19.この距離を壊したくなくて
月の光が、淡くカーテン越しに差し込んでいた。
小さな宿の部屋。窓辺に置いた試作瓶の傍には、微かに残り香が漂っている。
「これは、間違いなく僕の香りだ」
ジュードの声が、耳の奥でふとよみがえった。
嬉しかった。
けれど彼の心に触れるたび、私はまた少しずつ、嘘を積み重ねている気がする。
私はそっと胸に手を当て、彼が立っていた場所に視線を向ける。
もう姿はないのに、空気にはまだ彼の気配が残っているようで、離れがたくて目を逸らせなかった。
最初に依頼を受けたときは、彼に近づくつもりなんてなかった。
けれど彼の言葉や仕草、時折見せる無防備な笑顔に、私はどうしようもなく惹かれていた。
私は偽りの仮面をかぶっているのに、ジュードは私をまっすぐに信じてくれる。
そのやさしさが、痛い。
いつかこの関係が崩れてしまう時、私はきっと、取り返しのつかない後悔をする。
そう分かっているのに、彼のそばにいたくて。
甘えてはいけないと分かっているのに、笑顔を向けられると、それだけで救われた気がしてしまう。
私は心にじくじくとした痛みを抱えたまま、ベッドにもぐりこんだ。
***
昨夜はほとんど眠れなかった。
ベッドに横たわっていても、彼の声が耳の奥に残って離れない。
何度も枕元に置いた試作品の香水瓶に手を伸ばしそうになって、そのたびに思いとどまった。
深く関われば関わるほど、私はきっと、戻れなくなる。
なのに朝が来て、彼と街へ出る約束を思い出すと、心が勝手に弾んでいた。
私は宿を訪ねてきたジュードと共に、街を歩いていた。
王都の空気は心地よく晴れていて、小さな噴水のある広場では、子どもたちが水辺ではしゃいでいる。
私たちはその噴水の縁に並んで腰かけ、しばし無言のまま、水の音に耳を傾けていた。
「今日は、いい天気だな」
ジュードがぽつりとつぶやく。
私は「そうですね」と微笑み返した。
少しして、彼がふと私を見た。
「君が作ってくれたあの試作品の香水だけど。やっぱり不思議なんだ」
「……不思議?」
「うん。なぜ君には、僕の心が分かるんだろうって思ってさ」
その一言に、胸の奥がぎゅっと縮こまった。
私は思わず視線を逸らしそうになるのをこらえ、そっと答える。
「香りは、感情や記憶に深く結びついていますから。ジュードの言葉や表情から、無意識に汲み取ったのかもしれません」
「それだけじゃ、説明がつかない気がするんだよ」
彼の薄橙色の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
その目の奥に、探るような光が宿っている。
私は背筋がひやりと冷えるのを感じた。
「僕たちが出会って、まだ1ヶ月しか経ってない。けど君は、ずっと前から僕のことを知っていたんじゃないかって、そんな気がするんだ。じゃなきゃ、きっとあの香りは作れない」
「考えすぎですよ」
私は静かに笑顔を浮かべた。
けれど、心の中で「やめて」と叫ぶ声が止まらなかった。
じっとりと、手のひらに冷や汗がにじむ。
「香りをかぐと、ほんの一瞬だけど、時間が巻き戻るような感覚になる。そういう経験、ないかい?」
「そうですね。私にも、あります」
「僕は君の香りを嗅ぐと、君と昔どこかで会ったことがある気がするんだ」
「気のせいです。人って、知らず知らず誰かに似た香りを求めるものですから」
穏やかな口調を保ちながら、心の中で繰り返す。
どうか、これ以上は踏み込まないで。
彼の言葉は、無邪気な好奇心に見せかけて、その奥に鋭い直感が潜んでいるように思えた。
ジュードはきっと、まだ全てを悟ってはいない。
けれど、少しずつ、核心に近づいている。
もしこのまま、彼が真実に辿り着いてしまったら。
その時、彼は私をどう見るのだろう。
信じてくれた気持ちごと、裏切ってしまうことになるのだろうか。
怖い。けれど、逃げることもできない。
彼の目に映る私は、いったいどちらの私なんだろう。
私は手のひらを軽く握った。爪が、ほんの少しだけ手のひらに食い込む。
怖い。彼と私の関係が変わってしまうのが。
そのとき、近くの教会から鐘の音が鳴り響いた。
広場の空気が、ほんの一瞬止まったように感じる。
「もうこんな時間ですね」
私が立ち上がると、ジュードもそれに続いた。
「君と話してると、時間の流れが早いな」
「私も、同じ気持ちです」
心地のよい距離感。
私の偽りが白日に晒されるその日まで、どうか少しだけ、このままで。
「ジュード。明日も私の部屋に来てくださいますか。試作品の完成度を高めたいのです」
「もちろんだよ。よろこんで」
笑顔を崩さずに、私は深くお辞儀をする。
胸の奥にあるひやりとした不安を、無理矢理に押し隠した。




