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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

控えめに言って、あなた最低です

作者: 琴乃葉

最低なのは浮気男だけではないと思うんです。

異世界ってモラハラ男、多そうじゃないですか?


「いいんだよ? カトレア。俺は婚約破棄しても」

「も、申し訳ありません、ドイル様。今度はきちんとあなたの婚約者らしく振る舞いますから」

「そうしてくれる? 大体君は何度言っても……」


 ……もう何度目になるだろうか。

 ドイルはカトレアの家の前に馬車が止まっても言葉を吐き出し続ける。いかにカトレアが愚かで非常識かを、延々と説き続ける。



 カトレアの家、ウォール伯爵家は財政難に苦しんでいる。四年前に母が死に、その半年後、後妻に入ったランダには四歳の娘がいた。父の血を引く娘だ。


 当時十四歳だったカトレアは、ただ周りの環境が、雰囲気が変わるのを呆然と見ている事しかできなかった。外聞を気にする父はカトレアを貴族学園にこそ入学させたが、家での扱いは侍女同然だった。


 ウォール伯爵は、気性の荒いランダのご機嫌とりに終始し、気まぐれに投げかけられる優しい言葉や眼差しをご褒美だとばかりに尻尾を振って受け取っている。


 そこにはカトレアの知っている父の姿はなく、ただ、歳の離れた愛妻の愛情を欲するがあまり、いいなりになっている情けない男がいた。


 当時、父は三十代半ば。ランダは元娼婦で二十歳という若さだった。確か娼館で働けるのは十七歳からのはずだけれど、違法な娼館なら山程ある。


 たった三年半でランダによって伯爵家の財産は食い潰された。その間に大雨による不作と橋の崩壊が二度あった。しかし、質素倹約とランダの口車に乗って無謀な投資を繰り返さなければ充分に乗り切れたはずだった。


 ウォール伯爵は、屋敷を抵当に入れて借入しなくてはいけない状況になって、やっと事態の深刻さに気づいた。このままではいけないと頭を抱えた所に、借金の肩代わりを条件としたカトレアの婚約話が浮上してきた。


 カトレアは美しい娘だった。豊かな栗色の波打つ髪に、アメジスト色の潤んだ瞳。細身でありながらも豊かな胸と息を呑むほど綺麗な肌をしていた。じっとしていれば、人形のようであった。そして、人形である事を強いられた。


 相手はサルハロ伯爵の長男ドイル。二五歳にして未だ独身、特に賭博や女遊びの噂は聞かない。ニ度、婚約破棄をしているが、どちらも相手方の問題と言われている。ドイルは城に勤めており、同僚、上司からも評判は高く、見た目も良い。だから、天は二物を与えた代わりに女運を悪くしたと冗談混じりに噂されていた。


 そのため、カトレアはこの婚約に不安はなかった。寧ろ、些細な事で折檻をするランダから離れる事ができると喜んでいた。


 でも、そんな期待はすぐに打ち砕かれた。会ってすぐに言われたのが


「君は美しい」という褒め言葉と

「俺に恥をかかせないよう、努力してくれ」という言葉だった。


 カトレアは何故かその言葉に違和感を覚えた。伯爵夫人として恥ずかしい行いをするな、という意味だと解釈しながらも、高圧的な言い方は心にざらりと引っ掛かる物があった。


 ドイルは月に一度は訪れ、その度に花や宝石、ドレスを持ってきたので、あの不安は気のせいだったとカトレアは安心した。


 ドイルはカトレアの淹れたお茶が美味しいと大変気に入った様子なので、侍女に任せずカトレアがお茶を出すようになっていた。

 何度目かのお茶会の時だ。お茶を出した際、偶然カトレアの手とドイルの手がぶつかりカップが床に落ちた。それは、どちらかに非があるものではなかった。不運な偶然だ。それでも、カトレアはすぐに、


「申し訳ありません。火傷はしておられませんか?」


 と聞いた。カトレアは決して世間知らずではない。学園には友人もいる。だから、この場合相手から返ってくる言葉は大抵「いや、こちらこそ不注意だった、カトレアこそ大丈夫か?」と言った詫びの言葉だと思っていた。しかし、ドイルから返ってきたのは


