13.王都、再び
馬車から降り、王都の門をくぐったとき、私は小さく息をのんだ。
懐かしさと、言いようのない緊張が胸に広がっていく。
石畳を叩く馬のひづめの音が、規則正しく響いている。
街路樹には春の芽吹きがのぞき、店先からは甘い焼き菓子の香りが漂ってくる。
何度も歩いたはずのこの通り。
けれど今は、どこか別の国の風景のように思えた。
人々の営み、賑やかな話し声。
この王都独特の空気。
すべてが懐かしいはずなのに、その輪の中に自分がもう含まれていないことを、ひしひしと感じる。
ここで生きていた日々は確かにあったはずなのに。
今や私は、通りすがりの旅人にすぎない。
かつての私がいた場所に、もう私の居場所はないのだ。
ふと、通りすがる人々の声が耳に届く。
「聖女様が最近、公式の場に出られたんですって」
「まるで亡き王女様の生まれ変わりみたいよね」
「第一王子殿下との婚約、ほんとうに祝福されてるわ」
ざわめきの中。
私の肌が、ぞわりと肌が粟立つのがわかった。
クレアは、民に愛されていた。
王族でありながら、誰にでも優しく微笑みかけ、貧しい者にも身分の隔てなく声をかける人だった。誰よりも民に寄り添い続けたその姿に、人々は深い敬愛と親しみを抱いていた。
それなのに、まるで彼女が生まれ変わったかのように語られるヴァネッサ――
(冗談じゃないわ)
私がひそかに肩を震わせていると、フードを被って顔を隠したジュードが声をかけてくる。
「今日はもう休もう。君には安全な場所で休んでほしい」
「ありがとうございます」
彼の心遣いに、自然と肩の力が抜けた。
宿に着くと、室内は簡素ながら清潔に整えられていた。
荷ほどきをしていると、ようやく心が少し落ち着いてくる。
ひと息ついた私は、窓辺に腰を下ろした。
王都の喧騒はここまでは届かず、部屋の中には穏やかな沈黙が流れている。
その沈黙を破るように、ジュードがテーブルに小さなティーポットを置いた。
「よかったら飲まないか。宿の主人が淹れてくれたんだ」
「ありがとうございます」
湯気の立ちのぼる香りに、私は少しだけほっと息をついた。
ジュードは私の隣の椅子に腰かけ、同じようにカップを手にする。
言葉がなくても、沈黙が苦ではなかった。
肩がほんの少しだけ触れそうな距離。
視線が重なると、思わず目をそらした。
どくん、と胸が高鳴る。
先ほどまでの不安が、別のざわめきに変わっていく。
「あの、殿下」
「ジュードでいいよ、ここでは。誰が聞いているかわからないからね」
その言葉が、私の心をかき乱す。
第二王子だと周囲に知れれば街では動きにくい。
呼び捨てを望む意図など、それ以外にないというのに。
「……ジュード。これでいいですか?」
「ああ、それでいい。なんだかくすぐったいな」
彼の視線が、やわらかくほどけた。
私が頬を赤らめてうつむくと、ジュードはいたずらっぽく笑う。
「もう一回呼んでみてくれないか」
「え?」
「今の、“ジュード”って」
「それは、もう言いました」
「うん。でも、なんだか癖になりそうだったから」
「……もう!」
思わず、頬をふくらませてしまった。
ジュードはそんな私の表情に、楽しそうに目を細めた。
けれど、その笑みがすっと静まる。
ふと感じた沈黙に、私ははっとして顔を上げた。
先ほどまでのやわらかな雰囲気とは違う、真剣な気配がジュードの目元に宿っている。
彼は椅子の背に身体を預け、ゆっくりと息を吐いた。
「君に見せたいものがあるんだ」
そう言って、彼は懐から1枚の書類を差し出した。
そこには、いくつかの香料名と、取引商人の名が並んでいる。
「これは?」
「聖女ヴァネッサの屋敷に出入りしている商人を調べた。中には香料商もいてね。その取引内容の一部を写したものだ」
私は震える手で紙を受け取り、目を走らせる。
そして、息をのんだ。
「この組み合わせは……」
見覚えがあった。
これは、クレアに調香した香りの、核となるブレンドと酷似している。
「この香料の順番、この比率……偶然とは思えません」
「やはり、そうか」
ジュードの声が、宿の部屋に静かに響いた。
「ヴァネッサは、専属の調香師を雇っていない。どうやら自分で香水を作っているらしい」
「自分で……?」
「彼女が本当に調香の知識を持っていたかはわからない。けれど、これを見る限りは、姉上の香水のレシピが、なんらかの理由で彼女の手に渡ったと考えるのが自然だ」
私は唇を噛みしめた。
なぜ、彼女が。
「エマ。明日は聖女に会ってほしい。そして――」
ジュードの薄橙色の瞳が、私をとらえる。
「聖女のまとう香りが、本当に姉上の香りなのか確かめてくれ」
静かに、私は頷いた。
「わかりました。必ず、確かめます」
それが、クレアの無念を晴らすための一歩になるのなら。
カップの中の紅茶は、もう冷めていた。
けれどその香りは、不思議と澄んで感じられる。
まるで、次の道を示すように。
私の中に、ひとつの決意が宿った。
誰が何を盗み、誰が何を奪ったのか。
香りをたどって、暴いてみせる。
窓の外で、教会の鐘が鳴った。




