55.逃走
「何で今さらライリット国が――ジニアス様が追ってくるのよ!?」
怒りのこもった甲高い女の声に叩き起こされた。目を薄く開いてみれば、少し離れた場所でダリアとラウレル、もうひとり見知らぬ男性が向かい合って何やら話しているのが見えた。ダリアは自らの髪を手でぐしゃりと握りしめて、怒りで顔を赤く染め上げている。どうやら三人ともわたしが目を覚ましたことには気付いていないようだ。
今の自分の状態を確認してみれば、木々の隙間に横たわっていた。深い森の中という状況は変わっていないけれど、乗せられていたはずの馬車の影も形もない。また3人以外の姿も見えなかった。
こうなる前のラウレルとの会話から、わたしはおそらく彼の『魔道具』によって眠らされたのだろう。わたしが意識を失っている間に、何か想定外の事態が起きたようだ。
「(眠る直前に聞いた『敵襲』、それに今のダリアの言葉からして…ジニアス殿下が兵を率いて襲ってきたってこと…?)」
ライリット国の王太子であるジニアス殿下。義母が投獄された以上、共謀していたダリアも同じ罪を背負っているはずだ。罪人である彼女を捕まえるために、遠いこの地まで追ってきたというところだろう。
「まあまあ、落ち着いてくださいダリア嬢。幸い、他の奴らが足止めしてくれたのでこうして逃げられたわけですし」
「そ、そうですよ。あいつらは今のところこっちに近づいてくる様子はないっすから」
見知らぬ男性は、何やら地図のような物を片手にあわあわとしながらダリアをどうにか宥めようとしている。離れているのであまりよくは見えないが、その地図の一か所に黒い点が固まっている上、それらが何やら蠢いているのが見えた。もしかしてあれが探知の『魔道具』で、あの点は実際に人がいる場所を表しているのだろうか。
「(もしそうなら、あの点の場所に行けばライリット国の人と合流できる…!)」
事情を話せば保護してもらえる可能性は充分にある。もしかしたらすでに家を出た身とはいえ、元イリシオスの人間として事件の関与を疑われるかもしれないけれど、どのみち身柄の保証はしてもらえるはずだ。
目を凝らして点のある場所を見つめる。今自分がいる場所もどうにか地図上で見つけて、向かうべき方角を確認した。
「(あとはラウレルにさえ気を付ければ、逃げられる可能性はある)」
拘束されている両手に力を込めた。
助かるかもしれない、そんな希望を持って一瞬気が緩んでしまったのだろう。そう気づいたのは、ダリアとばっちり視線が合ってしまってからだった。瞬間、彼女の表情がさらに歪んだ。
「…なに、寝たふりして聞き耳立てるなんて卑しい奴ね。そんなに嬉しそうな顔をして…別にあんたに助けが来たわけじゃないわよ!」
ダリアがこちらに近づいてきた。「今そんな状況じゃないですよ」と宥めようとするラウレルの手を振り払い、彼女はわたしの前に立つと思い切り肩を踏みつけてきた。押し殺し損ねた苦痛の声が漏れる。
痛みに耐えながら瞳を開けば、顔を歪ませたダリアがこちらを見下ろしていた。ギリギリと歯を鳴らしながら呼吸を荒くさせている。よほど余裕がないようだ。肩は犠牲になったけれど、彼女のその表情が見れただけで意味のあることだとほくそ笑む。我ながら性格が悪いと頭の片隅で思った。
本来なら気絶したフリをしていた方が都合が良かったけれど、気付かれてしまった以上は他の手を取るしかない。わたしは敢えて口角を吊り上げ、ダリアの神経を逆なでするような笑みを浮かべた。
「でしょうね…でも、あなたの味方ではないのでしょう? それに相手はジニアス殿下。あの真面目お方に、あなたが取り入る余地なんてあるの?」
「このっ、生意気な口を…!」
さらにダリアが足を振り上げた。彼女にはもっと余裕をなくしてもらって、冷静な判断ができないようになってもらわなければ。そうしてダリアが他のふたりと揉めるような状況になれば、わたしのことなど気にしていることなどできなくなるはず。わたしが狙うのはその僅かな隙だ。
「ダリア嬢、やめてください。それどころじゃないですから」
しかしラウレルが無理やりダリアを引き剥がした。わたしにかかっていた影が遠ざかる。本当はもう少し煽って彼女の余裕を削りたかったのだけれど。
ダリアはラウレルに激しく嚙みつき、彼の方は何とか宥めようとしている。ここまでは何とか狙い通りだ。あともうひとりがこの揉め事に参加してくれれば狙い通りなのだけれど、残念ながら彼はずっと地図に視線を落としている。監視の役目を優先しているのだろう。じっと探知の『魔道具』と睨めっこしている彼を観察していると、相手がふと焦ったように顔を上げた。
「あ、あの、何か別の奴らがこっちに近づいて来てるみたいっす…!」
「今度は何だっていうのよ!?」
「わ、分かりません! ただ、襲ってきたライリット国の兵士たちとは別に、3人…真っ直ぐこっちに向かってきてます」
3人。ジニアス殿下が率いているらしい部隊はダリアの仲間たちが足止めしているそうだから、別動隊だろうか。それにしては人数があまりに少ない気はするけれど、そんなこと今はどうでも良い。