「靴が汚れた。君が悪いのだから拭いてくれ」


 という不機嫌で冷たい言葉だった。カトレアは一瞬びっくりして固まってしまった。でも、確かにこぼした原因の半分は自分にもあると思った。しかもカトレアの服は汚れておらず、お茶がかかったのはドイルの靴だけだ。だとしたら汚れていない自分が拭いてもおかしくは無いと思うようにした。


 胸の辺りに燻った物を感じながらも靴を拭いた。それでも、ドイルはその日一日不機嫌で、カトレアが話しかけても返事をする事はなかった。


 次のお茶会の時、カトレアは緊張した。また、手がぶつからないようにビクビクしながら、ドイルの顔色を窺いながらお茶を淹れた。この日はお茶をこぼす事もなく、ドイルも饒舌にお城での同僚の失敗話をし、カトレアがそれに微笑み返して一日が終わった。


 カトレアが十五歳になって、初めて舞踏会の招待状がきた。ドイルは笑顔でエスコート役を買って出るだけでなく、ドレスも一緒に選んだ。ただ、カトレアが着たかった肩が開いたシルエットがきれいなドレスはドイルが不機嫌になったからやめた。その代わりワンピース型のフリルが沢山付いたドレスを着ることになった。この頃には、自分の好みより、婚約者の好みを優先する事が当たり前になっていた。


 そして、舞踏会の日、ファーストダンスを踊り終わったあとドイルは同僚にカトレアを婚約者だと紹介した。


「俺の婚約者のカトレアだ。カトレア、学園時代からの悪友だ」

「初めまして。カトレアです。皆様のお話はドイル様からいつも伺っております」


 にこやかに挨拶をするカトレアを満足そうにドイルは見る。カトレアは今の挨拶は合格点だったと安堵した。


「こんな美人が婚約者だなんて羨ましい限りだな。俺の妻なんて子供を産んでから気が強くなっちゃって」

「それは俺のところもだ。婚約時代の儚げな雰囲気は儚くも散ったよ」


 ははは、とドイルの同僚達は笑った。年齢的にも彼らは妻子持ちなのだろう。ドイルはカトレアの肩を抱き寄せ、若く美しい婚約者を自慢している。


 話は全員の共通項である貴族学園が中心だった。あの教師の授業はつまらない、とか。あそこがテストに出るとか。学園内で彼らがやらかしたちょっとした悪戯だとか。その流れで、この国の歴史の話になった。カトレアは歴史が得意だった。いや、正確には歴史だけでなく全ての教科でトップクラスの成績を収めていた。

 ドイルは歴史が苦手なようなので、さりげなくカトレアがフォローをしてその場は和やかに終わった。


 同僚達と別れ、次は誰を紹介してくれるのだろうと期待していると、ドイルは無言でカトレアを置き去りにしてどこかに行ってしまった。カトレアは意味が分からず呆然と突っ立っていた。


 同級生達はその間も、同伴した――おそらく婚約者――と楽しげに踊っている。時には婚約者を紹介に来てくれた友人もいたが、カトレアの婚約者が不在なので、気まずそうな笑みを浮かべ立ち去って行った。始めは直ぐに戻ってくるだろうと思っていたが、ドイルが帰ってきたのは舞踏会が終わりの鐘を鳴らしたあとだった。


 腕を貸す事もなく無言で早足で進むドイルの後を追いながらカトレアの心は不安でいっぱいになっていた。何か気に触るような事をしたのだろうかと思うも心あたりがない。それに、何かしたとしても、今夜デビュタントを迎えた自分を無言で置き去りにするのはおかしいと思った。


 馬車に乗ると、カトレアは堪りかねたようにドイルを問い詰めた。人生一度の晴れ舞台を蔑ろにされた理不尽な行動に彼女は怒っていた。


「君は俺に何をしたか理解しているのか?」

「私はできる限り、婚約者としての務めを果たしたと思います」

「はぁ、……君は何も分かってないね。あれだけ俺に恥をかかせたのに」


 ドイルは口を歪め、冷たい目でカトレアを睨んだ。カトレアは全く意味が分からない。寧ろ恥をかかされたのは一人ぼっちにされた自分の方だと思った。無言のカトレアに対し、忌々しそうにドイルは溜息をついた。


