56.約束
神様にお願いしたことは何度かあった。
おばあちゃんがベッドに横たわる時間が長くなってきた辺りが最初だっただろうか。どうかおばあちゃんの体が良くなりますように。そう毎日、おばあちゃんの手を握り締めながら祈っていた。――その願いが聞き入れられることはなかった。
次に覚えているのは父に引き取られてから。家族の温かみに触れたくて、父がわたしを娘として見てくれるようにとお願いしたのだったか。――そもそも顔を合わせる機会の少なかったあの人を、書類上の父親以上に思えたことはなかった。
その次は義母とダリアから嫌がらせを受けるようになってからだったと思う。まだ父親が生きていた時だから今思うとだいぶマシだったけれど、当時は辛くて夜空に手を合わせていた覚えがある。――結局願いが聞き届けられるどころか、その後事態はより悪化した。
どうして助けてくれないのかと神様を恨んだこともあった気がする。
そうして、いつの間にかわたしは祈ることも恨むこともしなくなった。自分に手を差し伸べてくれる神様などいないのだから自分でどうにかするしかないと、そう思うようになったのだ。
そう、神様などいないのだ。悪いことをした人が必ずしも罰せられるわけではないし、善行をすれば自分に必ず良いことが返ってくるわけでもない。
―――そんなことは知っていたはずなのに、わたしは久しぶりに神様とやらを恨みたい気持ちになっていた。
「うそ…」
呆然とした声が自分の口から滑り落ちた。ついでに膝も地面に落ちそうだった。それだけはダメだと、残っていたなけなしの冷静さが足に力を込めさせて何とか耐える。
目の前には崖があった。遥か下に水が流れているのが見える。向こう側には同じような森があって、こちらと繋ぐための橋が架かっていたようだ。そう、ようだ、としか言えないのだ。
何故なら今、架かっていたはずの橋が落ちているから。
「残念だったわね」
背後から嘲笑うような声が聞こえてきた。次いで草木を掻き分ける音と共に、息を切らせたダリアが姿を現す。綺麗に整えていた金髪はあちこち絡まり、小枝や葉っぱがくっついている。ドレスも靴も泥まみれだった。わたしはさらに酷い様相だけれど、そんなわたしから見てもなかなかな有様の恰好だ。しかし今は、いつもお綺麗に整えていた彼女とは正反対な薄汚れた姿に溜飲を下げている場合ではない。
「もしものことを考えて、ジニアス殿下たちが追いつけないよう対策しているに決まっているでしょう。橋は使えないようにしておいたわ」
「…こんなことをしたら、あなたの仲間も追いかけて来られないんじゃないの?」
「あいつらは私のことを第一に考えて行動するの。別の道を見つけるなりして、どうにかするわよ」
こちらに近づいてくるダリアと距離を取りたくて後ずさるけれど、後ろはただの崖だ。左右を見ても、どこまでも続く断崖絶壁しか見えない。
「また逃げても良いけど、この辺りはその橋以外に向こうへ渡る手段はないわ。お互いの体力が尽きるまで追いかけっこでもしたい?」
「体力勝負になったら、流石にわたしの方が勝つと思うけれど」
「私だけだったらそうでしょうね。でもラウレルたちが戻ってきたらどうかしら?」
冷や汗が頬を伝う。確かにそうだ。向こう岸に取り残されたらしいダリアの他の仲間たちは無理でも、こちら岸にいるラウレルともうひとりは、そう時間もかからずに合流してくるだろう。奇襲を仕掛ける作戦な以上、ジニアス殿下の別動隊と思われる人たちは分が悪いだろう。おそらくラウレルたちが勝つ可能性の方が高い。しかも彼らは探知の『魔道具』を持っているので、この場所にわたしたちがいることもすぐに分かるはずだ。ラウレルの真意が分からない以上、彼が味方だという期待をするべきではない。
