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5.辺境の町の小さな贈り物

 それは、町の雑貨店のご主人が、商品棚の整理をしていた私に、ふと漏らした一言から始まった。


「もうすぐ、うちの女房の誕生日でね。何か特別なものを贈りたいんだが、いい案が浮かばなくて……」


 雑貨店のご主人の声は、どこか照れくさそうなものだった。

 私は手にしていた香料瓶をそっと棚に戻し、彼の横顔に目を向ける。

 無骨な手で納品書の束をめくる彼の背中は、どこか不器用ながらも真剣な思いがにじんでいた。


「もしよろしければ、香水を贈るのはいかがでしょう?」


 そう提案すると、ご主人は一瞬動きを止めた。

 手にしていた納品書の束をめくることを忘れて、こちらを見つめる。


「……香水、か」


 ぽつりと呟いたその声は、まるで初めてその言葉を口にしたかのように、どこか遠慮がちだった。

 ご主人はしばらく考えるように視線を宙にさまよわせ、やがてぱちぱちとまばたきをしてから、照れたように笑った。


「贅沢すぎやしないかな。あいつ、そんなもん、もらったことないと思うよ。でも……」


 言いかけて、ふっと口元を緩める。


「きっと、喜ぶ。たまには驚かせてやるのも、悪くないかもしれないな」


 その表情ににじむ、長年連れ添った人への愛情に、私はそっと胸があたたかくなるのを感じた。

 私はさっそく、香りのヒヤリングを始める。


「奥様は、どんな香りがお好きですか?」


 そう尋ねると、ご主人は腕を組み、少し首をひねって考え込んだ。


「そうだなあ……花なら、庭に咲くすみれをよく世話してるな。あとは、洗濯のあとに干したリネンの香りが好きだって、よく言ってる」

「なるほど、すみれと、清潔感のある香りですね。他には、奥様の好きな食べ物や、思い出の場所など、香りと結びつきそうなものはありませんか?」

「食べ物なら、焼きりんごかな。昔からよく作ってくれてた。あれを焼いてると、家が一気に明るくなるようで……」


 ご主人は少し目を細め、奥様の顔を思い浮かべているようだった。


「あと……そうだな。よくふたりで、丘の上まで散歩に行くんだ。春先には、一面に草の香りが広がっていてな。あいつ、あの丘が大好きなんだよ」


 すみれ、焼きりんご、リネン、春の草。

 私はメモに、順に書き留めていく。

 愛情のこもったエピソードが、ひとつひとつ、香りのイメージをふくらませてくれる。


「ありがとうございます。奥様の雰囲気に合う、やさしくてあたたかい香りに仕上げてみますね」


 私がそう言うと、ご主人は気恥ずかしそうに鼻の頭をかいた。


「はは……よろしく頼むよ、先生。あいつ、きっと喜ぶと思う」


 そのときだった。店の扉がカランと軽やかな音を立てて開いた。

 反射的に顔を上げると、風の流れとともに、一陣の冷たい空気が店内に入り込んできた。

 その風をまとって現れたのは、フードを下ろし、淡い金髪を揺らしたジュードだった。


 今日もお忍びなのだろう。庶民のような私服姿ではあるものの、彼がその場に立っただけで、店内の空気がすっと引き締まるように感じられた。

 背筋をまっすぐ伸ばしたその姿に、自然と視線が引き寄せられる。


「こんにちは、エマ」


 落ち着いた低めの声とともに、彼は私に向かって歩み寄ってきた。


「間が悪くてすまない。接客中のようだね」


 私は小さく首を横に振った。


「いえ、大丈夫です。もうすぐ終わりますので……」


 ジュードはそれ以上は踏み込まず、少し離れた棚の前で静かに立ち止まった。

 私たちの会話を邪魔しないように、さりげなく気を遣ってくれているのが伝わってくる。


 私は視線を戻し、ご主人に微笑みかける。


「完成までに数日いただきますが、よろしいですか?」

「もちろん。そちらの都合に合わせてくれればいい。……なんだか、楽しみになってきたな」


 ご主人はごつごつとした手で頭をかきながら、依頼費用の入った金貨の袋を机の上にそっと置いた。

 そうして、照れくさそうに笑ったあと、背中を丸めて店を去っていった。

 私は少しだけ深呼吸してから、ジュードのもとへ向かう。


「お待たせしました。わざわざどうされたのですか?」


 そう尋ねると、ジュードは手に取っていた小さな瓶をそっと棚に戻した。


「いや、ちょっと顔を見に来ただけだよ。……さっきの人、誰かと思ったら依頼主だったんだね?」

「ええ。雑貨店のご主人で、誕生日に奥様に香水を贈りたいと」


 私は自然と声のトーンがやわらかくなるのを感じた。

 人のために香りを贈る。そんな気持ちは、いつだってあたたかい。


「香水って、そんなふうに人の心をつなぐものなんだな」


 ジュードの横顔が、どこかやさしげだった。

 まっすぐにこちらを見ているわけではないのに、その視線の奥にある思いが伝わってくる。


「それで……その香水、もう構想は?」

「はい。奥様の好きな花がすみれで、焼きりんごや干したリネンの香りも好きだそうです。あとは、ご夫婦でよく散歩する丘の香りも……。できるだけ、思い出に寄り添った香りにしたいと思って」


