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7.指先にふれたぬくもり

 調香とは、香料を集め、分量を量り、組み合わせていく作業だ。

 けれど、それだけでは足りないのだと、私は知っている。

 ――本物の香りには、記憶や感情が宿るのだ。


 王都から届いた小包を開けたとき、私の胸は高鳴った。

 中に収められていたのは、王家の庭園でしか育たれない希少な花ウィンダミア。

 クレアの香水を再現するために必要な、最後のひとかけらだった。


 ウィンダミアの淡く乳白色の花弁は、指先がふれただけで崩れそうなほど繊細だ。

 中心から立ちのぼる香りは、甘くやわらかく、どこか懐かしさを含んでいる。


「ようやく、この幻の花と会えたわ」


 小さくつぶやいて鼻先を近づけた瞬間、からん、と扉のベルが鳴った。

 まるでそれを狙ったようなタイミングだった。


「こんにちは。経過が気になってね、ついまた足を運んでしまった」


 現れたのは、やはりジュードだった。

 彼はいつものようにフードを被った私服姿で店内に入ると、視線をすっと花の箱へ向けた。


「……殿下、王族はお忙しいのでは?」

「うん。でも、香りで癒されたい気分なんだ」


 ジュードは軽く肩をすくめながら、カウンター越しに小箱を覗き込んだ。


 彼がこんなにも私の店に気軽に足を運べるのは、第二王子という立場ゆえだろう。

 兄である第一王子が王家の後継者として、すでに確固たる地位を築いているため、ジュードは王族でありながら政略結婚の駒にされることも、政治の最前線に立たされることもなかった。

 王族の中では珍しく、どこか風通しのいい、自由な立場にいる人――そんな印象があった。


「でも、ちょうどいいタイミングでした」


 私はそっと笑って、王都から届いた花を見せる。


「さっき、必要な香料が届いたところなんです」




   ***



「これが幻の花ウィンダミア、か。頼まれておいてなんだが、こんなに簡単に手に入るとはね」


 ジュードが驚きと興味の入り混じった声をもらすと、私はくすりと笑って肩をすくめた。


「王族の力、恐るべしですね」

「褒められてるのか、からかわれてるのか……」


 冗談めかした返しに、私はふっと口元をゆるめた。

 ジュードは箱の中からひとつ花を取り出し、そっと香りを確かめる。


「姉上がこの香りをまとっていたんだな。強くはないのに、不思議と記憶に残る」

「それがこの花の魅力です」


 私はうなずき、ジュードの手から花を受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間。


 ジュードの指先が、かすかに私の指先に触れた。


 ほんの一瞬のことだった。

 けれど、私の胸はどきりと跳ねるように脈打ち、ジュードもわずかに目を見開いた。

 すぐに手を引いたジュードは、小さく息を吐いた。


「すまない。花が繊細だから、落としそうで」

「……いえ、大丈夫です」


 私は平静を装いながら花を皿の上に並べたが、ジュードの視線がさっきより少しだけ自分に向けられていることに気づいてしまった。



   ***

 


 調香作業は順調だった。

 ウィンダミアを加えたことで、香りはぐっとあの唯一無二の香水に近づいた。

 けれど、なぜかほんの少しだけ、決定的な何かが足りなかった。


「記憶のなかの香りと、微妙にずれてる……」


 つぶやきながら、私は目を閉じて記憶を辿った。

 王宮の庭。陽の光の下で笑うクレアの姿。

 その肩にやさしく香っていた、あの空気。


『香水には、作り手の感情が宿るのよ』


 ふいに、彼女の言葉が脳裏に蘇る。


『だから私は、あなたの香水が好き。言葉じゃなくて、香りで伝わってくるもの』


 感情――

 今の自分は、何を思ってこの香りを作っているのだろう。

 気づけば、私の心に浮かんでいたのは、ジュードの姿だった。


 花を手に取り、静かに微笑む顔。

 ふいにふれた指先のぬくもり。


「……何を考えてるのよ、私」


 自嘲気味に呟いて、私は瓶の蓋を閉じた。

 けれどその動揺は、香りでは隠しきれなかった。

 


   ***

 


 ジュードが帰ると言い出したのは、陽が傾き始めたころだった。


 その前の数時間、彼は店の奥にある調香室の椅子に腰をかけ、静かに私の作業を見守っていた。

 ときどき質問を投げかけたり、花の香りをメモに取ったりしながら、まるで香水づくりそのものに興味を持っているかのようだった。


「これは、柑橘系のトップノートだよね?」

「ええ。最初に鼻に抜ける軽やかな印象を決めるものです」


 そんなやりとりをしながら、私も不思議と、緊張せずに手を動かしていた。

 話していると、不思議と気持ちがやわらいだ。ジュードが第二王子であることも、私が追放された過去も、今だけは関係ない気がしてしまうのだ。


「君が香りのことを語るときの目、すごく澄んでる」


 ぽつりとジュードにそう言われたときは、思わず顔を背けてしまった。

 やめてほしい。まるで口説き文句みたいではないか。


「そういうの、他の女性にもしているんですか?」

「はは、そんなわけないだろう。僕が頼んだのは香水の再現だけど……」


 そこで彼はふと、私の目をまっすぐに見つめる。


「気がつくと、君のことばかりが気になっている」


 私は言葉を失った。

 返答を待たず、ジュードは照れ隠しのように肩をすくめる。


「香水より先に、調香師のほうに惹かれてしまったようだ」

「……殿下」

「冗談だよ」


 そう言いながらも、彼の目には真剣な色が宿っていた。

 ジュードはそっと私の手を取り、そのぬくもりを伝えるように優しく握った。


「君の作る香りを、待ってる」


 手を放し、彼は扉へと向かう。

 からんと鳴るベルの音を残して、店から姿を消した。


 静かになった店内で、私はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。

 そして、胸に手を当て、ぽつりとつぶやく。


「……ずるいわ」


 その指先に残る温度は、まだ、消えていなかった。

 私の顔は、きっと真っ赤だったことだろう。

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