44.私が選んだ名前
聖女ヴァネッサの告白から、数日が過ぎた。
今、彼女は王宮の離宮に幽閉され、教会と王家の合同による厳重な取り調べが続けられている。
表向きは「体調不良による療養」とされているものの、真実を知る者たちの間では、その実態が広く知られていた。
あの光と清廉の象徴とされた聖女が、王女毒殺に関与し、王族に対して偽りを重ねていたという事実は、国中に静かに、けれど確実に波紋を広げていた。
取り調べの中で、次々と新たな事実が明るみに出ていった。
ヴァネッサは長年、聖女としての圧倒的な影響力を用いて、教会内の人事に干渉していたという。
自らに異を唱える神官や女官は、あらぬ理由をつけて地方へ左遷させられ、あるいは昇進の機会を奪われた。
聖女に逆らえばどうなるか。
その無言の圧力は、教会を蝕む静かな毒だったのだ。
ある老神官は、震える声でこう語った。
「我らはただ、神に仕えたかっただけなのです。だが、彼女の前では、誰もが口をつぐまねばならなかった」
恐怖と、失望と、諦念が入り混じったその言葉が、耳に残って離れない。
そして、決定的な証拠が見つかった。
教会側の調査官たちがヴァネッサの私室を調べたところ、クレアの香水レシピが発見されたのだ。
それは、私の筆跡で記されたもので、丁寧に革表紙の帳面に貼り付けられていた。
間違いなく、クレアの自室から盗まれたものだった。
静かに、しかし確実に。
聖女の神聖は崩れ始めていた。
それらの証拠が突きつけられたことで、教会内に激しい動揺が広がった。
長年聖女ヴァネッサを支えてきた聖職者たちの多くは、沈黙を貫いた。
だが、胸の奥にくすぶる良心の炎を抑えきれない中堅の神官たちが、ついに重い口を開き始めたのだ。
「これ以上、聖女ヴァネッサの地位を維持することは、教会の信頼を根底から揺るがしかねません」
「我々はただ、香りの神への信仰を守る者であり、権力の手先ではあってはならないはずです」
その内部告発の波は、やがて教会の壁を越え、王国の最高議決機関である評議会へと波及する。
議長の一声で、改めてクレア王女毒殺事件の再検証が正式に決議され、王立魔法薬研究所と王宮医師団による精密な再調査が開始された。
この国を揺るがす事件の真相に、誰もが目を凝らし、息を潜めていた。
やがて、公式の場で発表された報告はこうだった。
「被害者クレア王女に投与された毒は、教会で保管されていた特殊な毒の一種に類似しており、その管理記録には複数の不審な改ざんの痕跡が確認されました。これにより、エメリナ嬢に対する嫌疑は完全に払拭されたものと判断いたします」
議場には再び、静かなどよめきが広がった。
長い間、私を罪人と見なしていた一部の貴族たちが、驚きの表情でこちらを見つめている。
しかし、その視線はもはや非難の色を帯びてはいなかった。
むしろ、真実が明らかになったことで、彼らの中にも戸惑いや複雑な感情が交錯しているようだった。
私はその視線に怯むことなく、静かに立ち上がった。
深呼吸をして、集まった人々を落ち着いた眼差しで見渡す。
「名誉の回復を認めていただき、感謝いたします」
私は静かに言葉を紡ぎながら、一呼吸置いた。
会場のざわめきが一瞬だけ止み、全員の視線が私に集中する。
緊張と期待が入り混じる重苦しい空気が、胸の奥にずっしりと響いた。
しかし、続けて発した言葉は、誰もが予想していなかった。
「けれど私は、もう“エメリナ・エクルンド”として生きることを望みません」
その告白に、議場は一気にざわついた。
驚きと困惑が交錯し、ざわめきが波紋のように広がる。
私は動じることなく、ゆっくりと胸に手を当てた。
鼓動を感じながらも、深く息を吸い込み、覚悟を込めて言葉を紡ぐ。
「過去の自分に戻ることよりも、今の“エマ”という名前と、そこで築き上げた調香師としての信用、そして私を信じてくれる人たち――それらが、何よりも大切なのです」
静かにそう告げた。
私は自らの意志で選んだのだ。
過去の影に縛られるのではなく、新たな自分として歩むことを。
胸の奥に確かな決意が宿り、その想いがゆっくりと全身に満ちていくのを感じる。
そして、私の隣には、微笑むジュードの姿があった。
議場のざわめきは次第に収まり、重苦しかった空気は少しずつあたたかさを帯びていく。
ジュードのおだやかな笑みが、私の背中を押してくれているようだった。
「これからは、過去の名や肩書きに縛られることなく、私自身の道を歩んでいきます」
そう告げると、私はゆっくりと視線を上げ、議会に座るひとりひとりの目を見渡した。
彼らの表情は変わり始めていた。
疑念が消え、理解と共感が芽生えたのを感じる。
ここにいる誰もが、私がこれから歩む未来に期待を寄せているのだ。
ジュードがそっと手を差し出し、私はそれを握った。
そのぬくもりが、これからの困難を共に乗り越えていく力になることを確信した。
「私の名前は『エマ』です――これからもどうぞ、よろしくお願いいたします」
会場の静寂が、拍手へと変わっていった。
それは、私が新たな一歩を踏み出すための祝福の音色だった。
過去を乗り越え、未来へ。
私は、確かな希望を胸に刻みながら、その場を後にした。




