4.夢に咲く記憶
森から戻った私は、調香室に採ってきた植物をそっと並べると、その場にしゃがみ込んでしまった。
ほんの数時間のつもりが、夢中になって歩き回っていたら、日が傾いていた。
足も腕もじんわりと重たく、鼻にはまだ草や花の残り香が漂っている。
「……今日は、ここまでね」
そうつぶやきながら、私は簡単に水だけで手を洗い、外套も脱がずにベッドへと倒れ込んだ。
やわらかな寝具が背中を受け止めた瞬間、体から力が抜けていく。
目を閉じると、まだ森の緑がまぶたの裏に残っているようだった。
ひんやりとした風、草の葉をなでた指先の感触、花の香りに鼻をくすぐられた記憶――
(なんだか……懐かしい)
そう思ったとき、ふと、もうひとつの記憶が胸の奥からそっと顔を出した。
クレアの笑顔と、穏やかな木漏れ日。
あれは、いつの春だっただろう。確か、王宮の中庭に一緒にいた……。
森の風が、記憶の扉を開いたのかもしれない。
私はそのまま、静かに夢の中へと落ちていった。
***
白い石畳が陽の光を反射して、ほんのりとあたたかい。
王宮の中庭では、春の花々が満開を迎え、チューリップやクロッカスが風に揺れていた。
その中心にある小さな東屋のもとで、クレアがティーセットの前に優雅に腰かけていた。
薄いレースのテーブルクロスの上には、真珠色の磁器のティーポット。
クレアはカップを両手で支えながら、静かに紅茶を注いでいる。
その所作は、まるで舞うように滑らかで、見ているこちらの背筋が自然と伸びるほどだった。
「ねえエメリナ、こっちに来て。いっしょにお茶をしましょう」
私の本当の名前を呼ぶ、あのやさしい声。
自然と笑みが浮かび、私はクレアの隣にそっと腰を下ろした。
「今日は特別なのよ。新しい茶葉が届いたの。香りを確かめてみて」
クレアが差し出したカップを、私は両手で静かに受け取る。
湯気とともに立ち上るのは、繊細な紅茶の香り。
そこにほのかな渋みと、微かに柑橘のような清々しさが混じる。
まるでクレアの優雅なたたずまいを映し出すかのような、上品で落ち着いた芳香だった。
「すごく、きれいな香りですね」
「でしょう? ジュードが選んでくれたの」
「えっ、第二王子殿下が……?」
意外な名前に、思わず声が高くなる。
クレア様は、くすっと笑ってカップを傾けた。
「不思議よね。ジュードって、お堅いように見えるのに、意外とそういうところあるの」
「……私は、てっきり気難しい方かと……」
「エメリナ」
クレア様は、こちらをじっと見つめた。
その瞳には、まるで誰かの本質を見抜いているような静かな光が宿っていた。
「ジュードはね、ちゃんと人の気持ちも見ている子よ。あなたが思っているほど冷たい人じゃないわ」
「……そう、ですか?」
「ええ。あの子は不器用だけど、やさしいのよ。言葉にしないだけ」
クレア様の言葉は、ふんわりと心に染み込んでくる。
たしかに私は、ジュード殿下ときちんと話したこともなかった。
ただ、どこか冷たそうだと思い込んでいただけかもしれない。
「私のことも、すごく大事にしてくれるの。私の専属調香師を変えることを父上に直言してくれたのもジュードだったわ」
「……それって……」
「うふふ、もちろん、あなたのことよ?」
からかうように笑うクレアに、思わず耳まで熱くなった。
まだ幼く未熟な私が、いくら公爵令嬢でクレアの親友だとしても、彼女の専属調香師になれたことを不思議に思っていた。
それがまさか、ジュードのおかげだったなんて。
「そんなこと、初めて知りました」
「教えてなかったかしら? でも、そういう裏側って案外、本人が知るべきじゃないのかもしれないわね」
クレアはそっとカップを置き、遠くを見つめるように目を細めた。
「どうか勘違いしないであげてね。ジュードはやさしい子だから」
穏やかな声が、春の陽ざしのようにあたたかく胸にしみた。
この日々が、ずっと続けばいいのに。
私はそう願っていた。何も疑わずに。
***
気づくと、香水店の天井が視界に入っていた。
夢は静かに消えかけている。
ゆっくりと体を起こし、目を開ける。
カーテンの隙間から、曇った空が見える。
外はまだ薄暗く、窓の外の木の葉が風に揺れているのがわかった。
(クレア……)
夢の中のクレアの言葉や笑顔が、心の中に残っている。
あの日の彼女の言葉が、今になって少しずつ理解できる気がした。
森で出会ったジュードの瞳は、たしかに冷たくはなかった。
やさしく、まっすぐで、どこか心の奥を見つめてくるような――
(クレアの言うとおりね)
ジュードは、思っていたよりずっとやさしい人なのだろう。
あのときの言葉や表情から、それがはっきり伝わってきた。
私は彼の期待に応えなければならない。
クレアの香りを、どんなことがあっても必ず再現する。
それが調香師としての私の役目であり、使命だ。
静かな店の中で、気持ちが自然と引き締まった。