「もう面倒だわ」
何か打開策はないか。そう頭を巡らせていたために、ダリアが大きく一歩を踏み出してきたことに気付くのが遅れた。
瞬間、ぶわりと冷気に全身が包まれた。いつかも感じた、ちくちくと肌を刺してくる、いっそ肌寒さすら感じる気配。以前ラウレルに使おうとしていたダリアの魔法だと気付いたときには、目を見開いたまま身動きが取れなくなってしまう。
「あんたに魔法をかけて、操った方が手間ないわね」
こつり、ヒールが鳴った。目の前まで迫ったダリアは、そっとわたしの顎に手をかける。触れられることが気持ち悪くて振り払いたいのに、体が言うことをきかなかった。
「本当は私に対する悪意を利用することはしたくなかったんだけどね。あんたなんかが私に悪感情を持っているだなんて許せないじゃない。でもそうも言っていられない状況だし…残念ね、正気のままのあんたを最後まで見てたかったわ」
頭の中がぐちゃぐちゃにされるような、そんな不快感が広がってくる。立っていられなくて膝から崩れ落ちた。確かに目を開いているはずなのに、ゆっくりと視界に黒い靄がかかるように見えなくなっていく。
―――私のこと憎いでしょう?
………大嫌い。
―――そうはっきり言われるとムカつくわね。まあ良いわ、その感情に流されなさい。
………そうしたら、ダリアは嬉しいの?
―――今はそんなことを気にしなくて良いの。とにかく今は…
………なら、嫌。あなたが喜ぶようなこと、したくない。
僅かに靄が薄くなる。少しだけクリアになった視界の中、ダリアが苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
「強情ね。呆れるくらいに頑丈な精神力だわ。それでラウレルの催眠も弾いたのかしら」
どうやら彼女はわたしが最後逃げ出せたのは、わたし自身がどうにかしたと思っているようだ。本当は違うのだけれど、別に訂正してやる義理もない。
「わたしはただ、あなたに負けたくないと思っているだけ…」
「ああ、そう…私への対抗心から、私に対する悪意だと魔法を拒絶しているってところかしら。それなら方向性を変えるまでよ」
「方向性…?」
ダリアの口ぶりに嫌な予感がして距離を取ろうとしたのだけれど、足に上手く力が入らなくて立ち上がれなかった。その間にダリアの顔が再び近づいてきた。真っ赤なルージュが弧を描いている。
「あんなにレフィルト国の人たちと仲良くしていたのに、迎えに来てくれる様子はないわね?」
ダリアの言葉に、思わず喉が引きつる。そんなわたしの様子に、さらに彼女の赤い唇が吊り上がった。
まずい。思わず反応してしまった。
「特に王子様とは恋仲とすら言われていたのにねぇ。そうそう、彼が今何をしているか知っているかしら?」
「捕まっている状態で分かるわけないでしょう」
返事をするな。目を閉じて、彼女からの問いかけにはすべて沈黙で返すべきだ。そう頭で思っているはずなのに、わたしの目はダリアから外せないし、口も動くのが止まらなかった。先ほどとは違って、じわじわと胸の奥から嫌な感覚が広がってくる。
「国の守りに力を入れているらしいわよ。警備隊の責任者だもの、立場上仕方がないわよね。きっと王子様らしく、お姫様の護衛にでも付いているんでしょうねぇ」
「…シェルディさんはレフィルト国にとって大事な人だから、当然なんじゃないの」
「あら本当にそれだけかしら? あのお姫様、とっても美人なんでしょう? それに立場も中身も、一国の王子の隣に立っても引けを取らないような人らしいじゃない。あんたと違って」
「そんなの知ってる」と自分でも驚くくらい苦しそうな声が出た。自分で自分が信じられなくて、口を覆いたくなった。しかし手が縛られているせいでそれすらできない。
