29 銀色のネズミ
クララたちは、イルサが用意した口の中がさっぱりするルビー色をしたハーブティーを食後に味わっていた。それを飲み終わるころ、伝令係の者が月の宮へやってきた。
「三十分後に王太子殿下がいらっしゃいますのでご準備をお願いいたします」
「わかりました」
食事は中庭に面した大きなテーブルがあるダイニングでしていたので、そこから応接室へと移動する。
部屋の中央にあるソファーに斜め向かいで座り、二人はオーティスを待つことにした。
月の宮に残ることを決めたシェリルは、その待ち時間を利用して、イルサに手入れのされていない髪を結ってもらうことにする。
「こんな感じでいかがでしょうか」
ぼさぼさの髪を、イルサが両サイドを軽く結い上げ見た目を美しく整えた。それを手鏡で確認する。
「さっきよりはましになったみたいね」
「とても素敵です」
とりあえずオーティスと対面しても問題のない状態にはなったようだ。
「クララ様。さきほど、伝令係にシェリル様も同席されることを事前に伝えておきました」
「ありがとうございます」
「でももし王太子がクララと二人だけで会いたいって言ったら、私はすぐに自分の部屋へ帰るから」
シェリルも王族に逆らうほど馬鹿ではない。精霊宮でつつがなく暮らしていくには誰よりもオーティスの機嫌を損ねないことが重要で、逆らうことがどれほど愚かなことか、それくらいはさすがにわかっている。
「令嬢たちより王族のほうが怖いんだから、クララも気をつけなさいよ」
「そうですね。今回は私のわがままでシェリル様を巻き込むことになってしまってごめんなさい」
「別にいいわよ、このくらい。でもその代わり私の時もつき合いなさいよね」
「はい。私が必要とあればいつでも呼んでください」
シェリルははっきりものを言うため、考えていることがわかりやすい。良くも悪くも裏表がなく見たままだということが分かったので、イルサは陰険な令嬢よりも扱いやすいのではないかと思い始めていた。そのため最初に比べればかなり警戒心を緩めている。
◇
予定の時間になると、オーティスは女性の近衛騎士を連れて部屋の前までやって来た。
「おまえたちは廊下で待機していてくれ」
「承知いたしました」
近衛騎士をおいて、ひとりで部屋に入って行くオーティス。
高貴であることが一目でわかるような光沢がある純白の生地に、襟元へは金糸で緻密な図柄の刺繍が施された衣装を身にまとっている。胸元には王家の紋章が刻まれているエメラルドのボタンが並んでいて、これほど贅沢な様相をしている者は、王宮内においても、それほど多くはないだろう。
「くつろいでいるところ邪魔をする」
オーティスが月の宮を訪れた時、クララはその姿にくぎ付けになった。
(なんてかわいいの……)
それは、その頭の上に乗っている銀色の小さなネズミを見たからで、なぜかネズミのほうも腕を組んでクララのほうをじっと見ていた。
(オーティス様の精霊もすごくかわいい。もっと近くで見てみたい)
「どうかしたか?」
眼を見開いて、ぼーっと立ち尽くしたままのクララにオーティスが声をかける。
(いけない、まずはご挨拶をしないと)
「申し訳ございません。お待ちしておりました」
あらためて、クララがオーティスの顔を見ると、その視線が向かったのは、この部屋の主人であるクララ自身。
目が合ってその元気な姿を確認してから、次に視線が向かったのは横に立っていたシェリル。
クララはシェリルの紹介をしようとするが、声を発する前にオーティスの視線が部屋の隅へと移動してしまった。
その目が小さな飾りテーブルの上に置かれている花瓶を見つめていたので、クララは口を開くのをいったん止める。
「この花……部屋に飾っているのか?」
それはキンバリーから贈られたことになっている真っ赤な花だ。
「はい。お部屋が華やかになりますから」
「そうか……だったら、いいのだが……」
微妙な態度のオーティスは、もちろんこの花の意味を知っている。何かを考えているのか、花を見てから沈黙が続いているため、部屋の空気が重くなる。
(この花を飾っていることがおかしいと思っているのかしら、それとも無知だと私のことを呆れている?)
実際、イルサから聞くまでクララは嫌がらせの意味があることを知らなかった。
そんな状況の中、シェリルはというと、そんなオーティスの態度を不思議そうに見つめているので、赤い花のことを知らず、この沈黙の原因すらわかっていないのだろう。
「この花は誰が用意をしたのだ」
侍女であるイルサに対して、問い詰めるような言い方をしたので、急いでクララが返答する。
「それはどなたからかの贈り物です。花の意味は知っておりますが、私が飾りたかったので、わがままを言って彼女に活けてもらいました」
「意味をわかっていて、なぜ? それに、その言い方では送り主がわからないということなのか?」
「はい。ですがこの花にどんな意味が込められていたとしても、私は気にしておりません。もしかしたら良いほうの意味かもしれませんし、ですから、こうやって目を楽しませてもらっております」
この程度のことで騒ぎになって、犯人探しが始まっても困る。そう思ったクララはキンバリーはもとより誰の名前も告げるつもりはなかった。
「そうか……」
昨日あんなことがあったばかりだというのに、そんなクララのもとに嫌がらせの品が届いていたことに心を痛めているのか、その声色は重く暗い。
王太子であるオーティスの口から謝罪の言葉が何度も出るのはよろしくない。そう思ったのでクララは極めて明るい声を出しオーティスに話しかけた。
「オーティス様、ご紹介させてくださいませ。こちらは七妃のおひとりで、土の宮のシェリル様です」
「シェリル・アンバーと申します」
二人同時に腰を落としてとても優美な淑女らしい礼をする。
シェリルも伯爵家で最低限のマナーだけは叩き込まれていたので、この姿だけ見れば、常日頃誰彼かまわず暴言を吐いているとは思えない。
猫をかぶることもできるのだと、イルサも部屋の片隅で驚いていた。
「君がシェリルか。元気そうで安心した。この度は侍女がとんでもないことをしでかし、すまなかった。不行き届きを謝罪させてもらう」
「疑いが晴れたのでしたら、私はそれでもう十分でございます」
二度と関わらなくてもいい相手であれば、シェリルも不満をぶちまけていただろう。しかしオーティスにそんなことをしたら、今後ここで生きづらくなってしまう。王族に対しての不敬が、問題にならないわけがないのだ。そのことを重々承知しているため、シェリルは不必要なことを口走らないように、返事以上の言葉は避けていた。
「だったらいいのだが、シェリルは次の侍女を受け入れていないようだが?」
「申し訳ございません。見ず知らずの他人と過ごすには、まだ気持ちが落ち着かないので、こうして友人であるクララのところで一緒に過ごしております。ですから侍女がいなくても不自由はございません」
「友人? 二人は仲が良かったのか?」
「精霊宮に入ってからですが、とても気が合いましたので」
「そうか」
シェリルと会話をしながらクララの様子も窺っていたオーティスだったが、今まで満面の笑みを浮かべていたクララがはっと驚き、突然表情が変わったため、この二人の仲は本当に良いのだろうかと訝しむ。
クララにとってシェリルの口から出た『友人』という言葉はとても嬉しかったはずなのだが、しかし、その言葉と同時にオーティスの頭の上の銀ネズミが不可思議な行動をとったため、そちらにクララの気持ちが向かってしまった。
なぜか、銀ネズミがクララに向かって両手を上げ振っていたのだ。
(どういうこと?)




