第三特別資料室 その1
不気味な夜だった。空に浮かぶ半月は血をとかしたように真っ赤だったし、無数のコウモリが羽音を立てて飛び回ってもいた。こんな夜に気分良く過ごせる人間はそう多くないだろう。それこそ、魔性の者でもない限り……。
古びた館の一室でニケラ伯爵はソファーに座り、ワインを飲んでいた。その姿はちょっと独特な雰囲気を放っている。引き締まった体躯の大男だが年齢が読み取れないのだ。
ロウソクの光が風に揺れたから? グラスを傾けている様子は30歳くらいに見えるというのに、グラスを置いて唇の端を舐める姿は60歳以上の老人のようにも見えた。
伯爵のすぐ横には一人の少女が立っている。粗末な服から察するに、近隣の農村から連れてこられたのだろう。年のころは18歳くらい。茶色の髪を二つに分けておさげにしている。顔立ちはかわいらしく、大きな瞳も髪の色と同じで茶色だった。全体的にほっそりとしているのだが、胸だけは少し大き目だ。そんな彼女の姿を鑑賞するかのような視線を投げながら伯爵はワインを飲む。
「なかなかの上物が残っていたものだ」
それがワインのことなのか、少女に向けられた言葉なのかはわからない。いや、おそらく少女のことなのだろう。伯爵の目は淫靡に輝いている、その目からも、今夜伯爵が少女に何をしようとしているかは容易に想像がついた。
ところが、少女の方はまるで動じていない。まるで催眠術にかけられているかのように、ぼんやりとしたまま正面を見ているだけだ。伯爵は大きくグラスを傾けて、最後の一滴を飲み干した。
「さて、そろそろお前をいただくとしようか。お前の処女の血をな」
そう言いながら立ち上がり、伯爵は彼女に近づく。すると、先ほどまで焦点の合っていなかった少女の瞳が突然生気を取り戻した。どこから取り出したのか、両手には銀色に輝く二本のナイフまで握られており、次の瞬間には刃が伯爵の腹に深々と突き刺さっていた。
「悪いけど、私、処女じゃないんだよね。恋愛も快楽も自由に楽しみたい主義だから」
「貴様……」
ニケラ伯爵は自分にナイフを突き立てている少女を殴りつけようとするが、彼女は大きく後ろに飛んで、その攻撃をかわした。見れば伯爵の体からは血の一滴も流れていない。それどころか、二本のナイフで深く腹をえぐられたというのに、傷一つついていないようだった。
「やっぱり伯爵とヴァンパイアが入れ替わっていたか。想像はつくけど本物の伯爵は?」
「とっくに土に還っている。ところで、お前は何者だ? ヴァンパイアハンターのマリィ家にお前のようなのがいたとは記憶していないが」
吸血鬼は嬉しそうに少女を見つめた。
「私たちはグラハム大神殿、特殊史料編纂室の者でーす」
少女は元気に答える。
「グラハム大神殿だと? 退魔庁か?」
「あそことは別組織。教皇直属の特殊部隊だよ。まあ、普段は資料編纂室の司書をしている女神官だけどね」
おしゃべりの間に少女は神聖魔法を展開してナイフに付与していた。年齢の割に戦い慣れしているようだ。
「女神官が非処女とは嘆かわしい、これも時代の流れってやつか?」
「さあ、他の人のことは知らないよっ!」
神聖魔法を付与した両手のナイフを少女は投げつけたが、ヴァンパイアは素手でナイフを打ち落としてしまう。ナイフに触れた個所が火傷のように爛れたが、それも一瞬のことで、傷口はみるみるうちに塞がってしまった。
「噂通りの化け物だなあ!」
少女は恐れる様子も見せずに感心している。
「クフフ、少しは楽しませてもらえそうだな」
「キモいんだよ、処女廚がっ!」
高速で襲い掛かるヴァンパイアの攻撃を新しいナイフで受け止める少女。室内の家具という家具を破壊しながら、激闘が開始された。ヴァンパイアの赤い爪が長く伸び、マホガニー製の硬いテーブルを切り裂いて殺到する。
