59.再びの空の旅
「休んでいるところに悪い。本当はすぐに来たかったんだが、さすがに諸々の後処理に追われててな」
「い、いえ…」
ようやく絞り出した声はひどくか細かった。
殿下はわたしの様子に気付いていないのか、気にしていないのかは分からないがそのままベッド脇に立った。
シーツを引っ張り上げて顔の半分を覆う。部屋の中はすでに明かりを落として薄暗いとはいえ、窓から差し込む明かりで相手の顔は認識できる。間違いなく赤くなっているだろう自身の顔を晒すことはできないと思った。
―――アシェラのことが好きだからだ。
気を失う寸前、殿下から発せられた言葉を思い出す。いやもしかしたら聞き間違えかもしれない。いっそ願望による幻聴という可能性もある。
「(いや幻聴だったらそんな願望持っているとか申し訳なさ過ぎるんだけれど…!)」
とにかく今は、ルクリオス殿下とどういう顔で向き合って良いのかが分からないのだ。
そんなわたしの様子に気付いていないのか、彼は落ち着いた様子で微笑んでいる。
「良かった。少し元気になったみたいだな」
「は、はい。おかげさまで…」
「……その様子だと、オレが言ったことはきちんと聞こえていたか」
「へぇ!?」
素っ頓狂な声が口から飛び出た。あまりの衝撃に飛び上がってしまい、シーツが口元からずり落ちる。
そんなわたしの姿に、殿下は耐えられないとばかりに吹き出すとそのまま肩を震わせて笑いだした。殿下はわたしの挙動不審さに気付いていなかったのではない。気付いていて、あえて無視していたのだ。
「…揶揄っていたんですね」
思いの外低い声が出た。しかし仕方がないと思う。こちらは殿下の一挙手一投足に心臓を跳ねあがらせていたのだ。そんな姿を悪戯に楽しまれていたなど、どうしても腹立たしいと思ってしまう。
ルクリオス殿下はわたしの怒りをすぐに感じ取ったのだろう。笑いを引っ込めると、「ごめん」と困ったように眉を下げた。
「知りません」
「本当に悪かった。慌てるアシェラが可愛くて、つい」
「し、知りませんから…!」
心臓に悪いのでやめてほしい。確かに怒っているはずなのに、一瞬でぐらりと心が傾きかけた。
「それじゃあお詫びとして」
そっぽを向いたわたしの目の前に、ルクリオス殿下の手が差し出された。
「高いところは平気か?」
殿下の手を取ったわたしは、今空へと連れ出されていた。寝間着の上にルクリオス殿下の上着をかけてもらい、しっかりと彼の手を握ってセントラムの上空を漂っている。
「病み上がりのアシェラを連れ出すなんて、リリーに知られたら怒られるだろうな」
「手を取ったのはわたしですから、その時は一緒に怒られましょう」
足元に広がる夜景に、わたしは初めてこの街に来たときと同じように見惚れていた。あの時は移動の短い時間だったが、今回はすでにそれよりも長い時間、空にいるように思う。
この景色をもう一度見たいという欲求に負け、しばらく悩んだ末にわたしは殿下の誘いに乗った。初めは気まずくてそわそわとしていたのだけれど、いざ上空に辿り着くとそんな気持ちは吹き飛んでしまった。
やっぱり綺麗。街灯や家々の明かりの光の粒が一面に広がる光景は、普段ならば絶対に眼下で見ることのないものだ。普通ならあり得ないものを叶えられるだなんて、やはり魔法とは素敵なものだと改めて思う。
「アシェラ」
呼びかけられて上を向けば、微笑むルクリオス殿下と目が合った。同時に繋いでいた手が引かれ、彼との距離が近くなる。どっ、と心臓が大きく鳴った。
「知っての通り、未来視の魔法使いはレフィルト国にとって特別な存在だ。ウチで生きる限り、君には今後もマーサ殿の影が付きまとうだろう」
