26 最初の一歩
「イルサさんにお願いがあるのですが」
「どのようなご用件でしょうか」
「ほしいものはどうやったら手に入れることができますか。誰かが赤い花を手配したように、外から持ち込むその方法を、教えていただきたいんです」
精霊宮で暮らしているうちに、ドレスや日用品などは新調する必要が出てくるはず。財産や資産が何もないクララは、この先どうすればいいのだろうか。
「七妃には月々内邸費が支給されますので、必要なものはそちらの予算からご用意させていただくことになります。デザイナーと縫製職人を手配しますので、お好きな型のドレスを製作することも可能ですよ。小物類は宮廷御用達の商人を呼びますのでご入用なものはお申しつけください」
「例えばですが、誰かを月の宮にご招待した際に、おもてなしをする場合とか、お菓子なんかはどうすればいいのですか?」
これまでクララは、菓子類を口にすることなど滅多になかった。記憶にあるのは、マナー教育の一環でお茶の作法を学んだ時と、エリザベートが部屋に招いてくれた時だけである。
そのため種類や味はほとんどわからない。
月の宮にやって来てから、イルサはお茶と一緒に茶菓子を必ず用意する。その度にクララは、初めて食べる菓子に内心大喜びしていたのであった。
「希望するものを厨房へ依頼することになります。その際お店を指定して取り寄せることもできます」
「イルサさんに買ってきてもらうことはできないんですよね」
「口に入るものに関してはできません」
昔、仲が悪い七妃同士で毒殺事件があったからだという。
「しかし、茶器や文具などでしたら、持ち込む前にチェックはされますが、クララ様の名代として私がお使いに出ることはできます」
「本当ですか。でしたら、さっそくお願いしたいものがあるのですけど」
「かしこまりました。クララ様のご所望品とはどのようなものでしょうか」
「それは……」
クララがほしいという品は意外なものだった。
なぜそんなものが欲しいのか、イルサにはわからなかったが快諾する。
「明日の午前中に購入してまいります」
「よろしくお願いします」
(とりあえずこれで、あのツボの送り主はわかるかも)
「それでは、私は外出の申請をしてきます。ついでにディナーの準備をするように厨房に声をかけてきますので、クララ様はそれまでごゆっくりお過ごしください」
イルサが部屋から出ていくのを見送っていたクララ。
(あれ?)
その時、イルサが足元にあったものに気がつかず、踏みそうになった。
「イルサさん危ない」
「クララ様? どうされたのですか」
急いで声をかけてはみたものの、その物体は閉じているはずのドアの向こう側へ、ふっと消えてしまった。
(あれはたぶんシェリル様のところの土精霊)
「クララ様?」
「えっと、蜘蛛がいたと思ったんですが、見間違えました。あと、面倒なお願いをしてしまってごめんなさい」
「いいえ。お気になさらないでください」
精霊はクララにしか見えない。
タランチュラが足元にいたと言ったところでイルサに不審がられるだけである。
そのためクララはイルサに本当のことは伝えられなかった。
彼女が出て行ったあとに、クララはタランチュラがいた場所にしゃがみ込んで考えていた。
「どうしてここにいたのかしら?」
しばらくすると、再びタランチュラがドアの向こう側から入り込み姿を現した。
「土精霊さん。あなたはどうしてここにいるの?」
問いかけても、もちろん返事はない。
「リオン、この子のことを何か知っている?」
黒ウサギに訊ねると、黒いその前脚はタランチュラではなく、その先のドアに向けられていた。
「ドアの外? それってもしかして」
クララは急いでドアを開ける。
「うわっ。びっくりした」
そこにはシェリルが立っていて、クララがいきなりドアを開けたので驚いて声をあげた。
「シェリル様。もしかして私を訪ねてきてくださったんですか?」
シェリルがいることを予想していたクララのほうは、嬉しさで声が弾んでいる。
「相談したことがあるって言っていたから、聞いてあげてもいいかなって思ったのよ」