最初の数十秒、勝負は互角と見えたが、徐々に少女は押されていった。スタミナが続かないせいだろう。それに比べてヴァンパイアの攻撃回転は上がり、スピードもパワーも今や完全に少女を凌駕している。
致命傷は避けているが、少女の服はヴァンパイアの爪に切り裂かれボロボロになっていく。露出した白い肌にみみずばれが走り、うっすらと血がにじんだ。大きな胸が先端をのぞかせていたが、少女は気にする風もない。
「ハハッ……ちょっとヤバいかな?」
「やるではないか、気に入ったぞ。退魔師などやめて私の眷属にならんか? 引き換えに人非ざる力と、最高の快楽を与えてやる」
「年上は好きなんだけど、アンタはタイプじゃないんだよね。口臭もひどそうだし」
「口が悪いな。まあいい、ポリシーには反するが、たまには無理やりというのも悪くない。特にお前のような気の強いメスが相手のときはな」
「勝手なことをほざいてんなっ!」
少女の顔にわずかな怯えの表情が滲んだ。だがそれは演技である。無造作に近づくヴァンパイアは少女が密かに張った罠の中へと足を踏み入れてしまった。ミスリル銀のワイヤーと神聖魔法をつかったハイブリットトラップで、ワイヤーが足を絡めると同時に、魔性の者には致命的な神聖魔法が流れる仕掛けだ。
ところがヴァンパイアは恐るべき動体視力と反射神経で罠が閉じる前に自分の足を引き抜いてしまった。
「これも避けちゃうの? クロードさーん、そろそろ限界なんスけど」
少女は誰もいない中空に声をかける。
「誰に話しかけている? この部屋にいるのは私とお前だけだ。下手なハッタリは通用しないぞ」
「ハッタリじゃないよ。最初に言ったでしょう、私《《たち》》はグラハム大神殿、特殊史料編纂室の者だって。ねえ、クロードさん?」
返事をする者は誰もいない。
「ひょっとして時間稼ぎか? だとしたら無駄なことだぞ」
「いや、本当に居るんだって。出てきてくださいよ、クロードさん。貴方の恋人、リーンのピンチですよ。カッコよく救ってください!」
リーンの声が虚しく反響する。室内に人の動く気配はなかった。
「ふん、やはり誰もいないではないか」
ヴァンパイアはせせら笑いながら高速で踏み込み、左手だけでリーンの両手首を掴んでしまう。そして右手の爪を使ってボロボロの服をさらに引き裂いた。
「上品さはないが、たまにはこういう粗野な血も悪くない」
鎖骨から胸にかけて流れる血に、ヴァンパイアは舌を這わせようと顔を近づけていく。
「ちょっ、マジで止めて。本当に口が臭いよ!」
リーンの抗議など聞き入れる様子もなく、ゆっくりとヴァンパイアの舌が乳首に近づいた。
「止めろって! ねえっ! クロードさん、本当に何とかしてって!!」
不意に空間が揺らめき、何もない場所から足が伸びて、ヴァンパイアの顎を蹴り上げた。
「ぐはっ!」
完全に油断していたヴァンパイアは自分の舌を噛みながら後方へと弾き飛ばされてしまう。どこから現れたのか、部屋の中には二十代中ごろの神官が立っていた。
「すまん、リーン。屋敷の連中を眠らせるのに手間取った」
「遅いですよ。私の純潔が奪われるところだったんですからねっ!」
「純潔って、さっき処女じゃないと言っていたじゃないか……」
ヴァンパイアのツッコミを二人の退魔師は無視した。
「ふう、もう深夜だな。さっさと終わらせて帰りたいよ……」
新たに現れた退魔師はだるそうな様子でヴァンパイアに向き合う。
「夜の王にとって今日という日は始まったばかりだぞ。それにしても貴様、どこから現れた?」
「口が臭そうとかって、お前がディスられていたあたりかな?」
ヴァンパイアのこめかみがピクリと反応する。この魔物は退魔師の気配を全く読めなかったのだ。
「私に存在を気づかせないとは、ただ者ではないな……」
クロードという退魔師は小さく肩をすくめた。