「……言わないと分からないんだな。君は歴史の知識があるのをそんなに自慢したかったのか? 俺を貶めてまで」


 カトレアはポカンと口を開けたまま一点を見つめた。ドイルの言葉の意味が分からなかったからだ。


「あの場合は、俺より知識がない振りをして俺を立てるのが当たり前だろう? それを噛み砕いて教えるなんてバカにするのも程がある」

「私は、ドイル様にも会話を楽しんで貰おうと思って」


 実際、カトレアが言葉を付け加えたからこそ、ドイルは話題についていけたのだ。カトレアの発言はさりげなく控えめな物で、決して出しゃばったりしていない。寧ろその場の雰囲気を読んでこその事だった。

 周りの人間もカトレアの博識を褒めたが、ドイルを馬鹿にするような事はなく、和やかな会話だった。


「はぁ、これだけ説明しても君は何も分からないんだな。……もう無理かもな」

「…………無理って何がですか?」

「君と婚約を続ける事をだよ」


 カトレアは再びポカンとした。言ってしまえば、たかが同僚との会話だ。それだけでどうして婚約破棄になるというのか。意味が分からない。ただ、婚約破棄されたら、実家で侍女同然の生活が待っているのは分かっていた。借金の肩代わりを約束されたこの縁談がなくなれば、さらに扱いは酷くなるだろう。どこの後妻にされるか分かったものではない。


 それならば、とりあえず、納得できないけれど謝ろうと思った。確かに出しゃばり過ぎたか、とも思える部分はあるかも知れない。


「も、申し訳ありません」

「本当に君は分かっているのか? 俺に恥をかかせるな、とあれだけ言っただろう」


 恥をかいたのは自分の方だとは、もう言うつもりはなかった。そして何度、何十回も謝ったのにドイルは許すとは言わない。カトレアはどうすれば良いか泣きたくなってきた。涙が滲み、手の甲で軽くぬぐう。


「あぁ〜、ダメダメ。俺、そういうので誤魔化されないから」


 冷たく嫌味を含んだ言葉に身体がビクッと震える。泣いて誤魔化し媚を売る女は確かにいる。でもカトレアにそんなつもりはなかった。本当に自然と涙が出たのだ。


 馬車はカトレアの屋敷に着いたけれど、降りられる雰囲気ではない。結局カトレアは三時間以上謝り続けてやっと解放された。


 それから、何度も同じ事があった。  


 ドイルが妹の失敗談を面白おかしく話し、「おかしいだろ。ちょっと間抜けすぎないか?」とカトレアに聞いた。カトレアはそんなに間抜けな話かな、と思ったけれど、機嫌を損ねない為に曖昧に同意するような返事をした。すると、そのあとドイルは黙ってしまった。そして、別れ際、不安に苛まれているカトレアに対し、「君が俺の家族を愚弄するような人間だと思わなかったよ」と蔑み、再び婚約破棄を持ちだした。


 些細な事で機嫌を悪くし、直ぐに婚約破棄を持ち出すドイルにカトレアの精神は少しずつ蝕まれていった。


 もはや、婚約破棄は脅し文句で、その言葉でカトレアを自分の思うままに操縦しようとしてるのは明らかだった。カトレアはその事をおかしいと思っていたが、解決策が見つからず、どんどん笑顔が消えていった。



 

 カトレア十七歳、六ヶ月後の卒業と同時ににドイルと結婚する事が決まっていた。最近はドイルの顔色を窺うのも上手くなってきたが、同時に自分が自分でなくなっていくようにも感じていた。


 カトレアの実母は、カトレアの真っ直ぐで正直な所が好きだと言ってくれた。正義感の強いところが良いと言ってくれた。聡明で、努力家で、自分の考えと気持ちを大事にするところが素晴らしいと褒めてくれた。


「今の私には、お母様が褒めてくれた事が何も残っていない」


 自室の窓を開け、夜空に向かってポツリと呟いた。

 涙が出てきた。どうしたらいいのか分からず、悔しくて。


 

 そんな時、ウォール伯爵の元に援助を求める旅の劇団が来た。

 

 劇団をまとめているのはビアンカという四十歳程の黒髪の女性だった。背が高く、姿勢が良い。黒曜石のような一重の切れ長の瞳は涼やかで、薄い唇には真っ赤な口紅が塗られていた。


