているんだ」

「はあ……?」

「僕、一つの愛の形としてこの作品が好きなんだ」


 前橋が華奢な指先で文庫本の背表紙をゆっくりとなぞる。


「いや……愛されなかったから相手を売るって……身勝手すぎるだろ」

「そうだね」


 俺の言葉に、前橋が「ふふっ」と笑う。それから小さく呟いた。


「でもそのくらい、愛していたんだね」


 なんだそれ、と言いたかったのに言えなかった。彼がなんだか寂しそうな目をしていたから。

 しかしそれを拭い去るかのように、前橋は立ち上がりカウンターを出て行く。そして窓際に寄り、そっと窓を開けた。野球部が放課後のグラウンドで練習する声が響く。春特有の柔らかい風がカーテンを揺らした。


「初めて読んだ時、いいなあって思ったんだ。僕、こんなに誰かを愛したり愛されたりしたことないから」


 彼はいつもクラスメイトに囲まれ、みんなから”王子様”ともてはやされていた。お前なら、愛するのも愛されるのもよりどりみどりだろ。一体何を言っているんだ。


「さっきからまじでなんの話してんの……」


 俺が眉を寄せて聞くと、前橋は「うーん、誰かに聞いてもらいたかったんだよね」と首を傾げる。


「それなら俺以外にいくらでもいるだろ」

「やだなあ。みんなに話したら”歩くん、どうしたの”って大騒ぎになっちゃって、あっという間に話が広まっちゃうよ」

「じゃあなんで俺に話してんだよ……」


 さすがに呆れながら返事をすると、彼は悪びれもせずに言った。


「だって依人くん、友達いないでしょう。だから広まる心配ないかなって。僕、実は結構打算的なんだ」


 最悪だこいつ……。俺が絶句しているというのに、前橋は鈴を転がすような声で笑っていた。

 それからというもの、図書委員会の当番が巡ってくるたびに前橋は俺にあれこれと話しかけてきた。クラスメイトに話せばいいというのに、俺と話す時に限って「依人くんはどういう時に愛されてるって思う?」などとよくわからない話題ばかり持ち出してくるのだ。

 昼間にクラスメイトと「中間テストやだねー」みたいな当たり障りのない会話してたくせに。なんで俺に対してだけそうなんだ。


「どうもこうも……愛されてる実感とか、よくわかんねえし……強いて言うなら特別扱いされた時、とか……」


 思わず答えてしまい、かあっと顔が赤くなるのを感じる。適当にごまかせばよかったのに、なんで真面目に返事をしているんだ。


「なるほど……特別扱いか。確かにね」


 春から夏へと季節は移り、図書室内は冷房がよく効いている。しかし相変わらず室内には誰もいないままだった。すると前橋が立ち上がり、壁に貼られた掲示物の前に立った。


「じゃあ依人くん。僕と一緒にここへ行こうよ」


 彼が指差す先には”夏祭りのお知らせ”と書かれたポスターが貼られている。


「は? いやなんで俺と……。お前なら他にいくらでも相手が……」

「僕が依人くんと二人で行きたいんだ」


 はっきりと言い放たれた言葉に固まってしまう。それから彼が首を傾げ、ダメ押しとばかりに覗き込んできた。彼の底知れない瞳がこちらを見ている。俺はそこから目を離せなかった。


「ね、いいでしょう?」


 結局俺は断りきれず、気がついたら頷いていたのだった。

 それから数日後、俺は前橋と一緒に夏祭りに来ていた。神社の境内は賑わい、提灯が橙色の明かりを放っている。屋台から香ばしい匂いが漂い、お面をつけてはしゃぐ子供達が駆け抜けて行く。


