表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/46

1.第二王子との再会

「この香り……亡くなった王女殿下のものでは?」


 私の口からこぼれた問いに、依頼人の男の肩がわずかに揺れた。

 彼はフードを深くかぶっていて、その表情は見えない。


(……やっぱり)


 私は今、“エマ”という名で、辺境の小さな町の片隅にある香水店を営んでいる。

 かつての公爵令嬢でも、第一王子の許嫁でもない。

 香りを調合し、依頼に応えるただの調香師だ。


 けれど目の前の依頼人が「この香りを再現してほしい」と差し出した香水瓶は、私の静かな日々に過去の記憶を引きずり戻すには、あまりにも強烈だった。


「この香りを覚えている人が、まだいるとは……驚いたよ」


 低く抑えられた声に、私ははっとする。


 次の瞬間、男がゆっくりと顔を上げた。

 フードの陰からのぞいた瞳が、まっすぐに私を射抜く。


 薄橙色の瞳。

 陽だまりのようなやわらかい光を湛えたその色を、私は知っている。

 断罪の場で、私を見下ろしたときのあの目だ。


 ──ジュード・アルムシュテット。

 王家の第二王子。故王女の弟。

 そして、かつて私に断罪の視線を向けた男。


 私は、彼の兄である第一王子ダナヒューの婚約者だった。

 公爵家の令嬢として、社交界の華と呼ばれた日々。

 それが一夜にして崩れ去ったのは、聖女からの断罪のせいだ。

 

 聖女に偽りの罪を着せられ、悪役令嬢の烙印を押され、婚約は破棄され、爵位を剥奪された。

 あの玉座の間で、ふたりの王子が私を見下ろした冷たい眼差しを、今も私は忘れられない。


 だというのに――


 今、目の前のジュードの声からは、あの日の冷たさは感じられなかった。

 驚きと戸惑い、そして、わずかな感情の揺らぎが伝わってくる。


「まさか、こんなふうに見抜かれるとは」


 その声音は、あの日、玉座の間で私を冷たく見下ろした時とは明らかに違っていた。

 穏やかで、敬意を含んでいるようにさえ思えた。


「君は本当に、すぐれた調香師なんだね」


 言葉を返せないまま、私は手の中の香水瓶を見つめた。

 中には、もう液体は残っていない。

 けれど、わずかに残る香りの記憶だけで、王女殿下がかつてまとっていた香水であることは明白だった。


「申し遅れたね、僕はジュード。第二王子、と言った方が通りが良いかな。今日はお忍びでここに来ているんだ」


 ジュードはフードを外すと、私に微笑んだ。

 依頼の品が王女の香りと知れた今、正体を隠す必要はないと踏んだのだろう。


「それは姉が生きていた頃、いつもまとっていた香りなんだ」


 ジュードのまなざしは、どこか遠くを見つめるように揺れている。


「もう手に入らないものでね。どうしても、もう一度だけ、あの香りに会いたい」


 彼の声音には、かつての冷ややかさは微塵もない。

 ただ、喪った人への想いだけが、切実ににじんでいた。


「姉はもういないとわかっていても、ふとした瞬間にあの香りを思い出すと……まるで、すぐそばにいるような気がしてしまうんだ」


 その言葉に、私は戸惑いと困惑を覚えた。

 この人は、確かにあの断罪の場にいた。

 私の無実の訴えを退け、冷たく目を伏せた――あのときのジュードだ。


 なのに今、こんなまっすぐな目を向けてくるのは、どうして?

 胸の奥で、かつての記憶がざわめく。


 公爵令嬢、“エメリナ・エクルンド”。

 そしてジュードの兄である第一王子の許嫁。

 それが、かつての私。


 私は社交界では常に中心にいて、誰よりも華やかに振る舞い、誰よりも注目されていた。

 けれどすべては、ある日を境に崩れ落ちた。


 婚約破棄。爵位剥奪。勘当。そして、王都からの追放。

 玉座の間で、聖女が涙ながらに訴え、私は王女毒殺の罪を着せられた。

 言い訳も、抗弁も許されなかった。


 そのとき、ようやく私は思い出したのだ。

 ──ここは、前世で遊んだ乙女ゲームの世界だと。

 私が“悪役令嬢”として設定された存在であることを。


 もっと早く気づいていれば、結末は変わったかもしれない。

 でも、もう遅かった。


 すべてを失った私は、顔を変え、名前を変え、この町へ逃れた。

 宮廷魔術師の術によって、鏡に映る自分の姿すらも別人となった私は、“エメリナ”という過去を捨てて、“エマ”として生きている。

 かつての私を知る者が、目の前に立ったとしても、決して気づかない。

 それほどに顔も雰囲気も、まるで別人のように変わってしまっていた。


「金に糸目はつけない。どうか、よろしく頼むよ」


 ジュードの声が、再び私を現実に引き戻した。

 その目は、あの頃のものとまったく違う。

 まるでガラス細工のように、脆く、真剣で。


「……殿下のご依頼をお断りする理由は、ございません」


 私は、できるかぎり平静を装って答えた。

 指先がわずかに震えていたけれど、それを悟られぬよう、ゆっくりと息を吐く。


 心臓がばくばくと嫌な音をたてて鳴り響いていた。

 大丈夫だ。私がかつて何者だったかを、彼は知らない。

 知っていたら、こんなふうに依頼など持ち込まないはずだ。


「1ヶ月。お時間をいただけますか?」


 この依頼を断れば、“エマ”として築いてきたものすら崩れてしまう気がした。

 だから私は、香りの記憶に揺れながらも、頷くしかなかった。


 ただの調香師として、香りの依頼に応えただけ。

 それだけのはずなのに、運命の手は容赦なく、私の過去を引きずり出そうとしている。


 香りは、記憶を呼び起こす。

 そして今、私は香りを通して、再び運命に試されようとしていた。

数年ぶりのなろう投稿でとても緊張しています。

気に入って頂けましたら、この下にある[★★★★★]やブクマで応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