「(その集団の方へ向かえれば…)」
ジニアス殿下の部隊よりもそちらの別動隊の方が距離は近いだろう。向こうから近づいてきてくれているのもありがたい。わたしは今すぐ駆けだしたい衝動を何とか抑え込む。今すぐ走って逃げたいのはやまやまだけれど、そんなことをしても数メートル先でラウレルの催眠で這い蹲らされるのは確実だろう。
どうにかして彼の隙を見つけなければ。催眠の有効範囲はそんなに広くないと以前ラウレル本人が言っていた。距離さえ取れれば何とかなるのだけれど。
「ダリア嬢、ボクと彼でその3人に奇襲をかけようと思うのですが、許可をいただけますか?」
そんなことを考えていると、何と彼の方からそんな提案をしてくれた。あまりに都合が良い話にわたし自身も驚いていると、ダリアは眉を吊り上げながらラウレルへと振り返った。
「この状況で私をひとりにしようっていうの!? バカなこと言っているんじゃないわよ!」
「しかしこのままではこちらが襲われるだけです。そうなる前に相手を無力化するのが現状取れる最善策かと」
「そんなの、ここで迎え撃ってやれば良いでしょう!?」
「残念ですがダリア嬢の魔法とボクの催眠は、必ずしも相手に効くものではありません。もし効かなかった場合、直接ぶつかることになってしまいます。そうなれば確実にこちらが負けるかと」
「………」
「力勝負に持ち込まれる前に相手の背後を取る。それ以外、我々が助かる術はないかと。奇襲であればボクら2人でも何とかなる可能性が高いです」
「仕方がないわね…許可するわ。その代わり、アシェラが下手に行動できないよう、動きを封じてから行きなさい」
突然矛先が自分に向いて、思わず肩が跳ねた。
まずい。せっかく巡ってきたチャンスなのに。なりふり構わず走って逃げようと思ったのだが、先ほど転がされた体勢が悪かった。両手が縛られているせいで上手く上半身を起こすことができずにもたついてしまう。その間にラウレルがこちらに近づいて来て、すぐ横に座りこまれてしまった。チャリ、と彼の耳飾りが音を立てる。
「ここから動かないでね―――ボクの姿が見えている間は」
「(え…?)」
前半は普通の声量だったが、後半はわたしにだけ聞こえるような小声で彼が言った。瞬間、指一本動かせないくらいに全身が重くなる。確実に彼の催眠の効果だった。
動けないわたしの背中を持ち上げて、ご丁寧にラウレルは木の幹へと置いてくれた。体の自由が効けばすぐにでも立ち上がれるような姿勢だ。
「(何? どういうこと?)」
ラウレルは「しーっ」と己の唇の前で人差し指を立てる。混乱するわたしを他所に、彼はさっさと立ち上がってもうひとりの男の人―探知の『魔道具』持ちの人―を連れて、森の奥へと消えていった。彼の姿が完全に見えなくなる。
それはつまり、わたしへの催眠が解けたことと同義だ。つい先ほどまで纏わりついていた重さが嘘のように消えた。
「ここまで来て邪魔が入るだなんて…悪運の強い奴ね」
頭を整理する暇もなく、ダリアがヒールを鳴らしてこちらへと近づいてくる。こんな深い森の中、整備されてもいない道なき道を進むにはあまりに不似合いな服装の彼女。元々この道を使うことは決めていたのだろうに、そんな恰好で来たのは彼女のプライドだろうか。
目の前まで来たダリアは忌々しそうにこちらを見下ろした。
「助かるだなんて希望は持たないことね。追手が来ることは想定していたの。そのために色々準備していたのだもの、すぐに敵を退けて、みんな合流してくるわ」
「想定内という割には随分と取り乱しているみたいだけれど…その『希望』が叶うと良いですね? おねえさま?」
わざと上品な笑みと口調をしてやれば、ダリアの顔がみるみる赤く染まっていく。この後彼女がどんな行動をするか、未来視の力を封じられている状態でも手に取るように分かった。
ダリアが右手を振り上げるのと、わたしが全身に力を込めたのは同時だっただろう。
「―――いつまでも人が思い通りに動くと、思うなっ!」
ダリアの張り手が繰り出される前に、わたしは思い切り彼女の胴体へと体ごと突っ込んだ。まさかわたしが動けるとは思っていなかっただろう、ダリアは受け身も取れずに悲鳴を上げて後ろに転がる。その間に体勢を整えて、先ほど確認した方角へと駆けだした。
本当なら別動隊の方に向かいたかったけれど、ラウレルたちが向かった以上下手にそちらに近づくのは危険だと思ったのだ。ラウレルの狙いは分からないけれど、彼が味方だとは断言できない以上、今はジニアス殿下がいるらしい方へと向かうのが確実だ。
必死に足を動かすけれど、ただでさえ万全な状態ではない上、両手が後ろ手に縛られていてあまり上手く走れなかった。そうこうしているうちに後ろから足音が聞こえてくる。
「この、待ちなさいよっ!」
それは当然ダリアのものだった。彼女も彼女で、こんな場所には適していない恰好をしているため上手く走れていないようだ。それでも音がぴったりと後ろから付いて来ている。
わたしは緊張に押しつぶされないよう、歯を食いしばって前を見ながら走り続けた。