 私はそう言って、ジュードの前にいくつかの紙を広げる。

 そこには、ご主人から聞き取ったメモと、香料の組み合わせの案がいくつか書き留められていた。

 ジュードは横からその紙を覗き込み、静かに微笑んだ。


「奥方の誕生日に間に合わせなければいけないんだろう?」


 ジュードは私の目を見つめて、穏やかな声で言った。


「僕の依頼は後回しで構わない。君がどんな香りを作るのか、僕も楽しみにしているよ」


 その言葉には、ただ純粋に私の仕事を応援する気持ちが込められていた。

 私は思わず深く礼をする。


「お気遣いありがとうございます」


 ジュードはにっこりと微笑むと、静かに店の扉へと向かった。

 カラン、と扉が閉まる音が響いて、店内には私だけが残された。



   ***



 けれど、ひとつ問題が起こった。


 店でひとりになったあと、ご主人が置いていった金貨の袋を開いた瞬間。

 私は思わず小さく息をのむことになる。


「……これは」


 中に入っていたのは、ほんのわずかな額だった。

 庶民にとっては決して少なくない金額なのだろうけれど、香料やアルコール、瓶代などの材料費をまかなうには、到底足りなかった。


 市場で流通している香料の価格は、都市部よりはるかに高い。

 ここは辺境の町。輸送にかかる費用や、限られた在庫がそのまま値に跳ね返ってくる。


 ふだんならば、最低限の予算であっても、それなりにやりくりして応じることができる。

 でも今回の依頼は、求められている香りが複雑だった。

 すみれの繊細なフローラルノート、焼きりんごの甘い温もり、清潔感のあるリネン、そして春の丘の青々とした香り。

 どれも再現には工夫が必要だ。


 私はしばらく香料棚の前で、手を胸元にあてて考え込んだ。

 材料が足りない。足りないけれど、断りたくない。


 金額には見合わない依頼かもしれない。

 それでも、あのときのご主人の表情を思い出す。

 長年連れ添った奥様への、小さな、でも真心のこもった贈り物。


 私は、香りで人を幸せにしたくて、この仕事をしているのだ。

 そう心の中で静かに自分に言い聞かせて、私は棚から手持ちの素材をひとつひとつ引き出していった。


 高価な輸入香料は使えない。

 でも、辺境にはこの土地ならではの香りがある。


 春に摘んでおいた丘の野草の精油。

 近隣の果樹園で分けてもらった蜜りんごの乾燥チップ。

 そして、庭先のすみれから時間をかけて抽出した、ごく微量の香り。


 足りないものは、自分の手で補うしかない。

 私は朝のうちに草原へ出て、野のハーブをいくつか摘んできた。

 控えめに香るそれらの葉は、ブレンド次第で春の風を思わせる清涼感をもたらしてくれる。


 調香室に戻り、私は気持ちを切り替えた。


 この町に住む人々は、贅沢には慣れていない。

 けれど、日々を大切に生きている。

 そのやさしさやぬくもりを、香りのひとしずくに閉じ込めたい。


「大丈夫。きっとできる」


 私はそうつぶやき、慎重にひとつめの瓶の蓋を開けた。



   ***



 それから数日が過ぎた。

 香水店の中は、朝のやわらかな光に包まれている。

 調香室の小さな机の上には、何度も調合を重ねてようやく完成させた香水の瓶。

 淡く輝く琥珀色の液体は、まるで詰め込まれた思い出や感情が、そっと揺れているかのようだった。


 店の片隅には、緊張した面持ちの雑貨店のご主人が、手をぎゅっと組みながら待っている。

 その隣では、ジュードが静かに立ち、表情を崩すことなく私たちのやりとりを見守っていた。


 けれど、まさか本当にジュードがこの日に現れるとは思わなかった。

 ――僕も楽しみにしているよ。

 そう言ってくれたのはただの世辞かと思っていたのに。


 私は香水の瓶をそっと手に取り、ご主人の前に差し出す。


「こちらが、奥様への香水です。心を込めてお作りしました」


 ご主人は両手で丁寧に瓶を受け取り、おそるおそる蓋を開けた。

 ふわりと漂う香りが、朝の空気の中に静かに溶けていく。

 その瞬間、ご主人の目に光が宿った。


「……いやあ、こんなにいい香りを作ってもらえるなんてなあ」


 言葉を絞り出すように、震える声で続ける。

 ご主人は一度ゆっくりと目を閉じ、こみあげる涙を袖でそっとぬぐいながら、もう一度瓶を抱きしめた。


「うちの女房、きっと喜ぶと思う。ありがとうな」


 その言葉に込められた愛情と感謝が、店の空気をあたたかく包み込んだ。

 ご主人は不器用な笑みを浮かべ、ゆっくりとした足取りで店の扉へ向かう。

 振り返ることなく、けれど確かな満足感を胸に秘めているのがわかった。


 私はその背中を見送りながら、胸の奥にじんわりとしたものを感じていた。

 ジュードは静かにその様子を見つめていたが、やがて私の肩に軽く手を置いた。


「君の仕事は本当にすごいよ。人の心に触れる香りを作るなんて、簡単なことじゃない。感動した」


 ジュードは穏やかな声でそう告げる。

 それは世辞ではなく、彼の本心に感じられた。


「殿下、身に余るお言葉です」

「僕の依頼も、どうかよろしく頼むよ。期待しているからね」

「もちろんです。ご期待に沿えるよう努めます」


 私は背筋をすっと伸ばす。


 ジュードは依頼人。私は調香師。

 過去は関係ない。

 私は、香りで依頼人を喜ばせるのが仕事。


 そう自分に言い聞かせた。

ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。

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