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23.触れたのは、唇と気持ち

 ついに舞踏会当日。

 王宮の大広間の扉の前で、私はそっと息を吸い込んだ。

 心臓が、ずっと前からせわしなく鳴っている。


 王宮主催の舞踏会。

 おそらくは、私の見知った顔が沢山いるだろう。

 公爵家の親族。

 元婚約者の第一王子。

 そして――私をおとしいれた聖女。


 豪華な会場と煌びやかな音楽。

 そのどれよりも、私は「誰と会うのか」に神経を尖らせていた。

 ここに足を踏み入れた瞬間から、私は過去と対峙することになる。

 そう思うと、喉が少しだけ乾いた。


 そんな舞踏会というだけでも十分に緊張するのに、今夜は、それ以上に落ち着かない理由があった。


 目の前にいるジュードが、仕立てたばかりのタキシードに身を包み、まるで誰か別人のように見えてしまうのだ。


 深いネイビーの生地は、夜空のように静かな光を湛え、彼の肌をいっそう明るく見せていた。

 肩のラインも、裾の流れも、寸分の狂いなく整えられていて、ただ立っているだけなのに、まるで絵画の中の人物のようだ。


 普段はひたすらにおだやかで、どこまでもやさしいジュード。

 けれど今夜の彼は、そのおだやかさをどこかにしまい込み、凛とした気配をまとっていた。

 王族としての気高さと、彼自身の誠実さが、ぴたりと重なったような佇まい。


 私は、ただ見とれてしまっていた。

 彼の隣に並んで立つことが、なんだか夢の中の出来事みたいで、実感が湧かない。


 そんな私の視線に気づいたのか、ジュードがふいにこちらを振り返り、やわらかな笑みを向けてくれた。


「綺麗だね、エマ。まるで光をまとっているみたいだ」


 私が選んだのは、あの時ジュードが選んでくれたマンダリンオレンジのドレス。

 やわらかくて、少しだけ華やかで、肌にすっと馴染む色。

 身に着けて鏡を見たとき、自分じゃないみたいに感じた。


「ありがとう。ジュードも……その、とても素敵です」


 ぎこちない私の言葉に、彼はくすりと笑った。

 それだけで、胸の奥がくすぐったくなる。


 舞踏会が始まるまで、まだ少し時間がある。

 控えの間に移動するよう案内された私たちは、誰もいない静かな廊下を並んで歩いた。


 カツン、カツンと靴音が、石造りの床に軽やかに響く。

 けれど私の耳には、もっと別の音が聞こえていた。

 自分の心臓の音だ。


「エマ、緊張してる?」


 ジュードが歩調を合わせながら、私の顔を覗き込んでくる。

 その表情が、いつものやさしい彼と同じなのに、どこか違って見えるのはどうしてだろう。


「はい、少しだけ」

「僕もだよ。今日は、君に見とれてしまいそうで」


 ふいに耳まで熱くなった。ドレスよりも熱くなる自分の肌が恥ずかしい。

 控えの間に着くと、薄暗い照明の下に大きな鏡が置かれていた。

 ふたりで並んでその前に立つと、視線がどうしても交わりそうになってしまう。


「後ろのリボン、少し曲がってるかも。……いい? 直すね」


 ジュードがそう言って、私の背に手を伸ばしてくる。

 まただ。近い。

 その距離に、息を止めてしまう。


 指先が布に触れる感触と同時に、私は小さく震えてしまった。

 鏡越しに見える彼の顔は真剣で、でもどこか迷っているような、そんな表情だった。


「エマ」


 名前を呼ばれるだけで、全身がざわめく。


 気づけば、彼の顔がすぐ近くにあった。私の目を覗き込むようにして、何かを言おうとしている。

 彼の目が、まるで心の奥を見透かすように、私のすべてを静かに受け止めてくる。

 そのやさしさが、怖いほどにやさしくて。


 そして次の瞬間、そっと唇が触れた。


 ほんの一瞬、羽が触れるような軽いキス。

 でも、その一瞬で世界が反転するような、強い衝撃だった。


 私の時間が止まり、呼吸も忘れる。

 それは彼が今まで抑えていた気持ちの、静かで、でも確かな「答え」だった。


 ふたりとも、何も言わなかった。

 けれど、言葉よりも先に、気持ちが触れてしまった気がした。

 彼の唇が離れていく感触は、名残惜しくて、夢の余韻のようで。

 ジュードがゆっくりと顔を離し、静かに微笑む。


「ごめん。ずっと、こうしたかったんだ」


 その声が、どこまでもやさしかった。あたたかくて、穏やかで、けれど心の奥に真っ直ぐ届くような響きだった。

 私は返事をすることができず、ただうなずくことしかできなかった。唇が震えて、声にならなかった。


 舞踏会は、すぐそこまで迫っている。

 けれど、私の頭の中はもう、それどころではなかった。


 胸がいっぱいで、息が苦しいほどだった。

 ふと、ジュードがそっと私の手を取る。その手のぬくもりに、少しだけ安心して、少しだけ怖くなった。


(私、どうなっちゃうの……?)


 鼓動が落ち着かないまま、私はそっと胸に手を当てた。

 今夜が、ただの舞踏会ではなくなる予感がしていた。

 なにかが変わってしまう、そんな夜のはじまり。

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