「来月から半年間、この国で演劇を行うビアンカ劇団の団長をしております」


 ビアンカはキリッとした顔で、真っ直ぐにウォール伯爵を見て挨拶をした。その視線は堂々としており、媚び(へつら)う様子は全くない。


 客人が来たらお茶を用意するのはカトレアの役目だった。財政難なため、この頃には使用人は最低限しかいなかった。給仕と部屋の掃除はカトレアの仕事で学園が休みの日には洗濯や裁縫もしていた。


 お茶をビアンカの前に出しながら、カトレアはその佇まいから目が離せなくなった。凛とした佇まいがとても格好良く見えた。


 ビアンカは、各国を転々としていた。その国の貴族の後ろ盾を得た上で、劇を行ったり広場にテントを広げて異国の品々を売るマーケットを開いていた。また、その土地ならではの品の買い付けや、異国間の取引の橋渡しを行い、紹介料を得たりもしていた。


 後ろ盾と言っても関係はイーブンだ。場所代は払うし、収益の十パーセントは領地の持ち主に収める。その代わり、劇団とマーケットの宣伝、知り合いの貴族への口利きを頼んできた。


 カトレアはとても良い話だと思った。領地にある広場を貸し、お茶会や舞踏会で宣伝するだけで収入が入ってくるのだ。しかし、ウォール伯爵はその話を断った。理由はひとつ、ビアンカが女性だからだ。


「女の癖に、わしと対等に話をしてきた。女なら下手に出て男を立てたり媚びたりするものだろう。まったくもって気に食わん」


 というのが父の言い分だった。


 カトレアは馬車までビアンカを見送った。しかし、ビアンカは馬車の前で立ち止まったまま動かない。


「あの、どうかされましたか? 父が失礼をしたのなら申し訳ありません」

「……名前は?」


 ハスキーな声が耳に心地よかった。


「カトレアと申します」

「それは、ウォール伯爵家の御令嬢の名前だと聞いているが」

「はい、長女です」


 カトレアは思わず下を向いた。長女でありながら、給仕をしていたのだ。着ている服も粗末な物。ビアンカの視線が足元から頭まで動くのを感じ、カトレアは益々居た堪れなくなった。


「噂ではサルハロ伯爵の令息とご婚約もされているとか」

「えっ、は、はい」


 確かビアンカがこの国に来てまだ半月しか経っていないはずだ。公爵家ならいざ知らず、伯爵家同士の良くある婚約をどうして知っているのだろうか。

 目をパチパチとしているカトレアにビアンカは一歩近づいた。


「どうして私がその事を知っていると思う?」


 薄い唇が弧を描く。でも目は笑っていない。まるでカトレアを試すかのように黒曜石の瞳がじっと見据えている。


 カトレアは考えた。


 我が家には騙し取るような財産はない。だからウォール伯爵家についてのみ詳しく調べたわけではないだろう。

 すると、国中の爵位のある者、全て調べたという事になる。到底半月では無理だ。


「数ヶ月前、おそらくあなたがまだどこかの国で公演をしていた頃に、仲間の一人がこの国に来て情報を集めたのではないでしょうか。後ろ盾になってくれそうな貴族を探すために」


 ビアンカは笑みを浮かべたまま頷いた。その凛々しい微笑みに見惚れたカトレアは、彼女ともう少し話をしたいと思った。


「私どもを交渉相手に選んだのは、公演に相応しい広場を持っていた事と、領地経営に逼迫しているので有利に交渉できるかと考えられたからではありませんか?」


 カトレアの答えにビアンカは目を細めた。その表情は何故かカトレアに母親を思いださせた。髪も顔立ちも全く違うのに。


「良かった。まだ考える事ができるようだな。人は不本意な状況で飼い慣らされると、悪いのは全て自分だと思い込み、思考を放棄する。私はそんな人間を沢山見てきた」


 月の光だけが照らす庭で、ビアンカの低い声はよく響いた。


「私は、自分の人生は自分で切り開くものだと思っている。人間同士の関係は常に対等でなければいけないし、お互いを尊重し合えるものでなくてはいけない。そして、守ってもらえる人を求めるより、自分自身で闘える強さが欲しい」


