58.休息
頭が重い。体の節々が痛い。体中が訴える不快感に促されて目を開いた。
「(どこだろう、ここ…)」
見慣れない天井。見たこともない部屋のベッドに横たわっていた。痛む体を庇いながらなんとか起き上がる。シーツの肌触りが良くて思わず見下ろせば、手首に包帯が巻かれていることに気付いた。よく見れば体のあちこちに治療された跡が見受けられる。ベッドや机といった生活に必要な家具が揃っていることから、どこか宿屋の一室だろうか。
少し前まで監禁されていたため、安全そうな建物だと思っても安心できなかった。そろりと足を地面につけて、音を立てないように扉へとにじり寄る。慎重にノブに手をかけて降ろしてみると扉は開いた。鍵はかかっていないようだ。少しだけ隙間を開けて覗き込もうとした瞬間、
「ひゃぁっ!?」
扉を挟んで向こう側から小さく悲鳴が聞こえた。それが見知った声だと気付くのと同時に、隙間から覗く瞳と視線がぶつかった。
「リリーさん?」
「あ、アシェラ様…!」
相手がリリーさんだと気付くのと同時に、何故か彼女の瞳がみるみる潤んでいく。驚いて固まるわたしとは対照的に、リリーさんは扉を開ききって飛び込んできた。そのまま彼女の腕に抱きすくめられる。あまりの勢いに思わず尻もちをついてしまうが、カーペットが衝撃を吸収してくれたのか痛くなかった。
「り、リリーさん?」
突然の抱擁に驚くのはもちろん、人が苦手な彼女に触れて大丈夫なのかと慌ててしまう。今までもだんだんと距離を近づけてはいたが、さすがに非常事態でもないのに触れることはしたことがなかったのだ。
「ご無事で、よ、良かったです…」
彼女はその華奢な腕をしっかりとわたしの背中に回して、涙を零していた。
そのことに気付いた瞬間、あわあわと空中を彷徨わせていた自身の両手の動きが止まる。よく見るとリリーさんの背中が震えていた。よほど心配してくれていたのだろう。こうして、泣いてくれるくらいに。
思わずもらい泣きしてしまいそうになりながらも、何とか耐える。中途半端な恰好で浮かせていた腕を、リリーさんの背中に置いた。
「ありがとうございました」
そう言うと、彼女はいっそう声を上げて泣いてしまった。
「ここはセントラムの宿屋です…オリバーはレフィルト国への報告、ご主人様はライリット国のジニアス様と今後について協議中です…」
「どうしてセントラムに?」
「アシェラ様を早く休ませようと、近くの医療が整っている場所を探したところ…ここが一番良い、という話になりまして…」
リリーさんがまだ休んでいるようにと譲らないため、わたしはベッドに逆戻りしていた。淹れてくれたお茶に一息つきながら、わたしが気絶した後の話を聞いている。
ルクリオス殿下やオリバーさん、リリーさん、ガラットにシェルディさんと、みんなで攫われたわたしを助けるために動いてくれていたらしい。結果として、ダリアの手先だと見抜かれたラウレルがルクリオス殿下たちに寝返り、逆にダリアの魔法や隠れ家、組織の人たちと、ありとあらゆる情報を売ったのだとか。そこからは早かった。
もともとライリット国のジニアス殿下がダリアを捕まえるためにルクリオス殿下に接触しており、彼らは一時的な協力関係を結んだ。結果的にレフィルト国とライリット国の臨時部隊で犯罪組織の人たちを抑え込んだ。
ただ事前にルクリオス殿下とオリバーさん、リリーさんは別行動をしていたのだとか。あの探知の『魔道具』を持っていた人が言っていた3人の別動隊は、殿下たちのことを指していたらしい。曰く、ラウレルの作戦に乗った上での行動だったと。
「ダリアという方は追い詰められたら何をするか分からないから、負けそうになれば迷わずアシェラ様を、その、人質に取ると…最悪、道連れにすることも辞さないだろう、と聞きまして…」
「まあ、ダリアはそうするでしょうね」
最終的に、彼女はその山よりも高いプライドを捨てて、わたしを魔法で操る方向に切り替えた。わたしがあの時弾き返せなければ、今頃ダリアの狙い通り北の国に自分から向かっていたのではないだろうか。間違いなくダリアに跪いていただろう。改めて寒気がした。
「アシェラ様を安全に救うため、彼女の周囲にいる人間を排除することが優先だと言っていました…彼らは完全に操られているので、それこそ死に物狂いで邪魔をしてきて厄介だから、というお話で…」
そうして壁のいなくなったダリアひとりであれば、わたしに何かをする前に取り押さえられるだろうという目論見だったと。確かにその通りではあったのだけれど、それならラウレルはわたしに作戦を共有してくれても良かったのではないだろうか。分かりにくい手助けだけをして、彼は一体何がしたかったのだろう。
