08 嫌がらせ? 非道な行いの犠牲者
「お清めの場所は屋外になります。外は寒くなってきましたので、このコートをどうぞ」
「ありがとうございます」
イルサに厚手のコートを渡されたので急いで腕を通す。そのあと案内された場所には、精霊宮に入った入口とは別に、外へと出られる扉があった。
(入口はひとつじゃなかったのね)
イルサがドアノブを回すと鍵はかかっておらずすんなり開く。
(出入りは自由みたいで、警備の人もいないし、ここはどうなっているのかしら)
中庭みたいに散策できるようになっているだろうか。クララが疑問に思っているとイルサが説明を始める。
「この一本道を登っていくと聖域と呼ばれている場所に出ます。その場所は立ち入り禁止になっていて、周りは精霊宮と同じように高い壁で囲まれていおりますので、この扉以外からしか入れません。もちろん、壁の外に出ることもできません」
「この扉の向こうも精霊宮の一部ということですか」
「そう思ってもらって結構です」
そこに、神託を告げた女神が住まう泉があり、精霊宮に入った加護もちはその聖水で身を清めるのだそうだ。
「身を清めるって、まさか水浴びをするんですか」
「いえ、昔はそういうこともあったようですが、今は指先を清めていただくだけで大丈夫です」
「よかった」
クララは天気が悪いせいで薄暗くなっている空を見上げる。ほっと白い息を吐きながらながら、胸をなでおろした。こんな寒空に水へ入れと言われても困ってしまう。
「あ、雪」
「本当ですね。積もったら足元も悪くなりますし、さっさと済ませてまいりましょう」
ひらひらと舞い降りてくる雪。どおりで今日はいつもに増して寒いわけだ。
「女神様にお会いできるのですか? それに身を清めたら月精霊の加護で何かできるようになるんでしょうか」
「残念ながら泉の女神様のお姿は誰にも見ることはできません。精霊宮に入られた加護もちの皆様は、この場に存在するだけで良いそうなので、儀式をおこなったからといって特別何かが変わるわけではないと思います」
「そうですか」
「心配しなくても大丈夫ですよ。お清めの儀は慣例なだけですから、それほど畏まったものではありませんので」
七妃ともなると、いろいろしきたりがあるらしい。その辺はおいおいイルサが教えてくれるだろう。
そんなことより、今はコートも来ているのに、その下のドレスが薄すぎるし、足元から冷気が入って来て凍えそうであった。すでにクララの足は指がジンジンと鈍く痛んでいる。
「その女神様の泉まではどのくらいあるんですか」
「目的地はすぐそこですよ。寒くて申し訳ありませんが、お清めは早ければ早いほどいいそうです。ですから、今日はもう少しだけ我慢してください」
「わかりました」
精霊宮の裏手から続く林の中にある小道を歩いていると、しばらくして眼前に金属でできた柵と門が見えてきた。
「この先に泉がございます」
聖域と呼ばれている場所は柵で囲まれて、普段は中に入れないように閉ざされている。そのためイルサは持っていた鍵で門を開けて中に入ろうとした。
「あら?」
「どうしたんですか」
「鍵が壊れているみたいで、解錠ができません。申し訳ありませんがしばらくお待ちください」
「はい」
(今日は、アイリーンさんとイルサさんに優しくされているから、前半に幸運をつかいきっちゃったのかな)
雪が降るほど寒くなっているというのに、鍵が開かないせいでこの寒空で我慢しなければいけなくなってしまった。
(でも、どうにかしようとしているイルサさんの後ろで、何もできずにブルブル震えているだけの私が、弱音を吐いたらいけないわよね)
ここで足止めを食っているうちに周りは暗くなってきた。天気が悪く空には月も出そうにないから、加護があるクララが月精霊にいくら祈ってもどうにもならない。
(月が出ていた夜も、今まで何も起こったことはないけど……)
「あ、開きました。ですが、力ずくで強引に開けてしまったので、施錠はできそうにありません」
「鍵が掛けられないのは困るんですよね」
「そうなのですが、しかたがないのでこのままにしておきましょう。鍵の件は、精霊宮に戻ってから担当者に伝えます。ですから、クララ様はお清めの儀式をお願いします」
「私は何をしたらいいんですか」
「まずはおひとりで泉の水際まで進んでいただき、泉の女神様にご挨拶をなさってください。そのあと泉に手を入れて清めていただきましたら、その場でこちらを読み上げてください」