 ビアンカは胸のポケットから紙とペンを取り出し、さらさらと何かを書いた。


「もし、覚悟があるならここに来なさい」


 そこには、宿の名前と簡単な地図が書かれていた。



 屋敷に戻ったカトレアは、ティーカップを片付け、父親が明日履く靴を用意し、冷めたお湯で湯浴みをした。屋根裏にある自室に戻る頃には、日付けが変わっていた。


 仕事が全て終わり、やっと学園から出された課題に取り掛かれると椅子に座る。でも、文字は全然頭に入ってこない。


 カトレアは課題を諦めて、貰った紙を広げた。ビアンカは覚悟があるのか、と言った。おそらく、今持っている物全てを捨てる覚悟があるかという意味だろう。


 捨てたところでどうなる?

 平民として生きる?

 見つかって、もっと酷い事になるのでは?

 それに、家を出てどうやって生きていく?


 ビアンカから貰った紙を破り捨てる理由はいくらでも浮かぶ。


 でも、従順な振りをして、自分で自分の人生に限界を決めて生きて何になるのだろう。無難な言葉で自身を慰め、我慢しながら一生暮らすのか?


 そもそも、一人で生きていけないと誰が決めた?


 カトレアの胸に小さな熱が宿った。


(私と同じ年で、いや、もっと幼い年齢で一人で生きている平民はいるじゃない。どうして、できないと決めつけるの? お金を稼げないから? 何もできないから? だったらできるようになればいいんだ)


 その晩、カトレアの胸に宿った熱は消える事がなかった。何をすべきか、何ができるかを布団に入ってからも考え続けた。


 週末、カトレアは渡された紙を見ながら、慣れない道を歩きビアンカの泊まる宿に辿り着いた。両親は、学園の補習があると言うと、渋々ながら外出の許可を出してくれた。


 カトレアにしてみれば、宿を探し当てるだけでも大変な事だった。途中道に迷い、人に聞き、辿り着いた時には達成感すら感じていた。


(これからが本番なのに……)


 こんな些細な事で達成感を味わってしまう自分を情けないな、と思うと同時に、今までできなかったことができたのだから素直に喜んでもいいんじゃない? とも思った。


 紙にかかれた部屋番号をノックすると、二十歳ぐらいの銀髪の男性が出てきた。


「すみません、部屋をまちがえました」


 カトレアが慌てて謝ると、部屋の奥から「入っておいで」と、女性の低い声がした。

 銀髪の男性はカトレアに笑顔を向けると、扉を大きく広げ中に招き入れた。


「コーディン、お茶を二つ用意して頂戴」

「分かりました」


 コーディンはカトレアに軽く手を振ると部屋を出て行った。

 その宿は長期滞在者用の宿で、一階にある台所を宿泊者は自由に使えるようになっていた。


 ビアンカは奥のソファーにゆったりと腰をかけ紫煙を燻らせていた。そのまま空いている方の手で目の前の椅子を指差し、座れと促した。

 カトレアはおずおずと座ると、目をさっと動かして部屋の様子を見た。ビアンカの服もシーツも乱れていないので、邪魔はしていないな、と思った。


「くくっ、邪推はいらないよ。あの子は劇団員だ。ちょっと打ち合わせをしていてね」


 カトレアは、ちょっと恥ずかしげに首をすくめ頷いた。そんな様子を煙の向こうからビアンカが見ている。


「それで、覚悟はついたかい?」

「はい。卒業と同時に家を出ます。そして、国境近くの村で仕事を探します」

「どうして卒業後なんだ?」

「それまでに準備したい事があるからです。ところで、ビアンカさん達は援助してくださる方をもう見つけられたのですか?」


 ビアンカは、紫煙をふぅーっと吐き出して煙草を陶器の灰皿で消すと、見つかったよ、と唇の片側だけ上げて答えた。


「それは良かったです。では、あと半年はこちらにいらっしゃるのですね?」

「あぁ、そうなるね。何だい? お嬢様の家出に協力して欲しいって?」

「まさか! そんな厚かましいことは申しません。ただ、月に小銀貨五枚で私の家出の準備をしてくれる人を探しているのです。お心当たりはありませんか?」


 ビアンカは軽く二度頷いた。今のカトレアの答えが正解だとでも言うように。


「いいよ、紹介しよう。無償で頼ってきたら追い出そうと思っていたけれど、交渉ならその必要はないね。とりあえず、もうすぐコーディンがお茶を持ってくるから彼と話をすれば良い。交渉決裂となったならあと二人紹介してあげるよ。その人達が気に入らなかったらあとは自分で探すように」