嫌な感覚が毒のように全身に広がっていく。その中心の胸の辺りは鈍い痛みを訴えていた。ダリアが優しくわたしの頬に触れる。温かい。
「そもそもどうして王子様があんたを保護していたのかしらね。未来視なんて珍しい魔法を持っているにしても、他の人間に任せることだってできたでしょうに」
「…おばあちゃんに、恩があったそうだから」
頭がぼーっとする。何でこんな大事なことまで、よりによってダリアに話しているのだろうか。
「そうなの。じゃあ彼にとってあんたは、おばあちゃんとやらの『代わり』だったのね」
代わり。
その言葉を聞いた瞬間、胸に激しい痛みが走った。同時に視界に再び黒い靄が広がってくる。ダリアが恍惚とした表情を浮かべたのが一瞬見えて、すぐに目の前が真っ暗になった。
「可哀想に。そんなに悲しまないで。いっそ憎んでしまった方が、楽になるわ」
「…憎む?」
「そう。振り向いてくれない王子様も、アシェラの邪魔をするおばあちゃんも。憎んで、嫌ってしまいなさいよ。そうすればもう悲しくなくなるでしょう?」
私の言葉に身を委ねなさい。
甘ったるい蜜を、耳に直接流し込まれているような感覚だった。ふわふわとした感覚と不快感が同時に流れ込んでくる。ただ漠然と、「従った方が楽だろうなぁ」と思った。
そうだ。もう何も考えたくない。ただ、このまま目を閉じて耳も覆ってしまえば、もう何も………
どんなに大変でも、自分に正直に、まっすぐ生きなさい。そうして幸せになるんだ―――約束だよ、可愛いアシェラ。
目を見開いた。目を覚ましたと言っても良い。そんな感覚がした。
「嫌うことも、憎むこともしない」
先ほどまで靄で塗りつぶされていたはずなのに、嘘のように視界がクリアだ。目の前には驚愕に瞳を見開いたダリアがいる。その顔に向かってわたしは叫んだ。
おばあちゃんとの約束通り、ただただ正直に。素直な、自分の気持ちを。
「わたしは、ふたりとも大好きだから!」
動悸と息切れがひどい。頭も痛かった。それでも気分だけはすっきりとしている。纏わりついていた不快感が消えていた。
しかしそんな晴れやかな気持ちも一瞬のことだった。驚き一色に染まっていたダリアの表情が、みるみるうちに歪んでいく。見たこともないくらいの憎悪をその美しいはずの顔に乗せている。
「何であんたは私の思い通りに動かないの。いつも、いつまでも………邪魔なのよ!!」
体に衝撃が走った。ダリアに突き飛ばされたのだ。そう理解したのは、青褪めた表情の彼女と目が合ってからだ。わたしはもともと崖ギリギリに座り込んでいた。そこから後ろは、ただの空中しかなく。
「っ!」
重力が全身にかかるのが分かった。
落ちる。そう思うと同時に、下へと体が引っ張られた。すぐにダリアの姿が見えなくなり、どんどん崖下を流れる水の音が近くなってくる。どうしようもない恐怖を感じながら、それでも悲鳴を上げることしかできない。
水ならば転落死は免れるだろうか。しかし手が縛られている状態ではまともに泳ぐこともできない。そんなことを一瞬思い浮かべたけれど、自分の正直な気持ちにすべて塗りつぶされる。
「(嫌だ、死にたくない)」
やだ。
助けて。
嫌だまだ死にたくない。
誰か。
お願い。
「―――――助けて、リオスさんっ!!」
無意識だった。そう口から零れると同時に、突風が全身を撫でていった。
「………?」
何故かつい先ほどまで感じていた重力がなくなった。いっそ浮遊感すら感じる。きつく閉じていた目をおそるおそる開く。
まず見えたのは、宝石を閉じ込めたような鮮やかなエメラルドグリーンの瞳。
「遅くなってごめんな、アシェラ」
ここにいるはずのないリオスさんが、申し訳なさそうな表情でこちらを見下ろしていた。




