表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/46

19.この距離を壊したくなくて

 月の光が、淡くカーテン越しに差し込んでいた。

 小さな宿の部屋。窓辺に置いた試作瓶の傍には、微かに残り香が漂っている。


「これは、間違いなく僕の香りだ」


 ジュードの声が、耳の奥でふとよみがえった。

 嬉しかった。

 けれど彼の心に触れるたび、私はまた少しずつ、嘘を積み重ねている気がする。


 私はそっと胸に手を当て、彼が立っていた場所に視線を向ける。

 もう姿はないのに、空気にはまだ彼の気配が残っているようで、離れがたくて目を逸らせなかった。


 最初に依頼を受けたときは、彼に近づくつもりなんてなかった。

 けれど彼の言葉や仕草、時折見せる無防備な笑顔に、私はどうしようもなく惹かれていた。

 私は偽りの仮面をかぶっているのに、ジュードは私をまっすぐに信じてくれる。

 そのやさしさが、痛い。

 いつかこの関係が崩れてしまう時、私はきっと、取り返しのつかない後悔をする。

 そう分かっているのに、彼のそばにいたくて。

 甘えてはいけないと分かっているのに、笑顔を向けられると、それだけで救われた気がしてしまう。


 私は心にじくじくとした痛みを抱えたまま、ベッドにもぐりこんだ。



   ***



 昨夜はほとんど眠れなかった。


 ベッドに横たわっていても、彼の声が耳の奥に残って離れない。

 何度も枕元に置いた試作品の香水瓶に手を伸ばしそうになって、そのたびに思いとどまった。

 深く関われば関わるほど、私はきっと、戻れなくなる。

 なのに朝が来て、彼と街へ出る約束を思い出すと、心が勝手に弾んでいた。


 私は宿を訪ねてきたジュードと共に、街を歩いていた。

 王都の空気は心地よく晴れていて、小さな噴水のある広場では、子どもたちが水辺ではしゃいでいる。

 私たちはその噴水の縁に並んで腰かけ、しばし無言のまま、水の音に耳を傾けていた。


「今日は、いい天気だな」


 ジュードがぽつりとつぶやく。

 私は「そうですね」と微笑み返した。

 少しして、彼がふと私を見た。


「君が作ってくれたあの試作品の香水だけど。やっぱり不思議なんだ」

「……不思議?」

「うん。なぜ君には、僕の心が分かるんだろうって思ってさ」


 その一言に、胸の奥がぎゅっと縮こまった。

 私は思わず視線を逸らしそうになるのをこらえ、そっと答える。


「香りは、感情や記憶に深く結びついていますから。ジュードの言葉や表情から、無意識に汲み取ったのかもしれません」

「それだけじゃ、説明がつかない気がするんだよ」


 彼の薄橙色の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。

 その目の奥に、探るような光が宿っている。

 私は背筋がひやりと冷えるのを感じた。


「僕たちが出会って、まだ1ヶ月しか経ってない。けど君は、ずっと前から僕のことを知っていたんじゃないかって、そんな気がするんだ。じゃなきゃ、きっとあの香りは作れない」

「考えすぎですよ」

 

 私は静かに笑顔を浮かべた。

 けれど、心の中で「やめて」と叫ぶ声が止まらなかった。

 じっとりと、手のひらに冷や汗がにじむ。


「香りをかぐと、ほんの一瞬だけど、時間が巻き戻るような感覚になる。そういう経験、ないかい?」

「そうですね。私にも、あります」

「僕は君の香りを嗅ぐと、君と昔どこかで会ったことがある気がするんだ」

「気のせいです。人って、知らず知らず誰かに似た香りを求めるものですから」


 穏やかな口調を保ちながら、心の中で繰り返す。

 どうか、これ以上は踏み込まないで。


 彼の言葉は、無邪気な好奇心に見せかけて、その奥に鋭い直感が潜んでいるように思えた。

 ジュードはきっと、まだ全てを悟ってはいない。

 けれど、少しずつ、核心に近づいている。


 もしこのまま、彼が真実に辿り着いてしまったら。

 その時、彼は私をどう見るのだろう。

 信じてくれた気持ちごと、裏切ってしまうことになるのだろうか。

 怖い。けれど、逃げることもできない。

 彼の目に映る私は、いったいどちらの私なんだろう。


 私は手のひらを軽く握った。爪が、ほんの少しだけ手のひらに食い込む。

 怖い。彼と私の関係が変わってしまうのが。


 そのとき、近くの教会から鐘の音が鳴り響いた。

 広場の空気が、ほんの一瞬止まったように感じる。


「もうこんな時間ですね」


 私が立ち上がると、ジュードもそれに続いた。


「君と話してると、時間の流れが早いな」

「私も、同じ気持ちです」


 心地のよい距離感。

 私の偽りが白日に晒されるその日まで、どうか少しだけ、このままで。


「ジュード。明日も私の部屋に来てくださいますか。試作品の完成度を高めたいのです」

「もちろんだよ。よろこんで」


 笑顔を崩さずに、私は深くお辞儀をする。

 胸の奥にあるひやりとした不安を、無理矢理に押し隠した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