「おい……正気かお前……本当になんで俺……?」

「どう? 僕の浴衣、似合う?」


 彼はなぜかちゃんと浴衣を着てきたらしく、俺の前でくるりと一周回って見せた。白地のそれは彼によく似合っていたが、どう考えても見せる相手が違う。


「いやそうじゃなくてな……。お前ならもっといただろ……」

「依人くんのために着たんだから、褒めてよ」

「おま、怖いって! なんなの!」


 さすがに悲鳴を上げると「はいはい、もう行くよー」と前橋が俺の腕を引っ張る。そこからは彼に連れられるまま、祭り会場を巡った。射的、金魚すくい、たこ焼き、わたあめ、焼きそば、フルコースである。


「楽しいねえ」

「そりゃよかったな……」


 俺はぐったりとした心地で返事をする。神社の階段に座り込み、彼はあんず飴をかじっていた。木々の隙間から夜空が覗いており、もうすぐここに花火が打ち上がる予定である。

 なんだかんだ楽しんでしまったのが悔しい。射的で的を射抜いたら前橋が「すごいすごい」と俺を囃し立て、金魚すくいは「器用なんだねえ」と褒めてくれた。人を持ち上げるのが上手いのが腹立つな。そしてそれに乗ってしまった自分にも。彼のそういうところが人気者たらしめている理由なのだろう。


「……なあ、本当に他の奴と来なくてよかったのかよ」

「まだその話してるの?」


 俺が改めて聞くと、前橋がくすりと笑う。


「いいんだってば。僕がしたいようにしてるだけなんだから」


 周囲に人影はなく、階段の下からは賑やかな声が聞こえてくる。ここまで登ってきている人間はいないみたいだ。あまり人混みが得意ではないので、こうして休憩できてほっとした。彼が疲れている俺に気がついたのかなんなのかはわからないが、「階段の方に行こうよ」と誘ってくれたのだ。


「あ、そうだ。したいことついでに、僕と付き合ってほしいんだよね」

「は……?」


 その瞬間、夜空に花火が打ち上がった。破裂音と共に、色とりどりの光が咲き誇る。だけど俺はそれどころじゃなかった。前橋の顔が近づいて、俺と唇を重ね合わせていたから。


「な、な……なん!?」

「ふふっ、言ったでしょ? 僕、愛したり愛されたりしたことないから羨ましいって」


 いや、言っていたけど……なんでいまそんな話を……、と俺は呆然と彼を見つめ返す。


「こういうのは好きな相手とするもの、では……?」

「うん。依人くんとならできる気がしたんだよね。愛するのも、愛されるのも」


 俺は目を丸くして固まった。ちょっと待て、順番がおかしいだろう。俺が好きだからこういうことをしたんじゃないのか。


「僕と一緒に、実験してくれる?」


 前橋が目を細め、艶やかに笑った。俺はその笑みから目を離せないまま、小さく頷いてしまったのだった。自分でも、なんで了承したのかわからない。

 結局、前橋……いや歩と俺はそのまま一緒に居続けていた。まるで意味がわからないというのに彼の柔らかく笑う声とか、全く読めない言動だとか、底知れない瞳の奥だとか、そういうもの全部から目を離せなかったのだ。


 高校を卒業して、俺たちが大学に通い始めても関係は保ったままだった。歩は俺をなぜだか1番に優先し、「依人くん、これ好きって言ってたよね」なんて言いながら俺の好きな食べ物を与え、せっせと世話をした。

 歩はどこかに出かける時も、何をする時も俺を大事にしてくれる。一般的に見たら愛されているのだと思う。でも、これは本当にそうなのだろうか。


 深夜、彼が眠った後にそっと背中に手を沿わせる。彼の背骨をなぞり、じわりとした体温に触れた。こんなに近くにいるのに、どこか遠い気がする。彼は本当に俺を見てくれているのか。

 彼と俺の手には、安いシルバーリングがはめられている。歩が「誕生日プレゼントだよ」と買ってきたものだ。


「バイト代で買ったから、安いものしか無理だったんだ。でもいつかちゃんとしたものを買うから許してね」


 あの時、歩はそう言ってた。俺は別に指輪なんかどうでもよかった。こんな形に見えるものじゃなくて、もっと別の……形のないものが欲しかった。

 真っ暗な部屋の中、歩の規則正しい呼吸が聞こえる。遠くで冷蔵庫のファンが低音を響かせた。秒針の音が小さく響き、まるで世界に二人っきりみたいだと思った。

 でも俺は、こんなにも近くにいるこの人の心を手に入れていない。


 なんで今も、歩と一緒にいるのかわからない。だけど放課後の図書室で「こんなに誰かを愛したり愛されたりしたことない」と寂しげに笑っていた横顔が頭に焼き付いて離れないのだ。