「でも、結果的にアシェラ様を危ない目に遭わせてしまって…申し訳ありません、あの人の言うことなど聞かずに、別の作戦を立てれば良かったです…」
「そんな、謝らないでください。リリーさんたちのおかげでわたしは助かったんですから」
「でも、お辛かったでしょう…」
そ、とリリーさんはわたしの手首に触れた。しっかりと巻かれている包帯の下には、きつく縛り上げられていた縄の跡と、必死に外そうとしてできた擦り傷がある。
「…私も、小さいときに誘拐されたことがあるんです…」
「え?」
「動けないように縄で縛られて、目隠しもされていたと思います…結局、国の外に出る前に助けられましたが…とても怖くて…今でもたまに夢に見てしまうほどです…」
リリーさんの手が小刻みに震えている。彼女の揺れる瞳に確かな恐怖心が見えて、当時の幼い彼女がどれほど恐ろしい思いをしたのかと胸が痛んだ。
「だから、ごめんなさい…助けるのが遅くなって…アシェラ様に、たくさん怖い思いをさせてしまって…」
絶対にリリーさんが懺悔する必要などないのに。そう思うのだけれど、今の彼女にそう言っても納得するとは思えなかった。
「(…それなら)」
わたしはリリーさんの手を包むように両手を添える。驚いたのか、彼女のそれが一瞬震えた。人が苦手な彼女に、わたしから触れても許されるだろうか。そう不安に思いながらも、今はこの手を離したくなかった。
「本当は、とても怖かったです。もう二度と、皆さんと会えないんじゃないかと思って…自分はこれからどうなるんだろうって、泣いた時もあります」
リリーさんが悲しそうに顔をくしゃりと歪めた。その瞳に薄っすらと膜が張って見える。わたしの――自分以外のために涙してくれるだなんて、どこまで優しい人なのだろうか。
「でも今は怖くありません。皆さんが迎えに来てくれて、こうして助けてくださいましたから。こんなに温かい人たちに恵まれて、幸せだと思っているくらいです」
「でも、植え付けられた恐怖心は、そんな簡単に消せませんよ…」
私のように。そうリリーさんは唇を噛みしめた。
「そうでしょうね…だからリリーさん、わたしが辛くなったら、こうして手を握ってくれませんか?」
「え…?」
「リリーさんが傍にいてくれれば、恐怖心に負けない気がするんです」
本心だった。そしてきっと、彼女の言う通りわたしはこれから何度もあの時の悪夢を見てしまうだろう。イリシオスだった時、義母とダリアにされた仕打ちをずっと忘れられなかったように。でもそうして苦しんでいる時に、誰かが――リリーさんが傍にいてくれたなら、耐えられると思った。
リリーさんは驚いたようにしばらく言葉を失っていたけれど、やがて柔らかく微笑んでもう片方の手をわたしの手の甲へと添えてくれる。
「…も、もし、逆に私が怖がっていたら、アシェラ様がこうしてくださいね…」
「はい。もちろんです」
ぎゅ、と包んでくれるリリーさんの手は、泣きたくなるくらい温かかった。
そのままリリーさんに色々世話を焼かれ、結局ベッドの上で横になって一日が終わってしまった。彼女が良い所のお嬢様な上、すでに殿下の客人という立場でもないわたしが手厚い扱いを受けることに抵抗を感じたのだけれど、「これは私がしたいことです…その…友人として…」と照れたように言うリリーさんにそんな思いは吹き飛んでしまった。友人。なんて素敵な響きだろうか。果たして世話を焼かれることが一般的な友人関係なのか定かではない―悲しいかな友人という存在が今までまともにいなかったのだ―が、リリーさんも張り切っていたし、わたしも嬉しかったので今回だけは良しとさせてもらおう。
そう今日の出来事を反芻しながらひとり静かにベッドに横たわっていると、だんだんと眠くなってきた。散々寝たはずなのだけれど、囚われていた数日間で負ったダメージはまだ回復していないのだろう。
瞼が完全に閉じる直前、扉が控えめにノックされる音に飛びかけていた意識が引き戻された。「はい」と返事をしたが、その声が思いの外ふわふわとしていた。声が「寝ぼけています」と主張しているようだと働かない頭で考える。
リリーさんは少し前に自分の部屋へと戻って行ったのだけれど、何か忘れ物でもあったのだろうか。そう考えているうちに、扉が静かに開かれた。
「具合はどうだ、アシェラ」
眠気が完全に吹き飛んだ。ノックの相手が想像していたリリーさんではなく…まさかのルクリオス殿下だったからである。
全身の筋肉が固まったように動きを止めてしまう。まともに声すらも出せなくて、返事をしないわたしに構わず殿下は部屋の中に入って来てしまった。すみません今すぐお引き取り願えませんか。




