25.仮面のままで、踊る夜
扉が開いた瞬間、光と音が一気に押し寄せてきた。
大広間に満ちる音楽、華やかな衣装を身にまとった貴族たちのざわめき、きらめくシャンデリアの光。
すべてが、夢の中の情景のようだった。
私は、またこの社交界に戻ってきたのだ。
ジュードの手を握ったまま、私はその一歩を踏み出す。
靴音が床に吸い込まれるように響き、周囲の視線が私たちに集中するのを感じた。
大丈夫。
私はただの調香師。
彼の隣に立っているのも、職務として。
そう自分に言い聞かせながら、背筋を伸ばした。
「あれが、ジュード殿下の新しい専属調香師だって?」
「殿下の香り、すばらしいわ。甘すぎず、けれど余韻が深い。まるで夜明けの空気みたい」
「あのエマとかいう調香師が作った香りだろう?」
「美しい調香師だ。第二王子はどこであの逸材を見つけてきたんだ」
小声で囁かれる声が耳に入るたびに、胸の奥がじわりと熱を帯びる。
誰も、私が公爵令嬢のエメリナだとは気づいていない。
当たり前だ。
顔も、身分も、なにもかも。
あの頃の私とは違うのだから。
ジュードが、少しだけ手を強く握る。
「堂々としてる。君は、誇っていいよ」
彼のその声に、ふっと胸の緊張がほどけそうになる。
けれど。視線の先に、見知ったふたりの姿を見つけた瞬間、私は呼吸を止めた。
――聖女ヴァネッサと、第一王子ダナヒュー。
聖女の白いドレスが、まるで純白の羽のように揺れる。
その身にまとう香りは間違いなく、クレアのもの。
鼻腔をかすめたその香りに、膝が震えそうになる。
私がかつて調香した、クレアのためだけに作られた香り。
彼女の存在を象徴する、唯一無二のもの。
まるでそれが当然であるかのように、ヴァネッサは優雅な足取りでこちらへと歩み寄ってきた。
その笑みは聖女らしいあたたかさに満ちていたが、前回会ったときとは雰囲気がすこし違っていた。
「お久しぶりです。ジュード殿下、そしてエマさん」
私に緊張が走った。
ヴァネッサの声音の奥にひそむ、かすかな悪意を感じ取ったのだ。
それは、直感だった。
けれど確信に近かった。
おそらく、彼女はなんらかの手段で知ったのだ。
私がエメリナであることを。
ヴァネッサの瞳は、調香師を見つめるそれではない。
あの断罪の場で、涙ながらに公爵令嬢エメリナを糾弾したときと、まったく同じ目をしていた。
「ジュード殿下の香り、エマさんが調香なさったのね。すばらしいわ」
ヴァネッサは目を細めて、ジュードの横に立つ私を見つめた。
上品な笑みを浮かべながらも、その視線には明らかな敵意が宿っていた。
「ヴァネッサ様、恐れ入ります。光栄なお言葉を頂戴し、感謝いたします」
私は平静を装いながら、一礼をする。
ヴァネッサは私に気づいている。
あの日、私を告発した張本人が、目の前にいる。
ここで取り乱すわけにはいかない。
「……ダナヒュー殿下も、ご健勝で何よりです」
震える声で、私はもうひとりの男に目を向けた。
ダナヒューは、どこかよそよそしい視線で私に向けていた。
かつての私の許嫁。むかし愛を誓い合った人。
そして、ヴァネッサの今の婚約者。
ダナヒューの目は、私を見ているようで見ていなかった。
彼が私に向ける視線は、初対面の他人に向ける冷ややかなものだった。
かつて私は、ダナヒューの隣に立つ未来を信じて疑わなかった。
王家と公爵家。政略の一環と分かっていても、彼のやさしさや穏やかさに触れるたび、幼い私は「これが愛なのだ」と思い込んでいた。
いや、そうでなければ、あの頃の私はやっていけなかったのだと思う。
けれど、ダナヒューは私を守らなかった。
疑惑の声が上がったとき、誰よりも先に私から目を逸らした。
冷たい沈黙が、私の無実よりも重く響いた。
あのとき、私は何も言えなかった。
ただ、傷つきたくなくて、彼が黙って背を向けた理由を、自分なりに正当化しようとした。
しかたなかったのだ、と。