「これは?」
イルサに手渡された巻物の紐をといて広げてみると小さな文字で何か書かれていた。
「祝詞と言われておりまして、祈りの言葉というか、メルサイム国の平和と国民の幸せを望んでいます、などが古い言葉で記されております。」
そう言われたクララは戸惑った。やはり、七妃に選ばれる者は、それ相応の知識が必要なのだと。
「すみません。私は古文はよく知らないのでどうしたらいいのか……」
「大丈夫ですよ。文字をそのまま読み上げれていただけばよいだけですから」
「そうなんですか」
文字を読むことができれば、それほど難しいことではないのだそうだ。
「これって、時間はどれくらい掛かりますか?」
かなり寒いので凍え死ぬまではなくても風邪くらいはひきそうである。
「遅い方でも五分ほどですね」
「わかりました。頑張ってきます」
「いってらっしゃいませ」
イルサに見送られながら聖域に足を踏み入れ、クララは小さな泉までやって来た。
後ろにはクララの足跡が白い雪の上に微かについている。
「さむっ」
間違って落ちたりしないように、クララはそろりそろりとゆっくり水際まで歩いて行ってから、静かにしゃがみこんだ。
くしゅんっ
「くしゃみだけで済めばいいけど……」
泉をのぞき込むと底まで見えるほど透き通っていて、とても澄んだ水だということは分かる。
しかし、その水面には枯れ葉がかなり浮いているから、誰も掃除をしていないようだ。
「聖域というくらいだから、もしかしたら自然のままの方がよくてそうしているのかもしれないわね」
あまりの寒さにクララは自分の両肩を抱く。そんなことをしている間にも、空からはらはらと雪が落ちてきて、その雪が水面で溶けて消えていった。
「ううー、寒すぎる。早く終わらせよう」
クララはイルサから言われた順番をおさらいする。
「まずは挨拶だったわよね――泉の女神様、私はハイパー家で育てられましたクララと申します。月の精霊様の加護を授かっているそうですが、自覚はありません。今日は身を清めるためにこちらへ伺いましたので、どうぞよろしくお願いします」
それから、手を水に入れた。
「ひゃっ。冷たい」
全身にぞぞぞっと寒気と鳥肌がたったけど、我慢して指先を洗う。
「あとは祝詞を読むだけ」
クララは巻物を再び広げる。
「天に住まう母なる泉の女神様、我らはあなた様の信徒であり、救いを求める子ども。メルサイム国のが未来永劫いつまでも平和でありますように。国民が健やかに暮らせますように。女神様の慈悲あるその両手でもって災いから我らをお守ください……」
祈りと言うよりは、人間側からの要求が長々と連ねている文章を、クララは必死に読み上げる。
間違えないように気をつけながら文字を目で追っている最中、足音が後方から聞こえた。イルサがやってきたのかと思いながらも、祝詞を続ける。
「恨むなら、月精霊の加護もちである自分を恨みなさい」
え? 誰?
クララの耳に入った声の主はイルサではなかった。
(何を言われているのかわからないけど、儀式を途中でやめてもいいの?)
自分以外の存在が気になったクララが一瞬言葉につまったその刹那。
いきなり背中を強く押された。クララは何者かに蹴られた衝撃で混乱する。
「うわっ、何を!?」
そんなことをされたら、クララはどうすることもできない。そのまま目の前の泉にバシャンっと派手な音を立てながら落ちてしまった。
雪が降るこの季節に、嫌がらせにしてはあまりにも酷すぎる。
突然の衝撃で、唖然とするも、すぐに我に返って、水の中から這い上がろうと、泳げないなりにも必死に手足をじたばたさせていた。
「ちょっ、誰か助け……」
しかし、凍てつく寒さのせいで、全身には刺すような痛みが走り、痺れも伴って、どんなにもがこうとしても、その身体はほとんど動かなかった。
そうこうしているうちに、大量に水を飲み込んでしまう。気管に水が入り、むせてごぼごぼとクララの口から空気がもれ出した。
「く、苦しいぃぃぃ。誰か……」
残念ながら声にならないその叫びに応える者は誰もいない。あっという間に力尽き、とうとうクララは意識を失った。鼓動すらも止めたその身体がゆっくりと水中に沈み始める。
クララを突き落とした犯人が、何のためにこんなことをしたのかわからないけど、その悪意で、十五年という決して長くはない人生の幕が下りた……
はずだった。




