50.悪手
「シプトン、お前は外で待機しろ。できれば通信機で応援を呼んでくれ」
そう険しい顔でガラットがわたしの手に通信機を乗せる。頷くしかなかった。直接的な争いにおいて、わたしはむしろ足手纏いになる。
「じゃあせめて、あなたの未来を視てから…」
「いや、せっかくだが今は時間が惜しい。この騒ぎを起こした犯人は、わざわざ“挨拶”をしてきてやがるんだ。ルディの安全を考えるなら今すぐ動くべきだと思う」
“挨拶”。
入口近くに横たわっている、警備隊の制服を着た女性を見る。犯人が彼女を高層から“わざと”投げてきたと考えれば、ガラットの言うことは最もだと思った。
「それならこれだけでも持って行って」
最近ではすっかり使う機会がなかったけれど、念のためいつも持ち歩いていた身体強化の『魔道具』。これから危険地帯に足を踏み入れるガラットに持ってもらう方が良いだろう。ガラットは少し躊躇いを見せたが、すぐにわたしの思いを尊重してくれたのか受け取ってくれた。彼の小指に辛うじてはめられる。
「よし、行くぞラウレル」
「えぇー、ボク弱いんだけど…いや、行くよ、行きます。だから襟掴むのやめてくれない?」
螺旋階段を駆け上っていくふたりの背を見送り、わたしは反対に入口の方へと向かった。本当なら警備兵の女性も外に連れ出したかったけれど、気絶した人間を抱えられる筋力は残念ながらない。申し訳ないと思いながら、わたしはそっと外へと向かう。
扉を潜って出た外は、門の中の張り詰めた空気とは異なり静かなものだった。シェルディさんのお仕事の関係で基本周囲は人の立ち入りを禁止しているそうだから当然ともいえる。今ばかりは助けを求められる人がいないことに、心細さを覚えてしまうけれど。
「(早く人を呼ばなきゃ)」
ガラットから託された通信機を握りしめる。通信可能距離に限界があると聞いているから、もし通じなければすぐに移動しなければ。
祈るように通信機を起動させようとしたのと同時――「おい!」鋭い声で呼びかけられた。
「貴様、こんな所で何をしている」
「え、あ、あなたこそ…」
危うく取り落としかけた通信機を寸でのところでキャッチして、目を白黒させながら振り向けば声と同じくらい鋭い顔でこちらに走ってくる警備兵がひとり。よく見ればそれは、先日クリンゲル店で揉めたもみあげさんだった。
「俺は見回りだ」
「そ、それならちょうど良かった。今、門の中で問題が起きているんです! 今すぐ助けが必要で…!」
何てタイミングの良い!
喜んで説明しようとしたのだけれど、言葉が出てくるよりも先に視界が暗転した。
もみあげさんの左手がわたしの左腕を掴んだ。驚くのもつかの間、わたしはすぐに苦痛を訴えて顔を歪めた。よほど強い力で掴まれたようだ。
「ふん、念のためということだったがまさか本当にいるとはな。あの女の言うこと、少しは信じても良いということか」
「あの女…?」
「貴様のあねと名乗っていた、得体のしれない女だ」
表情が凍り付くのが分かった。そんなわたしに構わず、もみあげさんは懐からハンカチを取り出して口に押し付けてくる。わたしは当然暴れたけれど、力で叶うわけがない。やがて目を閉じてその場に頽れた。
冷や汗が噴出した。視界が『今』に切り替わるのと同時に、唇を強く噛みしめて零れそうになった悲鳴は飲み込む。
「(ダメだ。この人は、敵だ)」
ダリアはこんな所にまで入り込んでいたのか。完全に後手に回ってしまっている。
後ろ手に通信機を起動させた。繋がるかは最早賭けだ。
捕まったらまず逃げられない。どうにかこの人を避けて人目のある所に逃げなければ、間違いなくあの未来通りになるだろう。
「おい」
急に黙り込んだわたしに、もみあげさんは不愉快そうに声をかけてくる。何度も聞いたはずのその声に今は吐き気がした。
彼がダリアと組んでいる以上、言いくるめることは不可能だろう。わたしは通信機を握る手とは反対側でポケットに手を突っ込む。その中に入っている物を強く握りしめた。今のわたしが持っている唯一の『武器』だ。
訝し気に彼が一歩こちらに近づいてきた瞬間、わたしはポケットから『武器』を取り出して相手へと投げつけた。
「なっ!?」
いつかも活躍してくれた、防犯用の『魔道具』―使用者の任意タイミングで催涙ガスを噴出するもの―である、それ。
まさかいきなり攻撃されるとは思わなかったのだろう、完全に油断していた様子の彼の顔面で煙が上がる。相手が顔を抑えてよろけたのを見て、わたしはその横をすり抜けて一気に駆けだした。
鍛えている相手とは言え、さすがに不意打ちで催涙ガスの直撃を受けたのではすぐに動けまい。立入禁止区域から大急ぎで出るべく足を一心不乱に動かした。
「このっ、動くな!」
言われて聞くわけがない。もみあげさんのどすの利いた声を無視してとにかく離れようとした。が。
「っ!」
突然目の前がブレた。未来視の魔法が発動したわけではない。眩暈によるものだと気付いたのは、足元が覚束なくなってそのままひっくり返ってからだった。