 歩からすれば、俺との関係はただの”実験”で、自分が恋愛できるか試しているのだろう。それでも、掴みどころがなくて今にも飛んでいってしまいそうなこの人を、俺は放っておけないと思ってしまった。

 おかしいな、俺はこんなはずじゃなかった。他人と話すのが嫌いで、別に一人のままでいいって思っていたはずなのに。


「責任とれよな……」


 小さく呟いた声は、眠っている歩には届かない。それでもいいと思った。いつかこの人が”愛”というものを知って、もしもそれを俺に向けてくれたら、それ以上に嬉しいことはない。まあ別に、俺じゃなくてもいいですけどね。……なんて強がりつつ、彼の鼓動に耳を澄ましながら目を瞑った。


「……責任とってもらうつもり、だったんだけどな」


 俺は海を見つめながらぼんやりと呟く。あれから少し経って、歩は眠るように息を引き取った。何があったというわけでもない。ただ突然、夜中一人で急性心不全を起こし朝にはもう亡くなっていたのだ。俺はその時、彼のそばにはいなかった。たまたま会う予定がなく、自分の家でのんびりとしていた時のことだった。彼は結局、死ぬ時すら俺をそばには置いてくれなかったらしい。

 ……まあ、自殺でもないし、まだまだ生きるつもりだったんだろうけどな。


 人気者の歩がこの世を去ったことは、周囲にとって大層衝撃だったらしく、葬儀では彼の友人たちが泣き叫んでいた。俺はそれを遠巻きに見て、ただ指輪をなぞっていた。

 そんな場所に耐えられず、結局こんなところまで逃げ出してきてしまった。もうシーズンの終わった海は観光客もほとんどいない。だけど夏の暑さはまだまだ健在で、日差しが肌を焦がすように焼いた。

 こんな風景の中に喪服姿の男がいるのはさぞ異様な光景だろう。


 歩が俺を愛していたかはわからない。でもたぶん”実験”でしかなくて、愛していなかったんじゃないかなと思っている。……今となってはもう、答えはわからないけれど。

 俺は海に向かい合って立ち、指輪を外して手に持った。それから大きく振りかぶって、そのまま投げ込む。ぽちゃん、と間抜けな音がして指輪が沈み込んでいく。それはやがて波に攫われて見えなくなった。

 ユダはキリストの死後、銀三十枚を神殿に投げ込んで首を吊った。でも俺は、あいつの後を追ってなんかやらない。


「ざまあみろ」


 お前は誰かに求められ、その裏返しで売られ、そして後を追われるほどに狂おしく愛されたかったんだろう。でも俺はそんなこと、絶対にしてやらない。


「お前のことなんか愛してない」


 俺は海を睨みつけながら呟いた。

 俺を好き放題振り回して、勝手にいなくなった奴のことなんか、愛していない。その証拠に、俺は泣いてやしないからだ。歩がいなくなってからずっと、一粒も涙をこぼしていない。


「最初から、お前のことなんか少しも愛してなかった」


 低く、唸るように告げる。お前の思い通りになんかなってやらない。俺を置いていったお前になんて、俺は少しも心を向けてやらない。

 柔らかな波の音が響く。眩しいほどの太陽が俺の肌を焼いた。俺はもう立っていられなくて、その場に膝をつく。


「愛してなんか……」


 繰り返そうとして、うまく言えなかった。視界が滲む。鼻の奥が痛み、拳を握りしめた。


「愛してた」


 あいつが歌うように笑う姿を思い出しながら、ほんの少しだけ、俺は泣いた。

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