「はい。ありがとうございます」


 その時、ドアをノックする音がした。

 ビアンカは、部屋に入ってきたコーディンに、「カトレアの話を聞いてやってくれ」とだけ言うと、そのまま出ていこうとする。


「ちょ、ちょっと待ってくれよ。話は聞くけどお茶は?」

「あんたが飲みな。私は向かいのカフェに行くよ」

「え〜、せっかく入れたのに」


 コーディンはぶつぶつと不満を呟いたあと、くるっと振り返りカトレアを見た。


「ちょっとよく分からない状況だけれど、とりあえずお茶、飲む?」


 気さくな笑顔を向けながら、テーブルにお茶を置くと、ビアンカが座っていた場所に腰を下ろした。


「それで、話って何?」

「はい、実は……」


 カトレアは、初対面の男性と二人でいる事に戸惑いを感じながらも、ここで引き下がるわけにはいかないと、背筋を伸ばして話し始めた。

 



「ふーん、それで貴族の裕福な生活を捨てて平民になりたいんだ。大変だよ、平民。お腹空いて寝られない夜とかもあるし」

「……そ、それは」

「自分の食い扶持は自分で稼がなくてはいけない。カトレアにそれができるの?」


 それは、カトレアが一番考えた事だった。どうやって生きていくか。


「私は実家でメイド達を雇う際に必要な契約書や紹介文を書いた事があります。身分証がなくても、紹介文さえあれば雇って貰えます」

「つまり、自作で偽の紹介文を用意するという事か」


 平民であっても、子が生まれたら届出をして、身分証を発行しなくてはいけない。

 

 しかし、身分証を発行するにもお金がかかる。だから、貧民層には届出をしていない子も沢山いる。その子達は身分証を必要とする侍女や衛兵にはなれないけれど、下働きのメイドや傭兵にはなる事ができる。――労働の割には対価が少ないけれど。


「それで、家を出た後はすぐに国境付近まで行こうと思っています。その為にはお金が必要です。婚約者は時々私に宝石をプレゼントしてくれますが、今までは全て義母に管理されていました。でも、これから半年の間に貰うものは隠し通して換金しようと思います」


「それじゃ、俺に頼みたいっていうのは、その宝石の換金かい?」

「いいえ、宝石は持ち運べるので必要な時に換金しようと思います。あなたには私の服や靴の換金を頼みたいのです」


 カトレアの母が残したアクセサリーは全て義母に奪われた。ドイルからプレゼントされたアクセサリーも義母が持っている。ドイルに着けてくるように言われた時だけカトレアに貸し出されていた。服や靴は、外面のいい父が最低限用意してくれていた。


 コーディンは頷きながら、なるほど、ビアンカが話を聞くように言うだけの事はあるな、と思った。ちゃんと考えている。危なっかしくはあるけれど。


 そして、彼女の交渉相手に自分を選んだ理由も分かった。


(まるで、数年前の俺だな。必死に今いる場所から逃げようとしている)


 コーディンは売値の一割を対価として要求したあと、何故か母親の形見と、婚約者から貰った宝石のデザインを事細かく聞いてきた。



 それから半年、カトレアは従順な振りをして出来る限りの事をした。ドイルから貰った宝石は、辞書をくり抜いた中に隠した。そしてこっそりと、少しずつ服や靴をコーディンに送った。



 そして、その他にも様々な準備を完璧に終え

 迎えた卒業パーティーの日。


 会場のど真ん中でカトレアは宣言した。



「私、カトレア・ウォールはドイル・サルハロとの婚約を破棄します」




 何を言われたのか分からず目を見開くドイルの顔が、次第に怒りで赤く変わっていく。


「お、お前は。あれほど……」

「あれほど、俺に恥をかかすなと言ったのに、と言いたいの?」


 カトレアは真っ直ぐに前を向き、自分より頭一つ分背の高いドイルを睨みつけた。


「自身のプライドを保つ為に、私を傷つけ縛り付け、操ろうとする。行き過ぎた正論で人の心を傷つけ人格を壊す。自分勝手な言いがかりで私を追い詰め苦しめる。それは暴力と同じです」

