8.香りに託す心
香料を量り、熱を加え、蒸留し、調和をとる。
その繰り返しは、私にとって日常で、呼吸のようなものだった。
でも今は、少し違う。
心が、ざわついている。
まるで気持ちが落ち着かない。
――それは、彼の姿が浮かぶからだ。
ジュード。
第二王子であり、私の元許嫁の兄。
誠実で、どこまでもまっすぐな人。
あの人が「調香師としての君を信頼している」と言ってくれたとき、私の胸は静かに波打った。
気づきたくなかったのに。
気づかないふりをしていたかったのに。
もし香水に想いが宿るのなら。
今の私はきっと、彼のために香りを作っている。
「……何を考えてるのよ、私」
小さくつぶやいて、ガラスの容器を持つ手を握り直す。
思いを閉じ込めるように、香料の瓶を並べた。
逃げるように、作業に没頭する。
けれど、調香に集中しようとすればするほど、心の奥で疼くものがあった。
私の本当の名は、エメリナ・エクルンド。
元公爵令嬢で、第一王子の許嫁で、王女クレアの親友だった人間。
そして、クレアの死に関わったとされる容疑者。
疑われ、謗られ、王都から追放された。
そしてきっと、ジュードもまた、私を疑っている。
あの日、姉を殺した犯人に違いないと、エメリアを疑っているに違いない。
けれど、私は何も弁明できない。
本当の名前を名乗ることさえできない。
それが、どれほど苦しいことか。
あの人と言葉を交わすたび、心が揺れる。
でも、この距離を縮めることはできない。
正体を明かしてしまったら、すべてが壊れてしまう気がするから。
だからせめて。
せめてこの香りだけでも、私のまっすぐな想いが届けばいいと思ってしまうのだ。
香りは嘘をつかない。
むしろ、私の心を正直に映し返す。
それが、クレアが私に教えてくれたことだから。
***
『香りには、気持ちがにじむのよ』
かつて、王女クレアはそう笑って言った。
淡い金糸のような髪は陽の光を受けてやわらかく輝き、瞳は湖のように澄んだ青色をしていた。
誰よりも気品に満ちていて、それでいて誰よりも人の心をよく見ていた人。
控えめなドレスに身を包みながらも、クレアの立ち姿は人目を引いた。
けれど──人の心をもっとも惹きつけたのは、彼女が誰かを思いやるときに見せる、あのやさしい笑みだった。
『あなたの香水は、いつもやさしくて、静かに背中を押してくれる。だから私は好きよ』
思い出すその笑顔が、胸に沁みた。
***
静かな店内。
調香机の上には、小さなガラス瓶がひとつ。
完成した香水は、太陽の光を受けてやわらかくきらめき、私の心をそのまま映しているように澄んでいた。
私はその瓶を手に取って、ふわりと香りを確かめた。
懐かしさと、あたたかさ。
そして、胸の奥にしまっておきたい感情。
「……これが、私の答え」
香りの余韻が、心を静かに満たしていく。
親友のクレアに捧げる、香り。
そして、ジュードに届ける、私の心。
けれど、その香りが完成したことが、なぜか少しだけ、寂しくもあった。
この香水を再現する時間は、ジュードと過ごす日々でもあった。
立場の違いも、過去のしがらみも、すべてを忘れて。
ただ、彼のために香りを紡ぐその時間だけが、私たちにとって、たったひとつの繋がりだった。
もうすぐ、終わってしまう。
もうすぐ、この香りも、彼の手に渡ってしまう。
「それでいいのよね、私」
そっと瓶にふたをして、私は目を閉じた。
香りが、胸の奥でそっとささやく。
それはきっと、誰にも届かない小さな想いだった。
***
扉のベルが鳴ったのは、お昼を過ぎた頃合いだった。
音がする前から、なぜかわかっていた。
今日なら、彼が来る気がしていた。
「やあ、また来てしまった」
ジュードはいつもの私服姿で、少しだけ照れくさそうに笑った。
陽の光を受けてきらめく、やわらかな金髪。
瞳は淡くにじむ薄橙――夕暮れ時の陽だまりのような、あたたかな色をしていた。
私は慌てて調香室から出て、カウンター越しに一礼する。
「ようこそ、殿下。……ちょうど、香水が完成したところです」
その言葉に、ジュードの表情がふっと和らいだ。
「本当に?」
「はい。ようやく、思い描いた香りにたどり着けました。王女殿下の、あの香りに」
「……ありがとう。君が引き受けてくれて、本当に良かった」
ジュードは一歩、カウンターに近づいた。
「でも困ったな。依頼が終わったら、もうエマと会えなくなる」
目が合った。
私の胸が、音を立てて跳ねた。
「やめてください。私が本気にしたらどうするんですか」
「はは、本気なんだけどな」
ふっと、ジュードは目を細めた。
「……これが姉上の香り」
彼は震える手を伸ばし、そっと、カウンターの上の香水瓶を撫でるように指先を添えた。淡い琥珀色の液体は、光を受けてやさしく揺れる。
クレアが愛した香り。
私だけが調香できる、あのひとときの面影。
「嗅いでいいかい?」
ジュードの言葉に、私はうなずいた。
いよいよ、このときが来たのだ。