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20.ふたりだけの調香

 午後の光が、レースのカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。

 静まり返った空気の中、香料の瓶が陽を受けて、ほのかにきらめいている。

 私は机の上に視線を巡らせながら、ビーカーやムエット紙の並びを丁寧に整えた。

 香りのバランスを乱さぬよう、瓶の蓋がきちんと閉まっているかもひとつずつ確かめる。

 いつもより、ほんの少しだけ丁寧だった。


 手元に目を落としながらも、耳はどこかで廊下の足音を探していた。

 今日の午後に来ると、ジュードは言っていた。

 約束の時間まで、あとすこし。


 私はひとつ、胸の前で深呼吸をする。

 ただの調香の時間――そう言い聞かせても、心のどこかがふわりと浮いていて、どうにも落ち着かなかった。


 そんな中、コンコン、と軽やかなノック音が響く。

 私は小さく肩を揺らし、すぐに立ち上がった。

 ドアを開けると、そこにはいつもと変わらぬ穏やかな表情のジュードが立っていた。


「これ、通りすがりに。君、甘いもの好きだったよね?」


 紙袋を軽く持ち上げるようにして差し出しながら、ジュードが微笑む。

 袋の中には、小さな焼き菓子の詰め合わせ。


 私は思わず目を丸くし、それからやわらかく笑った。


「覚えていてくださったんですね。ありがとうございます」


 手を伸ばしてそっと紙袋を受け取ると、そのぬくもりがじんわりと伝わってきた。

 紙袋の中からは、甘く香ばしい焼き菓子の匂いがふわりと漂い、心がほっと和らぐ。


「あとで、お茶を淹れますね。少し甘いのに合う、ハーブティーがありますから」

「楽しみにしてる」


 ジュードは部屋に入り、慣れた様子で椅子に腰を下ろす。

 まるで、ここが自分の部屋であるかのような自然な動作。

 私はその姿にふと目を細め、頬をほころばせた。


 机の上には、今日使う予定の香料がすでに並んでいる。

 柑橘系のトップノートに、スモーキーなミドルノート、そして官能的なアンバーのベース。

 どれも、彼を思い浮かべながら選んだ香りだった。


 今日は調香という名目のもとに、彼のそばにいられる。

 それだけで、十分だった。


「今日はこの前の試作品に、舞踏会の夜をイメージした香りをプラスしようと思います」


 そう言うと、ジュードはくすりと笑みを浮かべた。


「それ、僕をどう香らせたいの?」


 すこしおどけた彼の言葉に不意を突かれて、私は手を止める。

 言葉に詰まりながらも、ブラックティーに、かすかにスモーキーなウッドノートを重ねてみた。

 するとジュードも、隣で香料瓶を手に取り、いくつかの香りを試しはじめる。


「これとこれ、エマに似合いそうだな」


 差し出されたのは、甘さを抑えたオレンジブロッサムと、静けさを宿すアイリス。

 思いがけない組み合わせに、私の胸がふっと高鳴った。


「では、少しだけ混ぜてみますね」


 私は手際よく香料を調合し、小さなムエット紙に香りを移す。

 それをジュードに手渡すと、彼は顔を近づけ、そっと香りを吸い込んだ。


「エマの手の香りがうつってる」


 冗談めいた口調に、私は思わず固まった。


「私の香り、ですか?」

「うん。ほら、ここ。すごく好きな匂い」


 ジュードは試香紙の端を指で示す。

 その距離が思いのほか近くて、ふたりの顔が、ふと重なりそうになる。

 目を逸らすことなく、時が止まったように見つめ合った。

 心臓の音が、ジュードにも聞こえてしまいそうなほど、静かだった。


「次の試作、いきますね」


 私は椅子から立ち上がり、ほんのわずかに早口でそう言った。

 逃げたかったわけじゃない。

 けれど、このまま目をそらさずにいたら、何かが決定的に変わってしまいそうだった。


 その後も、私たちは香料を選びながら、いくつかの香りを試作した。

 ジュードが香りをひとつつひとつ嗅ぎ分け、感想を口にするたびに、私は小さく笑って頷いた。


「これは、心を許した人の前だけで見せる横顔……をテーマに調合してみました」


 私がそう説明すると、ジュードは目を細め、ふっと笑った。


「それって、今の君じゃない?」


 思わず顔を上げる。視線がぶつかる。

 けれど私は耐えきれず、そっと目を逸らした。

 胸が熱くなり、鼓動が速くなる。


 しんとした空気が流れた。

 沈黙を破ったのは、ジュードの低く、どこか切なさをにじませた声だった。


「香りって、ずるいな。こんなふうに、誰かを強く意識させるんだから」


 その言葉に、私は答えられなかった。

 私は調香師。今は仕事中。

 なのに、心臓の高鳴りが止まらなかった。


 ジュードはいくつかの香料を、真剣な面持ちで繰り返し試していた。

 鼻を近づけ、目を細め、少し考えては別の香料を取り出す。

 彼がこんなにも丁寧に香りと向き合う姿を、私はこれまでに見たことがなかった。

 その姿が、どこか新鮮で、まぶしく見えた。


 やがて、ムエット紙に新たな香りを染み込ませたジュードが、顔を上げる。

 少しだけ得意げに、けれどどこか照れたように微笑んだ。


「できたかも。君に似合う香り」


 その一言に、私の心臓がふっと跳ねた。

 ジュードが私のためだけに調香してくれた。

 その事実だけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。


 彼はそっとムエット紙を手に取り、私の方へ差し出した。

 その仕草は穏やかで、けれどどこか慎重で。

 まるで香りではなく、その先にある想いを、私に手渡そうとしているかのようだった。


「この香り、舞踏会の夜に君がつけてくれないかな」


 思いがけない言葉に、私は息をのむ。


「私が……?」


 自分でもわかるほど、声がかすかに揺れていた。

 心がふわっと舞い上がって、うまく気持ちを落ち着けられない。

 けれど、ジュードの眼差しはどこまでもまっすぐだった。


「うん。僕が作ったはじめての香り。君がつけてくれたら――きっとその夜が、忘れられなくなる」


 静かな声だった。けれど、その言葉には確かな想いが込められていた。

 胸の奥がじんわりと熱くなる。


 迷いながらも、私はジュードの手元にあるムエット紙へと手を伸ばした。

 ジュードが私のためだけに調香してくれた香りを、そっと吸い込む。


 アイリスの淡い安らぎ。その奥に、柑橘の透明感がほのかに漂う。

 そして、ごくわずかに残る、あたたかなバニラの余韻。

 やさしくて、穏やかで――それでいて、胸が締めつけられるような香りだった。


 これが、私をイメージした香りなんだ。


 その事実が、じんわりと胸にしみ込んでくる。

 彼が私を思い浮かべながら、選んでくれた香料たち。

 私だけのために調合された香りだと思うと、胸の奥がふるえて、感動が広がっていく。


 うれしくて、照れくさくて。

 信じられないほど、いとおしかった。

 でも、それを言葉にするのは、まだ少しだけ怖かった。


 部屋に満ちているのは、香りのはずなのに。

 その空気ごと、やさしく抱きしめられているような錯覚さえ覚える。

 こんなにもあたたかい香りが、自分のために生まれたのだと思うだけで、胸が締めつけられるような切なさが込み上げてきた。


 部屋の窓から差し込む午後の光は、少しずつやわらかさを増し、夕暮れの気配が近づいていた。

 ジュードがそっと差し出したムエット紙の香りを胸に、私はその余韻を静かに味わいながら、次の段階へと気持ちを整えていた。

ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。

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