「(なんで、こんなに突然…)」
体に力が入らない。起き上がろうとしても、まるで全身が麻痺したかのように震えるだけだ。
『こちらオリバー。どうかしたか?』
訳が分からず何とか地面に転がっていたわたしの耳に、希望の声が届いた。起動していた通信機は、何とオリバーさんへと通じたらしい。この状況で数少ない知り合いに繋がるだなんて、日頃の行いが良かったのだろうか。いやそれならそもそも、こんな目に遭っていない気がする。
「オリバーさん…」
『え、その声はまさかアシェラさん?』
「門、に…」
声も震えてはっきりと出せない。恐怖が原因ではない。何故か上手く呂律が回らなかった。本当にどうしたというのか。自身に苛立ちを覚えながら、それでも地面を引っ搔くように前へと進む。同時にどうにかオリバーさんへと助けを求めるべく声を絞り出した。
しかしそんな僅かな希望を打ち消すように、目の前が陰った。背後に誰かが立ったのか、わたしを覆うように人影がかかっている。そして今、この場において自分以外の人と言えばひとりしかいない。
「余計な手間をかけさせやがって」
地を這うような声だった。
次の瞬間にはわたしが握りしめていた通信機が叩き落され、そのまま背後に立っている人物の足が地面を転がるそれへと振り下ろされる。ばきっ、と通信機が潰れる音が響いた。わたしにとって絶望的な音だった。
「(どうしよう…何か、何、か…)」
未来を視るのは? 視えたところで地面を這い蹲ることしかできない状態でどうにかできるとは思えない。
防犯用の『魔道具』は? 使ったところでこの状態では同じことだろう。
他に使える道具は? 身体強化の『魔道具』は先ほどガラットに渡してしまった。
「(…どうにもできない。今のわたしに、もみあげさんから逃げる術は、ない)」
背筋が凍る。それでも諦めきれなくて地面を引っ掻くが、嘲笑うようにもみあげさんはわたしの肩を掴んで仰向けにひっくり返した。あまりの乱暴さに背中を強く打ち付けて、思わず咽る。
「へえ、あの女が用意した『助っ人』ってのは本物だったわけだ。催眠とやらがここまできくとは思わなかったが」
「助っ人…?」
「魔法使いなんざ普段は目障りなだけだが、こういう時は使えるな」
そう言いながら笑う彼の目は普通ではなかった。正気を失っているような、そんな目。
彼の様子にも、言っている内容にも寒気がした。つまり、わたしが今満足に動けない原因は助っ人とやらのせいということか。どうにかして目の前の彼をやり過ごせたとしても、他に人がいるのではもうどう足掻いても逃げられない。
せめてもの意地で零れそうになる涙は耐えた。わたしが泣けば、相手を喜ばせるだけだ。
「こんな、こと、して…ただで済むと…」
上手く喋れないことがもどかしい。せめて捨て台詞くらい綺麗に言わせてもらいたいものだ。
しかしわたしが何を言わんとしているのか伝わったのだろう、目の色を変えたもみあげさんは、わたしの胸倉を掴みあげた。その力が思いの外強くて息が詰まる。
「うるさい。もう俺は後戻りできないんだよ」
「…っ」
口元にハンカチが当てられる。先ほど視えた物と同じだ。あの未来ではこのハンカチが原因でわたしは意識を失っていた。おそらく何か仕込まれているのだろう。
必死で息を止めて藻掻いた。せめてと力づくで押さえつけてくる相手の指に噛みついてやる。
「いてっ! …この女!」
一瞬で怒りに顔を染め上げた彼が、わたしの胸倉を掴んでいた手を乱暴に払った。勢いよく地面に叩きつけられて思わず咳き込む。
「おいお前! お前の魔法とやらでこの凶暴女を眠らせろ!」
もみあげさんがわたしの背後を見ながら声を荒げた。そちらにいつの間にか人の気配があることに気付くけれど、生憎と振り返るだけの元気がなかった。
「(どうにか、何かできない…!? 誰か…!)」
祈るように胸元のペンダントを握ろうとして――空ぶった。ない。お母さんの形見が、いつも首元にかけているはずのそれがなかった。
それどころではないとは頭の片隅で思いつつ、大慌てで唯一自由に動かせる瞳を巡らせる。と、少し離れた所で緑色がきらりと光った。先ほどもみあげさんに払われた際、ペンダントのチェーンが千切れてしまったようだ。おそらく掴まれていた位置も悪かった。
あれだけは。何もかも奪われても、唯一守り通した物だ。
「(顔も知らないお母さんとの、たったひとつの繋がりで…)」
必死に言うことを聞かない手を伸ばす。
しかしもみあげさんが邪悪に嗤うのと、わたしの意識が遠くなっていくのは同時だった。薄っすらと視界に黒い靄がかかっていく。完全に視界が黒く染まる直前、嗤う男が足を振り上げるのが見えた。その足の着地点には、お母さんの形見のペンダントがある。
そうして完全に目の前が黒に覆いつくされて。
「何もかも、お前が悪いんだ」
何かが砕ける音が、聞こえた。




