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6.足りない香りと、近づく距離

 私は眉間に皺を寄せて香料の瓶と向き合っていた。

 香水店の一角にある小さな調香室の机の上には、並べられた瓶と試作中の香水。

 けれど、いくつ調合を繰り返しても、クレアの香りにたどり着くことはできなかった。


「やっぱり、“あれ”がないと無理ね」


 試作品を手に取り、ふっと香りを嗅いだ。惜しい。

 限りなく近づいてはいるのに、どうしても届かない。

 それはまるで、過去の誰かの手に指先が届かないような感覚だった。


 小さく息を吐いたそのとき。

 からん、と軽やかな音が香水店に響いた。


 扉のベルの音。

 応対の予定は入れていない。

 まさか、と思いながら私は顔を上げた。


「エマ。忙しいところ、すまないね」


 扉の向こうに立っていたのは、ジュードだった。


「……殿下? 今日はどうされたんですか」


 私はびっくりして、咄嗟にばくばくする胸を押さえた。

 心臓に悪いったらない。


「香水の進捗が気になってしまってね。またお忍びで、様子を伺いに来たんだ」


 ジュードはそう言い訳めいた言葉を口にしながら、どこか嬉しそうな表情を浮かべていた。

 その顔を見て、私は思わず苦笑する。


「また……ですか? もうこれで何日連続だと思ってるんですか」


 そう口ではたしなめつつも、私の声にとげはない。

 実のところ、彼がこうして毎日のように顔を見せるようになったのは、ここ数日のことだった。


 最初は進捗の確認という名目だったけれど、今では特に用事がなくても、ふらりと立ち寄っては棚を眺めたり、調香室の入り口で雑談をしたりするようになった。


 他人行儀だった距離感も、少しずつほぐれてきているのを、私自身も感じていた。

 私は肩をすくめ、小さくため息をついてから、手にしていた香水瓶をカウンターに置いた。


「まあ、どうぞ。ちょうどご相談もありましたし。お茶でもいかがですか?」

「それはありがたい」


 ジュードは嬉しそうに目を細め、店の奥へとついてくる。

 こうして一緒に過ごす時間が、以前よりもずっと自然になっていることに、私はふと気づいた。


 

   ***

 


「……実は、ひとつだけ問題があるんです」


 私は単刀直入に切り出し、とある香料が入手できないことを明かした。

 このままでは、亡き王女の香水が再現できないことも。


「なるほど。そのウィンダミアって香料が必要なんだな」


 私の説明に、ジュードは微笑んだ。

 調香の再現に必要な香料のひとつが、現在は市場に出回っていないものなのだ。

 その花は王家直轄の庭園でのみ育てられており、個人の調香師の私には手の届かない代物だ。


「そうです。市井には流通していませんし、栽培許可も厳しく制限されています」

「なら、僕が取り寄せよう。臣下に掛け合えば、手に入るはずだ」

「……簡単に言いますね」


 私は思わず笑みをこぼした。


「便利ですね、王族という立場は」

「言うじゃないか」


 ジュードもまた口元をゆるめた。

 軽口を交わせるようになったのは、わずか数週間の関係とは思えなかった。


「でも、助かります。本当に、ありがとうございます」


 私はジュードに頭を下げた。

 彼にこんな一面があることを、あの頃の私は知らなかった。

 まさか平民の立場になって、彼とこんな軽口を叩くようになるだなんて。



   ***



 あの頃の私は、ジュードに対してもう少し距離を置いていた。

 公爵令嬢であり、彼の兄である第一王子の許嫁であり、クレアの親友。

 ジュードとは近しい立場のはずだったけれど、不思議とあまり会話を交わすことがなかった。


 ただ、一度だけ――あれは、クレアの誕生日を控えた晩だったか。

 庭園でひとり佇んでいたところ、偶然彼に出会い、会話をしたことがある。


『姉上の香り、君が作ったんだろう』

『ええ。すこしでもクレアに似合う香りをと』


 そう答えると、彼はしばらく私の顔を見て、それからふっと小さく笑った。


『……あの人、君の香水を身につけるとき、とても嬉しそうだったよ』


 その言葉に、思わず胸が熱くなったことを覚えている。

 あの頃の私は、ジュードのことを「少し気難しい人」くらいに思っていた。

 でもこうして軽口を叩ける関係になってしまった今は、その印象が塗り替えられていく気がしていた。


 やっぱり、クレアの言う通りだった。

 ジュードはやさしい人だ。



   ***



「何度見ても、見事な調香室だな」


 私の案内で、小さな室内を見渡したジュードは、素直に感嘆の声を漏らした。その声音は、世辞ではないように思う。

 香料瓶が整然と並び、細やかな道具が使い込まれた様子を見て、この仕事に私がどれだけの情熱を注いでいるのかが伝わったのだろうか。

 そうだったらいいな、と思う。


「香りって、不思議だな。見えないのに、人の心を動かす」

「香りは、記憶に染み込むものですから」


 私は淡々と応じながらも、視線は手元の調香の作業に集中していた。


「人は、言葉や顔は忘れても、香りは覚えていることが多いんです」


 その言葉に、ジュードは私に視線を向ける。


「……君の香りも、どこか懐かしい気がする」


 私の手が、ぴたりと止まった。

 動揺を表に出すわけにはいかない。

 私は何も言わず、静かに瓶の蓋を閉めると、ジュードに向き直った。


「過去に会った人の香りと、偶然似ているのかもしれませんね」

「そうかもしれないな」


 ジュードもまた、それ以上は深く追及しなかった。

 彼はただ、微笑みながら私の作業を見つめるだけだ。


 

   ***

 


 帰り際、ジュードは扉の前で立ち止まった。


「必要なものがあればまた、また遠慮なく言ってくれ」


 そうして彼は私の肩に手を置いた。


「調香師としての君を、僕は信頼している」


 私は驚いて彼を見た。

 そして、少し遅れて、仰々しく頭を下げる。


「ただの調香師にもったいないお言葉です、殿下」

「ああ。また来る」


 扉のベルが再び鳴り、ジュードは去っていった。

 私は彼の背を見送りながら、聞こえないよう小さくつぶやくのだ。


「……信頼、ね」


 私の正体を知ったら、ジュードはどうするだろうか。

 少なくとも、もう気軽に軽口を叩きあうことはないだろう。

 そう思うと私は、自嘲気味に笑うことしかできなかった。

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