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2.過去からの香り

 日はすっかり暮れている。

 私はまだ、あの香りの再現方法について考えていた。

 ジュードが残していった小瓶には、もう液体は一滴も残っていない。

 微かに漂うその残り香は、私の記憶の奥底にあるものとぴたりと重なっていた。


 ──亡き王女、クレア。


 彼女がいつもまとっていた香り。

 ラベンダーの甘さと、ほんのりと苦いクローブ、そしてパチョリの軽やかさ。

 これは私が彼女のためだけに調香した、唯一無二の香りだった。


 静かに小瓶の蓋を閉め、私は深くため息をつく。


 彼女が亡くなった今、この香りのレシピを知っているのは、私だけのはずだ。

 なぜなら、この香りは私とクレア、ふたりだけの秘密なのだから。


 アルムシュテット王国。

 この国の建国神話には深く香りが結びついている。

 伝説によれば、初代国王は神から「世界を治める香りの秘法」を授かり、以降、王族や貴族たちは血統や家名とともに、その人物個人の品格や個性を映し出す香りを持つようになった。

 香りは単なる趣味ではなく、政治的な意思表示や身分の証明として重要視されているのだ。


 血統、品格、教養……すべてを香りが代弁する。

 貴族である限り、香りは生涯をともにするもうひとつの顔。

 上級貴族であれば当然のように、専属調香師を雇っていた。


 私は、クレアの個人的な専属調香師だった。


 けれど、それだけではない。

 クレアは私の、大切な親友だった。


 私は子どもの頃から王宮に出入りしていた。

 なぜなら、私は第一王子ダナヒューの許嫁であり、公爵家の令嬢として、妃教育を受けていたからだ。

 けれど内心、私は社交のきらびやかさより、香りを好んでいた。


 香りは、嘘をつかない。

 そんな私に、誰よりも理解を示してくれたのが、クレアだった。

 いつしか私は、彼女だけの香りを作るようになった。


「ねえ、次はどんな香りを作ってくれるの?」


 彼女は控えめで、上品で。

 けれど誰にも負けない芯の強さを持ち合わせていた。

 私たちはふたりで王宮の庭に座り、花を砕いては香りを試すのが日課だった。


 成分も、調香の順番も、保管方法も、誰にも教えなかった。

 ふたりだけの秘密。

 誰にも知られていない、クレアのためだけの香水。

 それはあの事件が起きるまで、ずっと守られていた。


 3年前。

 クレアは、突然この世を去った。

 原因は表向き病死とされたが、死の直後、私は毒殺の嫌疑をかけられた。


「エメリナ様が、クレア様のお飲み物に何かを……」


 玉座でそう証言したのは、のちの第一王子の新しい婚約者──聖女ヴァネッサだった。

 私は否定した。

 いくらでも反論した。

 けれど、声は誰にも届かなかった。


 証拠もなかったが、無実を証明もできなかった。

 第一王子のダナヒューは黙して語らず、第二王子のジュードもまた冷たい視線をこちらに向けていた。


 あの瞬間、私は孤立していた。

 嫌疑不十分のまま、なんとか処刑だけは免れた。


 けれど、当然のように、私の人生は暗転する。

 婚約破棄、爵位剥奪、勘当。そして、追放。

 ──それが、私の過去。


 そして今日、ジュードが私の元を訪れた。

 彼は小瓶を手に、あの香りを再現してほしいと頼んできた。

 胸がざわついたのは、それが単なる依頼ではなかったからだ。


「どうしても、もう一度だけ、あの香りに会いたい」


 そう言ったジュードの薄橙色の瞳が、頭から離れなかった。

 どうして、よりにもよって私なのだろう。

 これは果たして偶然なのだろうか。


 “亡き姉の香りをもう一度”と願うだけなら、わざわざ私を選ぶ理由はない。

 王都には私よりも腕のいい調香師など、ごまんといるはずだ。


 それなのに、どうして辺境の地にいるこの私に?

 もしかして私の正体に気づいている?

 それとも本当に、ただの偶然?


 大量の疑問符が、頭の中を埋め尽くす。

 ジュードの真意など、いくら考えども分かろうはずもない。

 ただ、ほんの一瞬、彼が見せた瞳が、なぜだか忘れられなかった。


 フードの影から覗いたあのまなざし。

 あの日、私を断罪する場にいた人とは思えないほど静かで、切実で。

 思い返すたびに、心のどこかがざわついた。


 懐かしさでも、怒りでもない。

 だからこれは、たぶん──再会という名の“引っかかり”。


 もう過ぎ去ったはずのものに、そっと触れられたような。

 誰かに、自分の存在を思い出されてしまったような。

 そんな説明のつかない感覚だった。


 そうして気付いた。

 私は今、彼のことを考えている。

 考えまいとしているのに、考えてしまっている。

 私の平穏な暮らしの中に、ジュードが入り込んできた。


 ──この再会が、ただの偶然で終わりますように。


 そう願わずにはいられなかった。

 そして、再びあの香りを調合するということ。

 それは私の過去と、決別していたはずのすべてと、もう一度向き合うことを意味していた。


「……少し、材料を取り寄せないと」


 静かにそう呟き、私は椅子を立った。

 かつて封じたはずの香りに、今ふたたび向き合う日が来るとは思わなかった。

 誰よりも私が知る香りを、私の手で再び生み出す──それが調香師としての、今回の私の仕事だ。


 再現する香りは、亡き王女の記憶。

 向き合うのは、過去の自分。


 今の平穏な日常が変わってしまうのではないか。

 そんな予感だけが、静かに胸をざわつかせていた。

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