乗り合い
午前6時。 男は、いつものように目を覚ました。
扇風機の風が生ぬるく、背中には寝汗が張りついている。 窓は開け放たれていたが、風は一切吹いていなかった。
携帯のアラームを止めると、未読メールが一通届いていた。 件名も本文もシンプルだった。
【ZBV】本日現場あり。送迎バス、7:30発。集合:駅前ロータリー。
週刊誌と、よれたチラシの間に挟まっていた作業ズボンをはき、 Tシャツを裏返しのまま着た。 ペットボトルの水を1本と、財布だけをポケットに突っ込む。
朝食はいつも通り、なし。
集合場所のロータリーには、見覚えのない顔ばかりが立っていた。 誰も話さない。 スマホを見ている者すらいなかった。
7時30分。 ぴったりの時刻に、白いマイクロバスが滑り込んできた。
無地。 会社名も行き先表示もない。 だが、こういうバスは何処にでもある。
冷凍工場とか、建築の現場とか。道行く人々は誰も気にしなかった。
ドアが開いた。 順番に乗り込む。 名簿のチェックもなく、運転手も無言のままだった。
座席は冷房が強く、男はホッと表情を緩めた。
異質だったのは窓には内側から目隠しの紙が貼られていた。 外はまったく見えない。 男は1本目の水を開けて、少しだけ飲んだ。
バスは静かに走り出した。
方向も、行き先も、誰も知らない。 けれど、それが問題になる者はいなかった。
この日、誰も自分が「失踪」したとは思わなかった。
家族も世間も いつも通り、 誰かがどこかへ働きに行っただけのことだった。