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17.偽りの名のままで

 午後の陽が少しだけ傾き始めた頃。

 私たちはようやく宿屋へと戻ってきた。


 木造の扉を開けると、鼻先をくすぐるのは、焼き立てのパンとローズマリーの香り。

 小さな暖炉のあるロビーは、ほっと息がつけるようなぬくもりに包まれていた。


「おかえりなさいませ」


 宿の女将が優しく声をかけてくれたが、ジュードは軽く会釈を返すだけだった。彼の表情は、ずっと険しいままだった。

 部屋へと続く階段を上がりながら、私はちらりと彼を見上げる。

 まるで、口を閉ざしたまま怒りを飲み込もうとしているような、そんな横顔。


「ジュード」


 意を決して声をかけると、ジュードはようやく歩を止めて、私の方を向いた。


「そんなに、怖い顔をしないでください」


 私が言うと、ジュードは少しだけ目を見開いて、すぐに苦笑を浮かべた。


「ああ、ごめん、つい顔に出てしまってたんだな」


 自嘲するように額に手を当て、息を吐く。


「怒っていたんですね。聖女様のこと」

「すまない。どうしても、抑えきれなくて」


 ジュードの声には、静かな怒りと、深い悲しみが混ざっていた。


「どうしてそこまでして、姉上になろうとするんだ……。あんなことをして、何か満たされるのか?」


 私は何も言えず、ただ黙って彼の隣に立ち続けた。

 怒りと悲しみの交じるジュードの言葉が、胸の奥に重くのしかかる。


 ――これほど真剣に姉を想う彼に、私はどれだけのことを隠しているのだろう。


 嘘をついているのは、ヴァネッサだけじゃない。

 今、彼の隣にいる“私”もまた、本当の姿じゃないのに。


「エマ」


 突然、ジュードが声を低めた。


「すこしエマに話したいことがあるんだ。部屋でいいかな?」

「はい」


 私は静かに頷き、ジュードのあとに続いた。



   ***



 宿泊している部屋に入ると、ジュードはフードを外した。

 私は窓際の椅子に腰を下ろす。

 彼も私の向かいに座り、しばらく口を開かなかった。


 窓の外からは、行き交う人々の足音と、遠くの教会の鐘の音が、風に乗ってゆるやかに届いてくる。


 やがて意を決したように、真剣なまなざしでジュードが口を開いた。


「すまない。ひとつ、お願いがあるんだ」

「はい。なんでしょう?」


 私が身を乗り出すと、ジュードは少しだけ肩をすくめた。


「実はね。3週間後、舞踏会があるんだ。王宮主催の、正式なものだ」

「舞踏会……」


 どこか懐かしい言葉のように感じて、思わず口の中で繰り返す。


「僕も、出席しなくちゃいけないんだけど……」


 ジュードは言いづらそうに言葉を切り、それからふっと視線をこちらへ戻す。


「そこで使う香水を、君に作ってほしい」

「私に、ですか?」

「うん。君にしか頼めない。今の僕の気持ちにふさわしい香りを、君に作ってほしいんだ」


 ジュードの声には真剣さと、少しだけ照れた色がにじんでいた。

 私はゆっくりと頷く。


「光栄です。ぜひ、お作りします」


 そう答えながら、胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。

 私を調香師として認めてくれた。その想いが、胸にあたたかく広がった。


「ありがとう。それからもうひとつ」


 ジュードは少し言葉を選ぶようにして、静かに続けた。


「その場で君のことを、僕の専属調香師として紹介したい」

「……え?」


 思わず、声が出てしまった。

 ジュードの瞳はまっすぐで、どこまでも揺るぎなかった。


「僕の専属調香師の立場を手に入れれば、君は王宮にも出入りできるようになる。そうすれば、ヴァネッサの香りにもっと近づける」


 それに、とジュードは先を続ける。


「舞踏会には、各地から貴族や商人、研究者たちが集まるんだ。だからこそ、君の才能をもっと多くの人に知ってもらいたい。君は、あの辺境の町で埋もれているような人じゃないから」


 ジュードは、やさしい笑みを浮かべた。


「舞踏会で、大々的にエマをお披露目するんだ。いいかな?」


 私は思わず息をのんだ。

 まさか、そんなことを言われるなんて思っていなかった。


 王宮の舞踏会で、王族の“専属調香師”として名を呼ばれる――

 それは、平民として生きている今の私には、あまりに遠い世界の話だった。


「……ありがとうございます。でも」


 そう言いかけて、私はそっと口をつぐむ。


 本当に、そんなふうに紹介されていいの?

 本当は、私は“エマ”なんかじゃないのに。


 エメリナ・エクルンド。

 かつて王都から追放された、公爵令嬢。

 そして、クレア殺しの容疑をかけられた者。


 王宮で、第二王子の“専属調香師”として名を呼ばれるということは、ジュードの名のもと、“私”が公の場に立つということ。

 もし正体が露見すれば――

 私だけではなく、ジュードや王家の名にも計り知れない傷を残してしまうかもしれない。


 その未来を思うと、震えるほど怖かった。

 口元が、自然ときゅっと結ばれる。


「エマ? 無理なら、もちろん言ってくれていいんだ」


 ジュードはあくまで穏やかだった。

 そのやさしさが、今はひどくつらい。


「……いえ。嬉しいです。ありがとうございます」


 私はようやく、笑みを返した。

 ジュードの申し出を――受け入れてしまった。


 本当に、これでよかったのだろうか。

 けれど、このままヴァネッサの悪事を見過ごすわけにはいかない。

 あの人はまた、誰かを傷つけるかもしれない。

 私のように、すべてを失わせるようなやり方で。


 クレアのことを思い出すたび、胸がざわついた。

 彼女の香りを“盗んだ”聖女。

 そして、その香りを、誰よりも大切にしていた親友。


 クレアの死の真相を明かすこと。

 それが、彼女へのささやかな弔いになると信じたい。


「専属調香師として、心を尽くして、お仕えいたします」


 言葉にした瞬間、胸のざわつきがわずかに和らいだ。

 けれど、ジュードに隠しごとをしたまま彼の隣にいることが、少しずつ私の心を締めつけていく。


 舞踏会の夜。

 この嘘がすべてを壊してしまう。

 そんな予感だけが、心の片隅で消えずにいた。

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