37.時が止まった部屋
私とジュードは、クレアの部屋の前に立っていた。
いざ、その扉を目の前にすると、胸の鼓動が一気に速くなる。
この扉の先には、もう戻らない人の思い出が詰まっている。
かすかに足が震えた。
手のひらが少し汗ばんでいる。
私は深く息を吸った。
ジュードが鍵を取り出す。
錆びた鍵が錠前にかちりと収まる。
その小さな音だけが、静まり返った廊下に響き渡り、私は無意識に息を止めた。
「じゃあ、開けるよ」
ジュードがためらいなく、扉を押し開けた。
軋む音。
薄暗い室内。
何年も動かされなかった空気が、ゆっくりと流れ始める。
「……失礼します」
声が思わず小さくなる。
まるで、誰かを起こしてしまいそうで。
クレアの部屋。
その名を胸の中でそっと呼んだだけで、心がきゅっと痛んだ。
私とジュードはゆっくりと足を踏み入れる。
その瞬間、時間が止まっているのだと、直感でわかった。
机の上には書きかけの手紙。
ベッドには、整えられた寝具の上にたたまれたショール。
ドレッサーの前には、椅子が中途半端に引かれていた。
すべてが、あの日のまま。
あの夜、クレアが息を引き取った瞬間を最後に、すべての時が止まっている。
私は声を失った。
言葉にできない感情が、胸の奥に渦を巻く。
悲しみ、喪失、懐かしさ、痛み、後悔。
それらが一斉に押し寄せてきて、喉が詰まる。
「クレア……」
気づけば、私はそっと彼女のベッドサイドに手を置いていた。
そこには、彼女のぬくもりの名残など何ひとつないはずなのに。
今にも「エメリナ」と笑いかけてくれそうな気がしてならなかった。
彼女が最期を過ごしたこの部屋に、自分が足を踏み入れている現実に、涙がにじむ。
「無理はしないで」
ジュードの声が背後から聞こえた。
けれど私は首を振る。
「大丈夫。……ちゃんと見ておきたいんです」
震える足で、部屋の中をひとつずつ見て回る。
本棚の並びも、アクセサリーの配置も、クレアらしかった。
ああ、確かに彼女は、ここに生きていたんだ。
私は、ふと目にとまったドレッサーに近づいた。
鏡の前に、何本かの香水瓶が並べられている。
どれも長い間使われておらず、ラベルは色あせ、埃をかぶっていた。
私はその中のひとつを手に取った。
それが、クレアが最後に使った香水の瓶だと、本能的に感じた。
そっと指先でつまみ、瓶を手に取る。
蓋を外すと、揮発して空になったはずの香水瓶から、微かに香りが漂った。
クレアの香りだった。
柔らかくて、上品で、どこか花の蜜を思わせるような香り。
私が調香した、彼女を象徴する香り。
だけど──
「おかしい」
鼻の奥に、かすかな違和感が残る。
甘いはずの香りの中に、ほんの少し、鋭い何かが混じっている。
不自然な、金属的な香気。
私は瓶の口元をもう一度近づけて、注意深く吸い込んだ。
その瞬間、頭の中がぐらりと傾いた。
「……っ!」
視界が一気にぼやける。
足元が不安定になり、膝が抜けるように力が入らない。
指先から瓶が落ち、かすかに乾いた音が床に響いた。
「エマ!?」
ジュードの叫びが耳に届いたが、頭がうまく回らない。
体がふわふわと浮いていくような感覚。
だけど、わかった。
クレアは、毒で殺された。
香水に混ぜられた、ほんのわずかな毒。
だから、苦しまなかった。
倒れるようにして息を引き取ったと聞いていた。
毒を香りに混ぜる。
こんなやり方があるなんて。
私は、その巧妙さと残酷さに、言葉を失った。
誰にも気づかれず、罪を隠すために。
こんな方法で人を殺すなんて、信じられない。
「香水の中に、毒が……」
声はかすれ、喉の奥から絞り出すようにしか出なかった。
身体の震えが止まらず、思わず手で口元を押さえる。
視界の隅に映ったジュードの顔は、青ざめ、眉が深く寄っていた。
その目には驚きと怒り、そして言葉にできないほどの恐怖が混ざり合っている。
「おそらく、この毒で、クレアは……」
私はかすれた声でつぶやいた。
言葉が喉で詰まり、声は震えていた。
その瞬間、身体中の力が一気に抜けていき、視界がぐらりと揺れた。
足元がおぼつかなくなり、ジュードがとっさに私に腕を差し伸べた。
私は抵抗もできずに寄りかかり、彼の腕のぬくもりにすがった。
意識がぼんやりと遠のき、まるで深い霧の中に吸い込まれていくようだった。
最後に聞こえたのは、ジュードのかすかな囁きだった。
「エマ、しっかりしてくれ……」
そして、私は静かに意識の闇に沈んでいった。