「な、何を言っているんだ。こんな人前で。皆が見ているだろう? ちょっとこっちに来い!」


 ドイルは強引に腕を引っ張るが、カトレアは痛い! と大きく叫んでその腕を振り払った。


「あなたの二番目の婚約者に会ったわ」


 ドイルの動きが止まる。周りを見渡し、自分達を囲む視線に苛立ちを隠せず舌打ちをした。


「彼女はあなたから、毎日、何時間もなじられ、責められ、とうとう心が壊れて自ら命を絶とうとした」


「そ、そんな事……」

「嘘、だと言うの? あなたの一番初めの婚約者は今も心を病んで療養中だとか。それでも自分に非はないと?」


「あれは、あいつらが至らず、……そうだ。俺に恥をかかせたあいつらが悪いんだ」

「あなたはそれ程、立派な人間なの? 何様のつもり? 恥も何も、周りの人はあなたの事をそれ程高く評価していないわよ」


 ドイルの目は吊り上がり、握りしめた拳は震えている。カトレアは小さく囁いた。ドイルにだけ聞こえるように。


「器の小さなつまらない男」


 ガシッ


 握りしめたドイルの拳がカトレアの頬骨を殴り付けた。カトレアは床に倒れ込み、会場内は静まり返った。


「あなたはいつも、最後に暴力を振るうのね」

「な、お前は何を言っているんだ。今まで殴った事は」


 そう、ドイルがカトレアを殴ったのはこれが初めてだ。だけど、今大事なのは周りがどう思うかだ。


 カトレアは顔を上げた。その口からは一筋の血が流れている。そのまま、よろよろとして立ち上がる。


 カトレアの目からは涙が一筋溢れた。


「たとえ私が泣いてもあなたは何時間も私を怒鳴り続けた。涙を流す私を見て、鼻先で笑って、どうせ泣き真似だろうと冷たく言い放った」


「こ、こんな事をして! 俺が婚約を破棄したら、お前の家の借金はどうなると思っているんだ?」


 ドイルは墓穴を掘った。金を餌に女を傷つけて、暴力を振るう男だという印象を自らこの場にいる人間に植え付けたのだ。心を病み療養中の令嬢や、自殺を試みた令嬢の存在も、ドイルの悪行がどれほど酷かったかを連想させた。


「あの家と私は、もう関係ありません」


 それだけ言い捨てると、カトレアは会場を飛び出した。後ろからドイルが追ってくる気配がした。しかし、数人の足音がしたあと、「離せ! 俺は悪くない!」という叫び声が聞こえたから、誰かに押さえつけられたのだろう。


 カトレアはそのまま屋敷を後にして、門前に待たせていた馬車に飛び乗った。馬車と御者はビアンカから小銀貨六枚で借りた。


 御者はコーディンだった。


 そのままビアンカが泊まる宿に向かう。カトレアはビアンカの部屋の扉をノックした。扉を開ければ、ビアンカは初めて来た時と同じようにソファーにゆったりと座っている。


「ビアンカさん、いろいろありがとうございます」

「気にする事はない。こちらは頂いた金額に見合う仕事をしただけだ」


 ビアンカの言葉にカトレアは頭を振る。


「いいえ、あなたの言葉で私は吹っ切れたのです」

「大変なのはこれからだ」

「自分で決めた責任は自分で負います」


 ビアンカは紫煙を燻らせながら立ち上がり、ベッドサイドの机から一枚の紙を持ってきた。


「これは、一年前に流行病で亡くなった女性の身分証だ。彼女は劇団のダンサーだった。埋葬はしたけれど、死亡届けは彼女の希望で出さなかった。いつか、役立てて欲しいと言ってね」


