45.香りで紡ぐ未来
ある朝、私の元に王国からの正式な文書が届いた。
封蝋には王家の紋章が押されていて、開ける前からその重みを感じる。
それは、王立調香顧問としての役職の打診だった。
その称号は誇らしく聞こえた。
王国の調香師の頂点に立つ者として認められることは、名誉以外の何ものでもない。
だが、その肩書きの輝かしさは、今の自由な生活を手放すことと表裏一体だった。
王家や貴族たちのしがらみに縛られながら、公式の場で責務を果たす日々。
それは、辺境で静かに調香師を続けてきた私の生活が一変することを意味する。
手紙を握り締めたまま、私は長い間の静寂に沈んだ。
自由に香りを調合し、自分らしく生きてきた日々を思い返す。
何か大切なものを失ってしまう気がした。
そんな私を見て、ジュードはそっと近づいてきた。
彼は穏やかな笑みを浮かべ、まっすぐに私の目を見つめる。
「エマ、どこで生きるかは君が決めていい。王都でも辺境でも、僕は君のそばにいたいだけだ」
その言葉は、まるで春の陽射しのように、私の胸にそっと降りてきた。
押しつけがましくもなく、引き止めるわけでもなく、ただ私の選択を尊重しようとするジュードの声。
王都に戻ることの不安。
自由を失うことへの戸惑い。
王立調香顧問という重責への迷い。
そのどれもが、彼の言葉にふれて、少しずつ溶けていく。
私は彼を見上げた。
まっすぐにこちらを見つめるその瞳には、疑いも不安もなく、ただ私という存在そのものを信じている光が宿っていた。
どんな場所でも、ジュードと一緒なら、私は自分を見失わずにいられる。
彼がいるというだけで、未来が恐ろしいものではなくなる気がした。
それは、どんな地位や称号よりも、私の心を強くしてくれる確かな絆だった。
***
第一王子ダナヒューは、静かに事を進めていた。
王家として私の無実を認め、名誉を回復するための声明を準備しつつ、王都の調香職制度にも働きかけていた。そしてその結果として、私を王立調香顧問に任命する手続きが進められたのだ。
私のもとに届いた文書は、その“支援”の証だった。
王立調香顧問の打診を受けてから数日後、ダナヒューは私の前に現れた。
淡々とした口調ではあったけれど、その表情には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「エマ、君には王立調香顧問として、我が国の名誉を背負ってもらいたい。これからは、公の場でその力を発揮してほしい」
その声には、王族としての責任感とともに、どこか個人的な贖罪のような思いがにじんでいた。
まっすぐに私を見つめるダナヒューの誠実なまなざし。
ああ、本当にこの人は変わらない――
私の婚約者だったあの頃から、ずっと。
それは光栄なことだった。
名誉ある任命でもあった。
けれど私の中には、どうしても拭いきれない迷いが芽生えていた。
公爵令嬢として社交界で過ごした日々。
誰かの顔色をうかがい、思うように言葉を発することもできず、ただ定められた未来に従うしかなかった、あの過去。
私はもう、あの頃と同じように生きるつもりはない。
静かに胸に手を当てる。
私の人生を決めるのは――もう、他の誰でもない。私自身なのだ。
***
私は、もう迷っていなかった。
静かに、けれど確かな足取りで、クレアの墓前へと向かう。
古い石造りの墓標には、季節の花々が丁寧に供えられている。
風が木々を揺らし、葉擦れの音とともに、ほんのりと甘い香りが空気に溶けていた。
爽やかな風が頬を撫で、ふと目を閉じると、かつてクレアと過ごした日々が思い出される。
無邪気に笑ったあの横顔。
香りを通して語り合った時間。
すべてが、かけがえのない思い出だ。
「クレア、私は自由に生きるわ。王立調香顧問の役職は断ることにしたの。私らしく暮らしていくつもり」
私はそう語りかけながら、そっと手を合わせた。
過去の痛みや後悔を胸に抱きながらも、それに縛られずに生きていく。
自分の名前で、自分の足で歩くと決めたのだ。
風がふわりと吹いて、クレアの墓前に供えられた白い花が、かすかに揺れた。
まるで彼女が微笑んでくれたような気がした。
――ありがとう。
心の中で、そっとそう呟いた。
振り返ると、少し離れた場所にジュードが立っていた。
何も言わずに、ただ静かに私を見つめている。
その眼差しは、あたたかく、揺るぎなく、まるで陽だまりのようだった。
私はゆっくりと歩み寄る。
そして彼の隣に並ぶと、彼はごく自然に、私の手を取った。
「一緒に歩もう、エマ」
その言葉に、私は小さく頷いた。
未来はまだ見えない。
けれど、もう恐れることはなかった。
私には自分の意志があり、信じてくれる人が隣にいる。
風がまた、香りを運んでくる。
新しい季節の訪れを告げるように。




