42.崩れゆく聖女
議場の空気がざわめいていた。
貴族たちのどよめきは収まらず、張りつめた空気は、むしろ今にも崩れそうなほど揺らいでいた。
「まさか……」
「聖女に限って……」
「いや、証拠があるというのなら……」
賛同の声、否定の声、沈黙のまま顔を伏せる者。
反応は様々だったが、誰もが動揺しているのは確かだった。
その波紋の大きさに、私は改めて胸が締めつけられる思いだった。
正しいと信じて放った一手。
それがどれだけ大きな石を投げ込んだのか、今さらのように実感させられる。
ざわめきの中心で、ひときわ重たい沈黙が落ちた。
第一王子ダナヒューが、ゆっくりと立ち上がったのだ。
王族としての威厳を湛えたその所作に、議場の空気が一瞬で引き締まる。
ざわついていた貴族たちも、思わず言葉を呑み込んだ。
まるで誰もが彼の口から発せられる言葉を待っていたかのように。
ダナヒューの目が静かに動き、議場を一巡する。
そして最後に、聖女ヴァネッサへと視線を向けた。
その目には、感情の渦が隠しきれずに浮かんでいた。
驚愕、疑念、怒り、悲しみ。
それらすべてを押し殺そうとしているのが、かえって伝わってしまう。
私は息をのむ。
誰よりも理性的であろうと努めてきたダナヒューが、今まさに心を揺らしている。
その葛藤は、王子である以前にひとりの人間として、誰かを信じ、誰かを疑わねばならぬ苦しみに他ならなかった。
彼は一拍の間を置いてから、低く、静かな声で口を開いた。
「ヴァネッサ、なにか反論はあるか」
その声は冷ややかで、しかし誰の耳にも確かに届く、凛とした響きを持っていた。
音量に頼らずとも、場を支配するだけの威圧と威厳がそこにあった。
議場の空気が、再び凍りつく。
誰もが言葉を失い、まるで動くことさえ許されないような沈黙が訪れた。
私はダナヒューの視線の先を追う。
その先にいるのは、聖女ヴァネッサだ。
彼女はまるで冷水を浴びせられたかのように硬直し、震える肩を抱え込むように小さく身をすぼめていた。
その顔は青ざめ、けれど無理に笑みを保とうとしているのか、引きつったような表情で唇を歪めていた。
その微笑みが、逆に痛々しい。
否定したい。拒絶したい。けれどできない。
ダナヒューの目が、それを許さなかった。
冷たい光を宿した彼の視線は、言葉以上に強い断罪だった。
それは王族としての立場から放たれた“問い”ではなく、ひとりの人間としての“拒絶”に近いものだった。
私は息をのむ。
あの聖女が、将来を誓い合った第一王子から、あんな目で見られている。
それは、彼女にとって何よりも堪える仕打ちだったに違いない。
「もう……終わりだわ……」
ヴァネッサの唇がかすかに震え、声にならない声が漏れた。
それは言葉というよりも、感情のひとしずくが崩れ落ちたようなものだった。
声は小さく、かき消されるように弱々しい。
彼女の足元が、静かに、しかし確実に崩れていく。
張りつめていた感情の糸が、ぷつんと音を立てて切れるような、そんな気配がした。
「ダナヒュー様に嫌われたら。信じてもらえなかったら。私は……私はもう、終わりなの……」
震える声が漏れた瞬間、まるで空気ごと飲み込まれたように、議場が静まり返った。
その瞳からは大粒の涙がこぼれ落ち、頬を伝って、床へと落ちていく。
彼女は必死にそれを拭おうとするが、追いつかない。
感情が堰を切ったように溢れ出していた。
「……ずっと、あなたを愛していたの……」
言葉は弱く、けれど止まらなかった。
「あなたに……認められたくて……見てほしくて……それだけだったのに……!」
肩を震わせながら、彼女は叫ぶように言葉を紡ぐ。
「婚約者のエメリナが……邪魔だった。完璧で、やさしくて、あなたの隣に立っていて……私には、どうしても勝てなかった……!」
もはや聖女の姿ではなかった。
涙に濡れた顔、乱れた呼吸、髪は顔に張りつき、目は焦点を失っている。
「エメリナがいる限り、私はずっと見向きもされない。だから……彼女が追放されれば、私を見てくれるって……そう、思ったの……」
その告白に、誰もが言葉を失っていた。
彼女の心から溢れたものは、嫉妬、執着、愛――そして絶望だった。
まるで、今ここでしか救いを求められないとでも言うように、彼女は嗚咽混じりに続けた。
「……クレア様も、邪魔だったわ」
涙に濡れた目を伏せながら、ヴァネッサはぽつりと呟いた。
「ダナヒュー様は……いつだって、お姉様のことを慕っていた。話すたび、笑うたび、視線の先には、いつも……クレア様がいた」
唇を噛みしめながら、彼女の声は少しずつ高く、鋭くなっていく。
「いつも……いつも、クレア、クレア、クレア……!」
拳を握りしめ、震える手を胸元に押し当てて、彼女は絞り出すように言葉を続けた。
「私の入り込む隙なんてなかった。あなたは振り向いてくれなかった……どれだけ私がそばにいても、あなたの瞳には映らなかったの……!」
彼女の叫びは痛々しく、壊れてしまった心そのものだった。
「だから……せめて、香りだけでも……」
ヴァネッサはゆっくりと顔を上げた。
その目にはひび割れた渇望の色が宿っている。
「クレア様の香りを身にまとえば、あなたに少しは近づけると思った。あなたが慕う人になり替われば……きっと、私を愛してくれるって……そう思ったのに……!」
言葉が終わると同時に、彼女の膝が崩れ、床に手をつく。
その肩が小刻みに揺れ、嗚咽が止まらなかった。
彼女の姿は、もはや聖女と呼ばれるにはあまりにも壊れすぎていた。
その場にいた誰もが、かつて神に選ばれし存在だったはずの彼女が、ひとりの哀れな女として崩れていくさまから目を逸らせなかった。
議場は騒然となった。
誰もが彼女の告白に言葉を失い、しかし同時に、その破滅的な叫びがもたらした衝撃に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
息をのむ音があちこちから聞こえ、誰かの椅子が軋む音が静寂を破る。
ざわめきと呼べない、言葉にならない不安げな空気が議場全体を包んでいた。
それは、聖女という存在が崩れ落ちた音だった。
私はただ、黙ってその場を見つめていた。
嗚咽に肩を震わせ、涙に濡れた顔を晒し、崩れるように床に座り込んだヴァネッサ。
そして、彼女を見下ろすダナヒューの、哀しみと怒りと困惑と、言葉にできない何かがにじむまなざし。
誰よりも冷静で、誰よりも正しくあろうとしてきた人の、沈黙が痛いほどに重かった。
その横顔を見つめながら、私は胸の奥がじくりと痛むのを感じていた。
あの人は、彼女を憎んではいない。ただ、嘆いているのだ。
かつて信じたものが、こんなかたちで壊れてしまったことを。
ヴァネッサは、決して正しいとは言えない道を選んだ。
だがその心の奥には、誰にも届かなかった孤独と、渇望と、哀しみがあったのだろう。
この瞬間、私は初めて“聖女ヴァネッサ”という人間が、どれほど複雑で、脆くて、救いを求める存在だったのかを、ほんの少しだけ理解できた気がした。
けれど、もうすべては戻らない。
クレアは、二度と帰ってこないのだ。
私はそっと視線を落とした。