そんなことは今までさんざん耳にしてきたのだから、わたしも理解しているつもりだ。急にどうしたのだろうと思ったが、ルクリオス殿下があまりに真剣な様子のため口を挟むことはできなかった。
「自由とは言い難い生活を強いられる可能性だってある。本当は、このまま父上の手が届かない他国に逃がしてあげた方が君のためかもしれない、とも思う」
予想もしていなかった言葉に、驚いて唇を引き結んだ。何故殿下はそんなことを考えているのだろうか。否定の言葉を口にしようとして、しかしそれよりも早く「でも」と強く握りしめられる。
「ごめん。オレはもう、アシェラの手を放せそうにない」
彼の瞳が、悲しそうに細められた。
「どこかで安全に、幸せに生きていてくれれば良いだろうと思っていたのに…今回アシェラが攫われて、もう君が近くにいないのは無理だと分かった」
「………なん、で…」
ようやく絞り出した自身の声は、あまりにもたどたどしかった。驚きすぎて上手く言葉が出てこなかった。彼の瞳に映る、呆けた顔の自分自身と目が合う。
「ん?」
「殿下に、す、好かれる要素なんて、わたしには…」
「理由は色々あるけど。オレは、笑っている君の顔が好きだ。その横にいたいと思う」
「………っ」
聞き間違えでも幻聴でもなかった。
頬に熱が一気に集まってくる。周りが暗くて良かった。いやでもこの近さでは彼に分かってしまうのではないだろうか。
繋いでいた手の甲に、ルクリオス殿下が唇を寄せる。柔らかくて温かい感触があった。
「オレとずっと一緒に、生きてくれないか?」
不思議と頭の中は冷静だった。その頭で考えた結果、頷くべきではないと言っている。
ルクリオス殿下はレフィルト国の王子様で、実力主義のその国で警備隊の隊長を務めているような、まさに選ばれし方だ。対してわたしは、せいぜい非常に珍しいと言われている未来視の魔法を持っているだけの、ただの平民である。
それに「魔法を使える人もそうでない人も、同じくらい生きやすい社会にしたい」という大きな志を持っている人だ。「偉大な魔女になる」という自身の目標すら中途半端なわたしが、隣に立つなどおこがましい。
そこまで考えて、わたしは静かに俯いた。違う、本当はずっと、どこかで気付いていた。
「(色々言い訳したけれど、結局わたしは………)」
わたしの、本当の気持ちは。
「自信が、ありません」
口にしたそれは、胸にすとんと落ちてきた。
そうだ。わたしは、自信がないのだ。
「自信?」
「はい。あなたは一国の王子様で、実績もあって、いろんな人に慕われて…そんな人の隣に立つ自信が、ないです…」
「オレはアシェラに何かして欲しくて、隣にいることを望んだわけじゃない」
「優しいあなたがそう言うのは分かります。でも他の人…国民たちはそうでしょうか。殿下の隣にいる人間なんて否応なく注目されるでしょうし、自分たちにどんな利点をもたらしてくれるのかと無意識にでも期待すると思います」
そもそも王族に関係する人なんて、いっそ国民のために動くことが義務みたいなものだろう。
「…アシェラの言いたいことは分かった」
引き寄せられていた手がルクリオス殿下の顔から離れる。このまま握っていた手も解けるだろうと思ったのだが、逆に強く握りこまれた。
「アシェラ自身の気持ちはどうなんだ?」
「え?」
「君自身が、オレのことをどう思っているか、教えてほしい」
驚きすぎて息が詰まった。まさかそんなことを言われるだなんて思ってもいなかったからだ。
真剣な表情のルクリオス殿下を前に、わたしは唇を引き結んだ。
「(ここで『恩人だと思っている』と答えれば、きっと手を放してくれる。嘘じゃない。ルクリオス殿下はわたしにとって、間違いなく恩人だもの)」
そうだ。今までだってぼかした言い方はしてきたじゃないか。嘘ではないのだから、おばあちゃんだって許してくれるだろう。
