36.鍵はここに
「……っ!」
喉の奥で声にならない声を噛み殺した瞬間、私は飛び起きていた。
全身を冷たい汗が伝い、心臓がバクバクとうるさく跳ねていた。
視界の端がにじみ、肩で呼吸を繰り返すうち、やっと自分が夢の中にいたことを理解した。
昨夜の、あの襲撃の夢。
闇夜から現れた刺客。
刃のきらめき。
駆け寄るジュードの怒鳴り声。
そして、血のにおい。
あの瞬間の感覚が、夢の中で何度も繰り返されていた。
刃がこちらに向かって振り下ろされるたび、身体が凍りつく。
何もできず、声も出せず、ただ立ち尽くすしかなかった無力な自分。
夢から覚めても、胸の奥にはまだその恐怖が張りついている。
汗で湿った手を握ると、指先がかすかに震えていた。
思わず膝を抱きしめるようにして、私は小さく丸くなる。
怖い。目を閉じると、すぐにあの場面がまぶたの裏に浮かぶ。
もしほんの少しでも私の動きが遅れていたら。
「大丈夫。もう、終わったのよ……」
震える手で自分の頬を包み、深く息を吸う。
外から差し込むやわらかな朝の光が、現実へと私を引き戻してくれた。
襲撃のあった昨夜、すぐにジュードが警護を強化してくれた。
宿舎の周囲には王国直属の護衛騎士が立ち、扉の外にも二人の兵士が常駐している。
部屋の中にいる限り、今の私は、きっと世界で一番安全な立場にいるのだろう。
それでも、心はそう簡単には落ち着かない。
昼食を終えた頃、ようやく私の震えもおさまってきた。
ジュードは厨房の片づけをさっと手伝ったあと、私を中庭へと誘った。
ひとの気配がない、午後のひととき。
ささやくように風が通るだけの、静かな空間。
「少しだけ君と話したいんだ」
その声は、いつもより低くて、慎重だった。
頷くと、彼は私の隣に腰を下ろし、膝の上で指を組んだ。
彼の表情は、何かを守ろうとする人の顔だった
「昨夜、襲ってきた刺客は痕跡をひとつも残さなかった。あの装備や動きからして、素人ではない。恐らく、あれはプロの殺し屋だ」
心臓が、きゅっと音を立てて縮む。
「しかも、これは警告ではない。あの刺客は、排除するつもりで動いていた。つまり最初から狙いは、エマの命だった」
ぞくり、と背中を冷たいものが這う。
あのときジュードがいなければ、私は──
恐怖が一瞬、心を覆った。
けれど、それと同じだけ強く、私の中に決意が芽生えた。
怖くて震えているだけでは、何も変わらない。
逃げてばかりでは、真実も未来も見えない。
私は震える声で、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「……私、逃げません」
その言葉が、自分の口から出たとき、震えはすっと消えていた。
「エマ……」
「怖いです。本当は、今すぐここを離れて、どこか安全な場所に隠れたい」
私は自嘲気味に笑いつつ、先を続ける。
「でも、それじゃ何も解決しません。クレアの死の謎も、私が追放された理由も。怖いけれど、向き合いたいんです」
ジュードは、目を伏せて、それからゆっくりと笑った。
静かで、でもどこかほっとしたような微笑み。
「エマ。君は強い人だな」
ジュードは、何かを決めたように小さく息を吐いた。
そして、ゆっくりと懐から、古びた一本の鍵を取り出した。
金属の表面には、長い年月を思わせる細かな傷が刻まれている。
「これは、クレアの部屋の鍵だ。姉上の死後、誰も中に入っていない。遺品整理もされず、そのまま残されている」
鍵を見た瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
思わず息をのむ。
この鍵の先には、彼女の最後の日々がそのまま閉じ込められている。
あのやさしくて、聡明で、そして私にとってたったひとりの理解者だった王女クレア。
その面影が残る場所。
ジュードは鍵を掌に転がしながら、それをまっすぐに見つめていた。
その目に浮かぶのは、哀しみとも悔しさともつかない、複雑な色。
私はその横顔を、言葉もなく見つめていた。
彼の中にも、きっと私と同じ痛みが残っている。
どれだけ月日が流れても、クレアを失った傷は癒えていない。
けれど今、彼はその痛みと向き合おうとしている。
真実を知るために。
そして、前に進むために。
鍵のきらめきが、午後の日差しを受けて小さく光った。
「真実を探るためには、あの部屋に踏み込むしかない」
ジュードの声は落ち着いていたが、その裏にある決意がはっきり伝わってきた。
彼はまっすぐ私を見つめていた。
視線をそらすことなく、静かな意思をその目に宿して。
「もしかしたら、なにか手がかりがあるかもしれない」
わずかに言いよどむような口調だったけれど、そこには希望があった。
あきらめていない。まだ終わっていない。
そんな思いが、言葉の端々から感じられた。
私の胸の奥にも、同じ思いがじわりと広がっていく。
知りたい。クレアの死の真相を。
「エマ、いっしょに行ってくれるかい?」
ジュードがそっと手を差し出した。
あたたかくて、頼もしい手だった。
私はためらわず、その手を取った。
「ええ、よろこんで」
言葉にしたとき、自分の中にあった迷いが少し消えた気がした。
彼の手のぬくもりが、心の中の揺れをそっと落ち着かせてくれる。
私たちは顔を見合わせ、小さくうなずき合った。
これから向かう場所の重さを噛みしめる。
クレアの部屋。
そこは、もう二度と帰ってこない王女の時間が閉じ込められた場所。
ジュードが鍵を握る手が、少しだけ震えている。
私たちの心には、クレアを失ったまだ深い傷が残っている。
それでも、真実を知るために、私は彼といっしょに扉を開ける決意をかためた。