彼は第一王子。
王女毒殺の容疑者などと、結婚できるはずがないのだ。
けれど今、こうして再び目の前に立たれても、私の中の感情は、整理されたままの形で出てきてくれない。
どうして、あなたは私を信じてくれなかったの。
言葉にはならない問いが、心の奥で何度もこだまする。
「緊張してる? 無理しなくていいよ」
ジュードが私の顔を覗き込む。
私は現実へと引き戻された。
「あら、おふたりとも仲がよろしいんですね」
ヴァネッサの口調は、敵意を隠さないものになっていた。
さすがのジュードも眉根を寄せる。
「でも、ジュード殿下は、どこまでエマさんのことを知っているのかしら」
ヴァネッサの声音には、明らかに挑発の色が宿っていた。
私は静かに息を吐き、わずかに目を細めた。
その胸の奥で、冷たい恐怖がゆっくりと広がっていく。
今夜、もしも彼女が私の正体を暴くつもりなら。
すべてが終わるかもしれない。
ジュードの信頼も、立場も、私という存在も。
怖い。
けれど、もう逃げたくなかった。
私は震える感情を押し込め、唇をかみしめた。
そう。私はあの日、何もできなかった。
泣きながら断罪され、誰にも信じてもらえず、すべての罪を背負わされた。
でも、今は違う。
――今度こそ、抗いたい。
私を貶めたその手に、沈黙で従うだけの私ではいられない。
クレアを奪われ、名誉を奪われ、居場所まで失って、それでも私は生きてきた。
ならば今度は、私自身の手で立ち向かう。
ジュードはしばしの沈黙のあと、一礼する。
「……兄上、ヴァネッサ様。本日はご歓談の途中、失礼いたしました。僕たちも招待客にご挨拶がありますので、これにて」
その声はどこまでも冷静で、けれど私を庇うような響きがあった。
ダナヒューが頷き、ヴァネッサは名残惜しげに微笑んだ。
「また、ゆっくりとお話ししましょうね、エマさん」
その一言に込められた悪意を、私は忘れない。
でも、もうおびえるだけの私ではいられない。
この大広間で、ジュードの隣に立っている限り。
ふたりに一礼し、ジュードとともにその場を離れる。
再び舞踏会のざわめきの中に身を置いた瞬間、私はようやく息を吐いた。
肩にかかったジュードの視線が、私を静かに包む。
「少し、疲れた?」
「……いえ。少し緊張しただけです」
私は声を整えながら、ジュードの薄橙色の瞳を見返した。
彼は、何も聞かない。ただそっと、手を差し出してくれる。
「踊ろうか」
その言葉に、私は小さく頷いた。
音楽が、次の旋律を奏で始める。
彼の腕の中で、私は一歩ずつステップを踏んでゆく。
過去におびえながらも、香りに包まれて。
揺れる感情を抑えながら。
「エマ、踊るの慣れているね」
「そうでしょうか」
「まるで貴族の娘みたいだ」
ジュードの言葉に、笑って返すことができなかった。
貴族の娘――
かつては、そうだった。
でも今の私は、ただの調香師。
王都を追放された元公爵令嬢で、クレア殺害の容疑者であり、そして……過去を偽る大嘘つき。
あなたの手に触れて、こうして踊っているこの瞬間が、まるで許されているような錯覚を与えてくれるけれど。
本当の私は、その手に触れる資格なんてない。
そう思うたびに、心がきしむ。
けれど、手を放したくなかった。
あたたかくて、やさしくて、ただまっすぐな彼の想いを、踏みにじりたくなかった。
でも、隠していることがあるかぎり、それはきっと裏切りになる。
あなたが私の正体を知ったとき、どう思うのだろう。
胸の奥で問いかけるように、香りがわずかに揺れる。
優雅な旋律に合わせて体を預けながら、私は心の中で、何度目かの自問を繰り返していた。
今夜が終われば、もう隠し通せないかもしれない。
そう思うたび、踊る足取りが重くなった。
けれど、私は――負けたくなかった。
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