 カトレアに渡されたのは、この国から四ヵ国跨いだ場所にある小さな国の身分証だった。

 名前はマリアナ、商家の娘のようだ。年齢は十九歳で、栗色の髪に茶色い目と書かれている。


「自由を掴んだあんたに、私からのプレゼントだ」


 カトレアの目から涙が落ちた。先程会場でした嘘泣きではない。熱い涙が頬を伝った。ビアンカは指先でその涙を拭う。


「たかが紙一枚だが、これがあればきちんとした店や屋敷で働ける。上手くいけば王宮勤めだってできるし、金持ちの妻にもなれる」


 最後の言葉には、ちょっと意地悪い笑いが含まれていた。


「この娘の親は、商売が傾き金が必要だからと、先妻の子である彼女を娼館に売ったんだ。彼女は逃げて冬の川に飛び込み、道端で凍えていた所を劇団にスカウトした」

「ビアンカのスカウトは保護と同意語だからね」


 含み笑いでコーディンが口を挟み、ビアンカに睨まれている。それを見てカトレアが、ふふっと小さく笑った。


 コーディンはそんなカトレアの様子を目を細めて見た後、おもむろに懐から袋を取り出した。こぶし二つ分程もある袋をどうやって懐に入れていたのか、ビアンカは首を捻る。


 袋の口をほどき、机の上で逆さまにするとザッっという音と一緒に沢山の宝石が机の上に広がった。幾つかは床に転がった。


「これは……」


 カトレアは床に転がった宝石を手に取る。それは彼女の母親の形見の品だった。次いで机の上の宝石も一つ、また一つと手にする。どれも母の形見かドイルから贈られた物だった。



「昔取った杵柄ってやつかい?」


 ビアンカの言葉にカトレアが目をパチパチとしてコーディンを見る。


「コーディンって泥棒だった……」

「違うよ!!」


 食い気味で否定するコーディンにビアンカが声を出して笑う。


「似たような者だろう」

「完全に否定はできないが、違う」


 カトレアは意味が分からないという顔で首を傾げる。コーディンを見る目に少し怯えの色が滲んでる。


「ほら、カトレアが怖がっているじゃないか。違うからね。泥棒じゃない。ほら、今回だって持ち出したのは全て君の宝石だろう。持ち主に届けたのだから泥棒じゃない。そうだろう?」


 確かに、目の前にあるのは全てカトレアが所有すべき宝石だ。


「でも、これどうやって持ち出したの?」

「それは企業秘密だよ」


 嘯くコーディンの顔にビアンカがふっと紫煙を吐く。


「ほら、やっぱり泥棒だ」

「ビアンカ、誤解を招く発言は止めるべきだ」


 二人の遣り取りを見ながらカトレアは考えていた。


(泥棒以外でこんな事ができるのは、工作員とか、スパイとか、……あと何があるだろう。もしかしたら、彼も何かから逃げ出して来たのだろうか)


「マリアナ」


 慣れない響きに、返事をするのに数秒かかった。


「私達と一緒に国境を越えよう。一人で生きていくにしても、知っておかなきゃいけない事は沢山ある。あんたは美しい。そこに付け込まれないだけの知恵と経験をつけるまでは一緒にいるといい」

「いいんですか?」

「勿論働いて貰う。これは交渉だ。自分を安く売る必要はない」


 カトレア、いやマリアナは大きく頷いた。



▲▽▲▽▲▽▲▽

 その後、ドイルは職場や社交場から爪弾きにされ、外聞を気にした親から廃嫡された。寂れた街の片隅で見たという噂が流れたが真偽は不明。

 マリアナはビアンカの劇団で人気の踊り子となった。気心知れた仲間と笑って過ごし、コーディンと夫婦となり、自分らしく生きている。



読んでくださりありがとうございます。


※実家の末路を気にされる方がいらっしゃるようですので追記します。


ウォール伯爵家は、暫くは高利貸しからお金を借りていたけれど、とうとう返済出来ない金額になり屋敷を売り爵位返上をした。継母が路地裏の怪しい飲み屋で働いているのを見た人がいるとか。娘は孤児院に入ったと噂されている。父親は生死不明。

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[良い点] ヒーローが出てこないこと [一言] 虐げられていた女性が幸せを手に入れる作品は数多くあるけど、その多くが男性に助けられたものばかり。 自分で間違いを正し、身を挺してそれを証明し、自らの力で…
[気になる点] 最後があっさり過ぎてびっくり
[良い点] オリジナリティがあり物語の説得力も悪くない
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