09 泉の女神
絶対に死ぬ。
クララはそう思った。
だって、雪の降る夜に泉へ突き落とされたんだから。
だけど、その予想は覆され、クララの耳にとんでもない言葉が届いたのである。
『あなたが失った身体は、絶世の美女であるこの美しい身体ですか。それとも、誰にも傷つけることが出来ないこの頑丈な身体ですか。それともこのみすぼらしい水死体ですか?』
実は、この泉には本当に古から女神が暮らしていて、最近はとても暇を持て余していた。そのため、交流できそうなクララの魂が水の中に落ちてきた時、その魂が離散して消滅する前に、ちょっとだけ神力を使って、現世につなぎ留めたのだ。
この一大事に、そんなとぼけた質問をする女神。
でもその声は、とても優しく、心の奥がほんのり温かくなるような不思議なもので、それに呼び掛けられたことによって、失われたクララの意識が戻った。
「誰の声だっけ」
魂だけの存在になったことに気がつかないまま、ふわふわする頼りない頭で自分の記憶を探ってみるクララ。
「聞き覚えはないと思う」
精霊宮内での知り合いは少ない。
だからクララは面識がない人だと判断した。普通なら女神の姿は人に見えないから、クララどころか、会ったことがある人がいないのだけど。
「そう言えば、何か質問されていたような? えっと、なんだっけ? 美女とか頑丈とか水死体とか? え? 水死体!?」
怖ろしい言葉を反復したことで、白濁してぼやけていたクララの意識がはっきりして完全に覚醒する。
「なんだかよくわからないけど、私、まだ生きてる!?」
さっきまでの苦しさが嘘のように消えていた。それでもクララ自身はゆらりゆらりと身体の揺れを感じているので、まだ本調子ではない。そんな風に思った。
「でも、助かったんだわ。よかった」
話しかけてきた声の主が助け出してくれたのなら、ちゃんとお礼を言わなければ、そう思ってクララは、急いでその姿を探した。
「あれ?」
月明りもない暗闇の中で何かが白くぼんやりと光っている。その中心にいたのが、絵画に描かれているような、かなり昔に流行ったドレスを身につけた女神。
その姿を目の当たりにしたクララは首を傾げた。
「え? 幽霊、それとも精霊?」
しかもその女神は、水の底からクララを見上げていた。
「あれ? なんで水の中? 私は水中から引き上げられて助けられたんじゃないの?」
クララは、突き飛ばされたこと、溺れそうになったこと、そしてこの寒さで頭が混乱しているんだと考え、とにかく一度冷静になろうと思った。
その上でちゃんと自分の状況を確認することにしたのだが……。
「ちょっと待って。これってどうなっているの? やっぱりまだ水の中よね?」
不思議なことに、クララは水の中にうつぶせの状態で浮かんでいて、顔は水の中だというのに苦しくなかった。なぜか声も出る。
そしてその身体はまったく寒さを感じていなかった。
何が起きているのか想像もできずに、もう一度女神に視線を向けてみるクララ。
女神は、クララと目が合うと優しく微笑みかけながら、さきほどと同じ質問を投げかけた。
『あなたが失った身体は、絶世の美女であるこの美しい身体ですか。それとも、誰にも傷つけることが出来ないこの頑丈な身体ですか。それともそのみすぼらしい水死体ですか?』
「わかった! これはきっと夢なんだわ」
自分は夢を見ているんだ。そうに違いない。そう思い込むことで、クララは自分を納得させた。
(そうじゃないなら、私は死んでる)
『夢じゃありませんよ』
「え?」
『そんなことよりわたくしの質問に答えてくださらない』
「質問?」
『あなたの身体は、美女ですか、頑強な肉体ですか、水死体ですか』
「すみませんが、その三択の意味が私にはまったくわからないので説明してもらいたいんですけど」
とんでもない質問に答えろと言われても、状況がまったくつかめない。わからないことは知っている人に聞くのが早いはず。
『これでも、何百年ぶりに人間とお話しできたから、わたくしはすごくサービスしているつもりなのだけれど』
「サービス?」
『まあいいでしょう。丁寧に説明して差し上げますから、あなたはこちらに降りてきてくださらないかしら』
「降りろと言われても身体が思うように動かないので、どうすればいいのか私にはわかりません」
「そうですか。では」
女神がそう言った瞬間、クララは彼女の目の前に移動していた。
「すごい。どうなってるの」
「いえいえ、こんなことはたいしたことではありませんよ。あなたとは会話ができるようなので、わたくしの部屋に招待いたしますわ」
するとまたクララの視界が切り替わる。一瞬の間にクララは月の宮のようなとても豪華な部屋に移動していた。
「え? 今度は部屋の中なの?」
「そちらにお座りになって、あなたとゆっくりお話したいわ」
女神にソファーを勧められたクララはかくかくとぎこちない動きで挙動不審になりながらゆっくりと腰を掛けた。