「どうかな? まあ、透明魔法は俺のオリジナル魔法でね、風魔法で音をキャンセル、光魔法と火炎魔法で姿を消す、これを同時に展開するんだ」
「器用なことだ」
「まあね。いろいろ混ぜる『カクテル』ってのが俺の特殊技能なんでね」
「ほう……。だが、そんな簡単に手の内を明かしてもいいのか? これからお前は私と戦うのだぞ」
ヴァンパイアは隙なく身構えるが、退魔師の方は自然体で立ったままだ。
「それなら大丈夫さ。もう勝負はついている」
「なんだと? ……ぐぅっ!」
突然、ヴァンパイアは胸を押さえて苦しみだした。すぐに立ってさえいられなくなって膝をついてしまう。
「クッ、何をしたのだ……?」
「俺の『カクテル』は魔法だけじゃない、物質と魔法を混ぜることもできるのさ。さっきお前が飲んだワインな、あれに神聖魔法と毒薬を混ぜておいた。味や匂いでばれないようにするために遅効性になってしまったがな」
「この私が……毒薬などで……」
「意外だったかい? そうだな、カクテルの名前は地獄の扉とでもしておこうか」
「クソがあっ……」
憎悪の炎を瞳にたたえながら手を伸ばしたが、その指先から灰となりヴァンパイアの消滅が始まった。
「せめて祈ってやるよ、生臭神官の俺の祈りじゃ天国に行けないことは確実だがな。いつかてめえの魂が救済されますよーに……」
いいかげんな祈りが済む前に、ヴァンパイアの体はすべて灰になって消えた。
「ふう、終わった、終わった。さっさと帰って寝るとしよう」
撤収準備を始めるクロードにリーンは胸を隠しながら抗議する。
「ちょっと、奮闘した後輩に労いの言葉はないんですか? よく頑張ったねとか、今日もかわいいよとか、いろいろあるじゃないっスか?」
クロードは疲れた顔でリーンを見た。
「はいはい、頑張ったな。それと今日もかわいいよ」
「投げやりすぎます!」
ウザイ反応にクロードはがっくりと肩を落とす。
「面倒だなあ。そもそも、ヘルズドアを飲ませた時点で勝敗は決まっていたんだ。それなのに自分の実力を試したいとか言って、戦いを挑んだのはリーンだろう?」
「それはそうですが……」
「ヴァンパイアが伯爵に入れ替わっていたのは極秘事項だぞ。それなのに現場をこんなに荒らして。戦闘音だって、俺が音響結界で外に漏れないようにしてたんだからな。人の仕事を増やしやがって……」
伯爵家の体面を保つために、伯爵がヴァンパイアに殺されたことは秘密にしなければならなかった。そのために、わざわざクロードたちが派遣されて来たのだ。
「いや、まあ、すいません」
「もういい、とにかく早く帰りたい」
「瓦礫はどうします?」
リーンは自分が破壊した部屋の惨状を見渡す。
「放っておこう。ヴァンパイアは排除したんだ。片付けまではやらなくていいだろう?」
クロードはため息交じりに答えた。
「なんか最近、疲れてます?」
「退魔の仕事にうんざりしているんだ。もう、命のやり取りはコリゴリでさ」
「そろそろ中年ですもんね。元気がなくなっても当然か」
「まだ25歳だけどな……」
「吸っときます? 元気が出ますよ」
リーンは自分の胸をクロードに向けて突き出した。ピンク色の乳首がプルンと上を向いているがクロードの態度はどこまでもそっけない。
「いや、いい。気持ちだけ受け取っておく」
「つれないなあ。こんだけ誘っているのにどうしてですか? もしかしてちっぱいフェチとか?」
「そうじゃない、おっぱいに関する限り俺は博愛主義者だ。何度も言っているだろう、同僚や部下とは寝ない主義なんだよ」
リーンはことあるごとにクロードをベッドに誘ってくるが、クロードにはそれが冗談なのか本気なのかの判別がつかなかった。それにお前は性格に難がありすぎる、と言う言葉をクロードは飲みこんだ。仕事以外の場所では、なるべく平和に過ごしたかったのだ。