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3.試行錯誤の調香

 私は、香料のリストをじっと見つめていた。

 指先が、紙の端をかすかに震わせる。

 そこには、王女クレアが愛用していた香水を再現するために必要な香料が、整然と記されている。

 けれど、私の手元に揃っているのは、その半分にも満たなかった。


 窓の外では、冷たい風が容赦なく吹き荒れている。

 軒先の木製看板が風にあおられ、きしむような音を立てた。

 灰色に染まった空からは、今にも季節外れの雪がこぼれ落ちそうだ。

 辺境の町は、王都とは比べものにならないほど、自然の厳しさに晒されている。


 こんな寒空の下、馬車で運ばれる物資が遅れるのは、ある意味当然かもしれない。

 けれど、今の私にとって、その「当然」が、ひどくもどかしかった。


 馬車で数時間の距離だというのに、到着の気配すらないのは、単に天候のせいではない。

 辺境の町は、王都から見れば“後回しにしても困らない場所”だからだ。


 香料の箱が王都の倉庫の片隅で埃をかぶり、ひっそりと忘れ去られていく。

 その様子が、ありありと想像できた。

 胸の奥をひやりと冷たいものがよぎる。


 調香の核となるパチョリ。

 香りの骨格を支える、乾燥させた野草の束。

 いずれも、いまだに届かない。


(これらがなければ、香水の再現は到底叶わないわ)


 私は机に頬杖をつきながら、リストの右端に小さく「未着」と書き入れた。

 赤インクの文字が、にじんだ血のように見えて、思わず眉をひそめる。


 肩をすくめるようにして上着を羽織り、ゆっくりと立ち上がった。


「……待っていられない」


 そうつぶやいたとき、胸の奥がふいに熱を帯びた。

 立ち止まってはいられない。

 香水の材料が届かないなら、自分で探すしかない。


 私は外套の前をきつく締める。

 扉を開けた瞬間、身を切るような風が顔を打った。

 けれど、その冷たささえも、どこか心地よく感じていた。


 この手で、もう一度、あの香りを紡ぎ出すために。

 過去に手を伸ばすために。


「行かなきゃ」


 辺境のこの地で、代わりになる香水の材料を探し出すしかない。

 私は町の周辺にある小さな森へと足を運んだ。

 薄曇りの空の下、指先で草の葉を撫でる。懐かしい感覚が蘇った。


「この香り……これを組み合わせたら……」


 幾つもの花や葉を摘み、香りを確かめ、メモを取る。

 手持ちの瓶に少しずつ混ぜ合わせては香りの変化を確かめる。

 小さな調香室では味わえない、自然の空気に包まれながらの作業は、どこか新鮮だった。


 そんなとき、遠くから誰かが歩いてくるのが見えた。

 フードを深く被った私服姿のジュードだった。


「……殿下?」


 私は思わず声をかけてしまった。

 彼は足を止め、にこりと上品に微笑んだ。


「奇遇だね。ちょうど辺境の町近くの森を通っていたところなんだ。そこで君の姿を見かけて」


 第二王子である彼が、わざわざ馬車を降りて私に話しかけに来るとは思わなかった。

 その予想外の行動に言葉が詰まる。


「エマはこんなところで何をしているんだい?」

「ええと……香料を探しているのです。王都からの物資がまだ届かなくて……」


 私は足元の地面に視線を落としながら、少し恥ずかしそうに答えた。

 手には採集した小さな葉と、香りを確かめるための布片が握られている。

 辺境の森の中で、こんな姿を見られるなんて思ってもみなかった。


「僕の依頼のために?」

「はい。王女殿下の香りを、どうしても完璧に再現したくて」


 その言葉を口にするとき、私は自然と背筋を伸ばしていた。

 妥協するつもりはない。

 あの香りは、誰よりも特別だった人の面影なのだから。


「香水を作るのがこんなに大変だとは知らなかったな」


 彼の瞳は真剣で、その言葉には感動が込められていた。


「こんな辺境の地でも、君は真剣に香りを追い求めているんだね」

「それが、調香師の仕事ですから」


 私は微笑みながらそう答えた。

 その声がほんのわずかに震えているのは、寒さのせいだけではない。

 孤独な作業に覆われていた心に、誰かが手を差し伸べてくれた、そのぬくもりに戸惑っているのだ。


 ジュードはふっと表情をやわらげた。


「なんだか、君に興味が出てきたな。また来るよ」


 そう言いながら、彼はゆっくりと視線を巡らせ、私が腰に提げていた革のポーチや、手にした小さな採取用のナイフを見つめた。

 そして、言葉を継ぐ。


「何か、僕にできることがあったら言ってほしい。香料の手配でも、薬草を探す手伝いでも、なんでもいい」


 その声音は穏やかで、それでいて真剣だった。

 立場の違う相手に、こんなふうに気遣ってもらえるなんて思ってもみなかった。

 私は思わず目を伏せ、息を詰まらせる。


「……お気持ちだけ、いただいておきます」


 そう返した私の声は、少しだけかすれていたかもしれない。

 ジュードはそれ以上何も言わず、にこりと笑って私に背を向けた。

 彼の背中を見送りながら、私は胸の奥に小さな火が灯るのを感じていた。


(あの人、こんなにやさしい人だったかしら……)


 風が、森の木々を揺らしていた。

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