「では部屋の中へどうぞ。今はイルサさんがいないので、お茶のご用意はできませんけど」
「知ってる。出て行ったのを見ていたから。侍女がいないほうが私にとっては好都合だもの」
シェリルが部屋に入って向かい合わせでソファーに座ったあとも、クララは最初からずっと笑顔を向けていた。ところが、シェリルのほうは逆に表情がゆがんでいる。
わざわざ自分からクララのもとにやってきたと言うのに、その態度で今度は困惑するクララ。
(なんだかご機嫌が悪いみたい)
「あの、何かお気に障るようなことをしてしまいましたか? もしそうでしたら、ごめんなさい」
クララは心配になって、すぐさま謝った。
「ねえ、どうしてそんなドレスを着ているの?」
「ドレス?」
「黒髪のクララが、純白のドレスを許されているのはどうしてかって聞いているの。ここでは髪と同じ色のドレスしか着ることができないって、あの侍女が言ってたわよ」
「そんな話、私は聞いていませんけど?」
「やっぱり嘘だった。伯爵家から持たされたドレスは全部捨てられたって言っていたけど、きっとあいつが盗んだんだ。おかげで私のクローゼットには茶色い服しかないのよ。本当に最悪」
そう言って嘆くシェリルのドレスは、筒型で腰の部分だけが絞ってある野暮ったいデザイン。色は焦茶色。
「ドレスだったら、頼めば新しいものを作ってもらえるみたいですよ」
「本当?」
「あ、そうだ。シェリル様と私は体形がそれほど違わないから、もしよろしければお好きなドレスを持っていってください」
「え? それって他人にあてがわれたお古のドレスじゃないのよ」
シェリルは自分が不機嫌であることを隠そうともしない。口がへの字に曲がっていた。
「お嫌ですか?」
「一応貴族なんだし、そう思うのが普通でしょ」
どこかの令嬢が着ていたドレスをリメイクもせず身に着けることはあり得ない。
流行遅れの古着などは平民へと流れていくものだからだ。
「考えてみたら、私なんて自分のものは何ひとつないんですよね。ここにあるものは、すべてもともと姉のために用意されていたものですし。それと、言い忘れましたが、クローゼットに収納されているドレスは、ほぼ袖を通していない新品です。お古ではありませんよ」
「さっきからそんなことを言っているけど、クララって今までどれだけ不幸だったのよ?」
シェリルの質問にクララはくすっと笑った。
「私は深窓の令嬢なんて言われているみたいですけど、実は忌み嫌われていて、誰の目にも晒しくないハイパー家が屋敷の奥に閉じ込めていたっていうのが真実なんですよね」
「え?」
「服も食事も使用人以下の扱いでしたから、令嬢としてまともに育っているとは、自分でも思っていません」
「ちょっと、それ私なんかに喋っちゃっていいことじゃないよね。大丈夫なの?」
「シェリル様には嘘をつきたくないんです。それにもう精霊宮の中にいるんですもの。ここでの話は外に出ることはないんじゃないですか?」
「外にはって、精霊宮の中ではいいの?」
「私は精霊宮で噂になることはないと思っていますから」
「それは私が誰にも話さないって、クララは信じているってこと?」
「はい。私はシェリル様とお友達になりたいので」
精霊喰いの話を信じてもらうためには、まずは信頼関係を築く必要がある。クララはシェリルには誠実でいようと思い、ハイパー家の醜聞を話した。
「友達……」
「ダメですか?」
「それはクララ次第じゃない?」
「そうですよね。これから頑張りますので、よろしくお願いします」
「じゃあ、友達になれるかどうかお試しってことで、私はこれから月の宮で過ごして、日中はクララを観察すことにするよ」
「月の宮で私を?」
「そう。私はもう誰のことも簡単には信じられないからね」
(それでも、月の宮で過ごすつもりなら、少しだけは私に対して心を開いてくれたってことよね? だったら嬉しいな)
シェリルとの距離が一歩近づいた。そう思ったクララは嬉しさを隠しきれなかった。
そして、それを見たシェリルも飽きれつつ、実直なクララの態度には好感を持ち始めていたのである。




