35.聖女からの刺客
あれから調香を終え、私はようやく気持ちを落ち着かせてベッドに横になった。
宿舎の静かな夜。
遠くから、そよ風が木々の葉を揺らす音が微かに聞こえてくる。
しばらく眠れなかった私は、ふと思い立って窓辺に歩み寄った。
そっと窓を開ける。
冷たい夜風が部屋に流れ込み、やわらかな月明かりがカーテンを照らす。
深く息を吸い込み、春の夜の空気が肺の奥まで染み渡るのを感じた。
けれど次の瞬間、はっきりとした違和感が私の全身を貫いた。
ピリッと張り詰めた空気。殺気にも似たものを敏感に感じ取る。
視線の端、窓の外の暗がりに、微かな動きがあった。
誰かが、静かに、音もなく私の部屋へと近づいてくる。
月明かりに浮かび上がるシルエットは、不自然に低く身をかがめている。
鼓動が速まり、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
全身の感覚が鋭く研ぎ澄まされ、本能が危険を告げていた。
殺される。そんな直感が全身を貫いた。
「……っ!」
その刹那、闇の中から黒い影が素早く襲いかかってきた。
鋭利な刃先が私の方向へ勢いよく振り下ろされる。
刃の冷たさが、肌に迫るのをはっきりと感じた。
反射的に体をひねり、ぎりぎりのところで攻撃をかわした。
刃は空を切り、鋭い風が私の頬をかすめる。
心臓が激しく鼓動し、息が詰まるような緊張感が体を包み込む。
わずかな差で死の一撃を避けられたその瞬間。
「僕のエマになにをしている!」
背後から、鋭い声が響いた。
振り返ると、ジュードが剣を抜き、真剣な眼差しでこちらに駆け寄ってきた。
「別れたとき、君の顔色が悪かったから、心配で来たんだ」
そう言いながら、ジュードは私を素早く背後に隠した。
身を挺して守ろうとするその行動に、胸が熱くなる。
「来て正解だったな」
ジュードは素早く身を翻し、不審者に立ち向かった。
彼の剣は夜の闇に光を放つかのように鋭く、確実に相手の攻撃を受け止め、かわし、反撃を繰り出す。
「投降しろ。第二王子を傷つけたとあれば、貴様は大罪人になるぞ」
不審者は一瞬ためらい、その刃の動きが鈍った。
その隙をジュードは見逃さない。
「甘い! そんな覚悟で僕を倒せると思うな!」
ジュードの声に力が込められる。
彼の剣が閃き、鋭い一撃が不審者の腕をかすめた。
「くっ……!」
不審者は痛みに顔をゆがめるが、すぐに体勢を立て直し、再び剣を振りかざした。
ふたりの剣戟は闇夜に響き渡り、その激しさが緊迫した空気をさらに張り詰めさせる。
汗をぬぐい、呼吸を整えながらも、ジュードは一切の隙を見せず、冷静に相手の動きを見極めていた。
やがて不審者の息が荒くなり、動きが鈍り始めたその瞬間。
「これで終わりだ!」
ジュードは力強く剣を振り下ろし、不審者の剣をはじき飛ばした。
「くそっ……!」
不審者は体勢を崩し、後ずさりながら闇の中へ逃げ去った。
ジュードは剣を収めて深く息を吐く。
彼は不審者を追うことはしなかった。
私の安全を優先したのだろう。
戦いの緊張がやっとほどけ、ジュードは微笑みを浮かべながら私を見つめた。
「エマ。怪我はないかい?」
「ジュード! 怖かった……!」
私はそのまま彼の胸に飛び込んだ。
ぬくもりに触れた途端、強張っていた全身がほぐれて、涙があふれて止まらなくなった。
「もう大丈夫だ。君は僕が守る」
ジュードの声は揺るぎなかった。
その言葉に、自然と私はうなずいた。
俯いたまま、止めどなく流れる涙を隠そうとする。
けれど、ジュードがそっと手を伸ばしてきた。
あたたかくて大きな指先が、私の頬を優しくなぞり、涙をぬぐってくれる。
「泣かなくていい。もう、怖くないよ」
彼の手が、まだ震えていた私の背をそっと抱き寄せる。
そのぬくもりが、張り詰めていた心をほぐしていく。
頼りなく揺れていた感情が、静かに落ち着きを取り戻していくのがわかった。
彼の声は穏やかで、やさしくて、でも芯のある強さを秘めていた。
守られている。そう感じることが、これほどまでに心強いとは思わなかった。
私はそっとジュードの胸元に額を預け、小さく息を吸う。
ようやく落ち着いた呼吸の合間に、彼が低い声で続けた。
「あいつはおそらく、ヴァネッサの刺客だろう」
ジュードは険しい表情でそう告げた。
その瞳には怒りと警戒が混じり合っていた。
「聖女ヴァネッサ……恐ろしい女だ」
私はジュードの言葉に小さく息をのんだ。
あの聖女が、私を狙う刺客を送るとは。
そこまで余裕をなくしているのだろうか、彼女は。
「こんなことは二度と起こさせない。護衛を強化しよう」
ジュードはやさしく私の頭を撫でてくれた。
そのあたたかさが、不安でざわついていた私の心にじんわりと染みわたる。
彼の手の動きはまるで「大丈夫だよ」と語りかけるかのようで、言葉以上に強い安心感を与えてくれた。
私はそのぬくもりに身を委ね、小さく息をついた。
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