1.第二王子との再会
「この香り……亡くなった王女殿下のものでは?」
私の口からこぼれた問いに、依頼人の男の肩がわずかに揺れた。
彼はフードを深くかぶっていて、その表情は見えない。
(……やっぱり)
私は今、“エマ”という名で、辺境の小さな町の片隅にある香水店を営んでいる。
かつての公爵令嬢でも、第一王子の許嫁でもない。
香りを調合し、依頼に応えるただの調香師だ。
けれど目の前の依頼人が「この香りを再現してほしい」と差し出した香水瓶は、私の静かな日々に過去の記憶を引きずり戻すには、あまりにも強烈だった。
「この香りを覚えている人が、まだいるとは……驚いたよ」
低く抑えられた声に、私ははっとする。
次の瞬間、男がゆっくりと顔を上げた。
フードの陰からのぞいた瞳が、まっすぐに私を射抜く。
薄橙色の瞳。
陽だまりのようなやわらかい光を湛えたその色を、私は知っている。
断罪の場で、私を見下ろしたときのあの目だ。
──ジュード・アルムシュテット。
王家の第二王子。故王女の弟。
そして、かつて私に断罪の視線を向けた男。
私は、彼の兄である第一王子ダナヒューの婚約者だった。
公爵家の令嬢として、社交界の華と呼ばれた日々。
それが一夜にして崩れ去ったのは、聖女からの断罪のせいだ。
聖女に偽りの罪を着せられ、悪役令嬢の烙印を押され、婚約は破棄され、爵位を剥奪された。
あの玉座の間で、ふたりの王子が私を見下ろした冷たい眼差しを、今も私は忘れられない。
だというのに――
今、目の前のジュードの声からは、あの日の冷たさは感じられなかった。
驚きと戸惑い、そして、わずかな感情の揺らぎが伝わってくる。
「まさか、こんなふうに見抜かれるとは」
その声音は、あの日、玉座の間で私を冷たく見下ろした時とは明らかに違っていた。
穏やかで、敬意を含んでいるようにさえ思えた。
「君は本当に、すぐれた調香師なんだね」
言葉を返せないまま、私は手の中の香水瓶を見つめた。
中には、もう液体は残っていない。
けれど、わずかに残る香りの記憶だけで、王女殿下がかつてまとっていた香水であることは明白だった。
「申し遅れたね、僕はジュード。第二王子、と言った方が通りが良いかな。今日はお忍びでここに来ているんだ」
ジュードはフードを外すと、私に微笑んだ。
依頼の品が王女の香りと知れた今、正体を隠す必要はないと踏んだのだろう。
「それは姉が生きていた頃、いつもまとっていた香りなんだ」
ジュードのまなざしは、どこか遠くを見つめるように揺れている。
「もう手に入らないものでね。どうしても、もう一度だけ、あの香りに会いたい」
彼の声音には、かつての冷ややかさは微塵もない。
ただ、喪った人への想いだけが、切実ににじんでいた。
「姉はもういないとわかっていても、ふとした瞬間にあの香りを思い出すと……まるで、すぐそばにいるような気がしてしまうんだ」
その言葉に、私は戸惑いと困惑を覚えた。
この人は、確かにあの断罪の場にいた。
私の無実の訴えを退け、冷たく目を伏せた――あのときのジュードだ。
なのに今、こんなまっすぐな目を向けてくるのは、どうして?
胸の奥で、かつての記憶がざわめく。
公爵令嬢、“エメリナ・エクルンド”。
そしてジュードの兄である第一王子の許嫁。
それが、かつての私。
私は社交界では常に中心にいて、誰よりも華やかに振る舞い、誰よりも注目されていた。
けれどすべては、ある日を境に崩れ落ちた。
婚約破棄。爵位剥奪。勘当。そして、王都からの追放。
玉座の間で、聖女が涙ながらに訴え、私は王女毒殺の罪を着せられた。
言い訳も、抗弁も許されなかった。
そのとき、ようやく私は思い出したのだ。
──ここは、前世で遊んだ乙女ゲームの世界だと。
私が“悪役令嬢”として設定された存在であることを。
もっと早く気づいていれば、結末は変わったかもしれない。
でも、もう遅かった。
すべてを失った私は、顔を変え、名前を変え、この町へ逃れた。
宮廷魔術師の術によって、鏡に映る自分の姿すらも別人となった私は、“エメリナ”という過去を捨てて、“エマ”として生きている。
かつての私を知る者が、目の前に立ったとしても、決して気づかない。
それほどに顔も雰囲気も、まるで別人のように変わってしまっていた。
「金に糸目はつけない。どうか、よろしく頼むよ」
ジュードの声が、再び私を現実に引き戻した。
その目は、あの頃のものとまったく違う。
まるでガラス細工のように、脆く、真剣で。
「……殿下のご依頼をお断りする理由は、ございません」
私は、できるかぎり平静を装って答えた。
指先がわずかに震えていたけれど、それを悟られぬよう、ゆっくりと息を吐く。
心臓がばくばくと嫌な音をたてて鳴り響いていた。
大丈夫だ。私がかつて何者だったかを、彼は知らない。
知っていたら、こんなふうに依頼など持ち込まないはずだ。
「1ヶ月。お時間をいただけますか?」
この依頼を断れば、“エマ”として築いてきたものすら崩れてしまう気がした。
だから私は、香りの記憶に揺れながらも、頷くしかなかった。
ただの調香師として、香りの依頼に応えただけ。
それだけのはずなのに、運命の手は容赦なく、私の過去を引きずり出そうとしている。
香りは、記憶を呼び起こす。
そして今、私は香りを通して、再び運命に試されようとしていた。
数年ぶりのなろう投稿でとても緊張しています。
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