深く息を吸う。遠回しに拒絶すれば良い。そう決めて顔を上げた瞬間。
どんなに大変でも、自分に正直に、まっすぐ生きなさい。そうして幸せになるんだ―――約束だよ、可愛いアシェラ。
おばあちゃんの声が、聞こえた気がした。
「………初めて会った時から、好きだったと思います」
気付けばそう答えていた。
一瞬何を言ったのか分からなくて、理解した途端に空いている方の手で口を覆って思いきり彼から顔を逸らした。何で。口が滑ったとしか言いようがない。全力で逃げ出したいのだが、残念ながらここは上空で、自力では移動することすら不可能だ。
「わっ」
ひとりで慌てふためいている間に、腕を引かれた。そのまま強く抱きしめられる。ただでさえ己が口走った内容に混乱していた頭が、さらにぐちゃぐちゃにかき乱される。「あ」とか「う」とかただ単語で呻きながら硬直することしかできなかった。
「嬉しい」
彼の声が耳元で聞こえた。その音が本当に喜び一色で。包まれている体温の温かさもあって、いっそ頭がくらくらとしてくる。
「で、でも、わたしは、あなたの気持ちを受け取ることは…」
「うん。今はそれでも良い」
「今?」
「そう。いずれ受け取ってくれれば良い。自信がないと言うなら、その不安を解消してみせるから」
「いや、そんな簡単な話じゃ…」
「簡単じゃないだろうな。でもオレがもっと功績を積んで、誰にも文句を言わせなくなれば良い。そうすればアシェラは傍にいてくれるんだろう? なら頑張るさ」
頬を撫でていく夜風が冷たくて、今の沸騰した頭にも頬にもちょうど良いと感じた。
どこまでも真っ直ぐな彼の言葉に、もう負けを認めるしかないと思った。わたし自身も、この腕の中にいたいと考えてしまっている。腹を括ろう。
「それじゃ、ダメです」
腕を突っ張って、彼の肩に埋まっていた顔を浮かせた。まだ彼の腕に囲われてはいるけれど、隙間ができたことで相手の顔がはっきりと見える。
以前彼のお家でお世話になっていた時のようにこの腕に囲われて、守られるだけの自分に、もう戻るつもりはない。
「わたしが、あなたの隣に立つに相応しい人間になります。誰にも文句の言われない―――偉大な魔女になってみせます!」
今までぼんやりとしか考えていなかった目標。おばあちゃんへの憧れというだけの理由で、目指していたそれ。
でも今は、どうしても『そう』なりたい理由ができた。不純な動機だとおばあちゃんは怒るだろうか。いや、おばあちゃんならきっと笑って応援してくれる気がする。
「アシェラ…」
「だから、もう少し待っていてくれませんか」
そう言えば、彼は綺麗な笑顔を浮かべてくれた。エメラルドグリーンの瞳が、月明りを受けてキラキラと輝いて見える。
「じゃあ競争するか」
「競争?」
「オレが周りに文句を言わせないくらい偉くなることと、アシェラが偉大な魔女になること、どちらが早いか」
「…わたしの方が不利じゃありませんか?」
すでに確かな地位を築いている相手と、未だ道模索中の自分。正直勝てる気がしないのだけれどと唇を曲げると、彼はにやりと口角を上げる。その表情が悪戯っ子のようで無意識に目を瞬いてしまった。
「始める前から負けを認めるなら、それでも良いけど?」
揶揄いを多分に含んだ口調。そうだ、彼は意外と子供っぽいところがあるんだった。
そしてわたしも、やられっぱなしは性に合わない。
「良いでしょう、乗ります。あのマーサ・シプトンの孫を舐めてかかったこと、後悔させてあげますよ」
しばし見つめ合い、いや睨み合うこと数秒。どちらからともなく噴出して、そのまま笑ってしまう。
いつもよりもずっと月と星が近い夜空の下、ただふたり分の笑い声が響き渡っていた。




