18 火の宮の主人 ミリーア・アゲート
翌朝、クララが目を覚ましたのはお日様がかなり高くなってからだった。
昨日のこともあって、イルサはクララを起こすことはせず、午前中はゆっくりと過ごすことに決めていたようだ。
「お身体は大丈夫ですか?」
「ええ。体調は普段よりもいいくらいです」
心配そうに覗き込んだイルサが、クララの額に手をふれたあと、手首で脈拍をみる。
「お熱も出ておりませんね。クララ様がお食事を召しあがれそうでしたら、すぐにこちらへお運びいたしますが」
ほっとした表情を浮かべたイルサにそう言われ、クララは返事をしてから、ネグリジェにガウンを羽織ってダイニングに移動する。
柑橘類の果物の風味がついた冷たい水を先に用意してもらったので、クララはそれを飲みながら、イルサが遅い朝食の支度をしているところを眺めていた。
(彼女に精霊はついていないようね)
イルサの髪は、とても薄い緑色をしていた。月精霊のリオンが教えてくれたように弱い精霊がついていることもあり得たはず。
しかし、部屋の中には黒ウサギの姿以外何も見当たらない。一度加護を授けたあと彼女の元から離れてしまったようだ。
(こんなによくしてくれるんだもの。きっとイルサさんは王妃様のことを知らないと思う)
いずれ亡き者になる予定の相手に、丁重に仕える必要もない。王妃の願望を知っているのであれば、どこかにぞんざいな部分が出るだろう。
実際にハイパー家の侍女たちがいい見本で、今のところイルサにはそんな様子はなく、逆にここまでクララに親身になってくれた者はエリザベートしかいなかった。
テーブルに並べられた朝食は、暖かいスープとカリカリのベーコン。腐っても干からびてもいない、新鮮なレタスとトマトのサラダ。それに柔らかいパンにリンゴのコンポート。
これほど贅沢な朝食はエリザベートと共にした時以来である。
パンをちぎり、アプリコットジャムをつけて頬張ると、香ばしさと甘さが口の中に広がった。あまりの美味しさでクララの顔がほころんでいる。
「こんなに豪華なものが食べられるなんて、ここに来た甲斐があったわ」
リンゴのコンポートまで完食したあと、クララは思わず口にしてしまう。
「クララ様?」
貴族の朝食ではごくごく普通の献立。いや、クララが食べきれる品数なので、王宮で出されるものとしたら質素なほうかもしれない。
クララもハイパー家での自身の処遇が伯爵令嬢としてはかなり異常だということはわかっているので、イルサに聞き返されて焦った。
「きょ、今日はほかの宮の七妃のところに、伺わないといけなかったんですよね?」
そのため、言葉の意味を追及される前に急いで話を変える。
「はい。そう言っても、昨日あんなことがあったばかりですから、クララ様の体調を理由に数日伸ばすことも可能ですよ」
「私は大丈夫です。先送りにするより早めにすませたいと思っていますし」
「では、午後から予定を組みまして、ほかの宮に訪問の連絡をしておきます」
「お願いします……」
(まずは精霊たちの状態を見なければ……それで被害にあっていたら助けてあげないといけないわよね。でも、どうやって精霊たちと交流すればいいのかしら……)
「クララ様? 気が乗らないのでしたら本日はおやめになったほうが」
イルサは考え事をしているクララの顔を見て心配しているようだ。
「あ、違います。七妃へのご挨拶はまったく問題ないんです。早く皆さんとお近づきになりたいと思っているくらいですもの」
精霊の姿を見ることができるようになったクララは、七妃つきの精霊たちの様子を早く知りたかった。
「そうですか、ご挨拶さえすめば、あとは、もめる原因にもなるので、クララ様は無理に仲良くする必要はございません」
挨拶の仕方とか、言葉遣いだとか、ライバルを貶めるためにいちいち上げ足を取られるらしい。それに気が弱い性格だと、相手に取り込まれて言いなりになってしまうこともあるみたいだから、上辺だけの友好関係は推奨していないそうだ。
「できれば皆さん全員と仲良くなりたいんですけど……」
そうしないと、精霊を守ることができない。
「そうですか。それでも、今日のところは頑張りすぎないでください。お部屋で呼び止められても、本日は忙しいとお断りして、型通りのご挨拶だけ済まされたらよろしいかと思います。ライバル同士の皆様は、あまり仲がよいとはいえません。まずは信用できる方を見定める必要があるかと」
親しくなった相手に裏切られたら、クララが傷つくことになる。イルサはそれを心配しているという。
「ありがとう。イルサさんの言う通りかもしれませんね」
「あせらず、交流をなさりながら、気が合いそうな方から徐々に親しくなっていけばよろしいのではないでしょうか」
「ではそうします。社交界を知らない私が皆さんと話が合うとも思えませんし、少しずつ仲良くなれるように努力してみますね」
◇
午後になってから、エリザベート用に用意してあった荷物の中からプレゼント用の香水瓶をイルサが引っ張り出し、綺麗なリボンを飾りとしてつける。
それを持って、まずは王太子と同じ年で最年長のアゲート公爵家のミリーアの部屋、『火の宮』へクララは向かった。
部屋のドアをノックして待つこと十秒ほど。ミリーアの侍女が現れたので「ご挨拶に伺った」と要件を伝えて取り次いでもらう。
「どうぞ中へお入りください」
すぐに入室の許可が出たので、クララはドアから三歩だけ部屋に足を踏み入れる。
部屋のソファーに座っていたのは妖艶という言葉が似合う、赤髪のとても派手な女性だった。
きらめくような黄金の布地に黒いレースの飾りがあるドレスがその艶やかさにとても似合っている。
そんなミリーアの左肩に火精霊である赤い鳥がとまっていた。
(鳥の姿の精霊も素敵)
見た感じではどこもかじられた様子はない。
(でも、こっちをじっと見ている瞳から、警戒心を感じるんだけど?)
クララは黒ウサギと交流を始めたばかりだから精霊の生態についてはわからないことだらけだ。
しかし、火精霊が歓迎していないことだけは伝わってきた。
(ミリーア様の敵だと思われているのかな)
勘違いされたくなかったので、少しでも印象が良くなるように火精霊に微笑んでみせる。
「始めまして。昨日から月の宮に入りました、クララ・ハイパーと申します。以後お見知りおきを」
クララは部屋の中央までは移動せず、入り口でミリーアに名前を告げる。
「ハイパー? あなたはエリザベートさんの妹さん?」
「そうです」
「エリザベートさんがご病気だっていうのは本当でしたのね。『水の宮』にラピス家のブルーナさんが入っていたから驚いていたのよ」
「姉は具合がよくならず、静養することになりました」
「大変でしたわね。でも、そのせいであの女狐が選ばれたのだわ。最悪よ」
女狐?
「ブルーナさんてね、もともとは違う名前だったのに、髪が青くなったから、それにあわせて改名したのですって。水精霊をつなぎ留めるためだと思うのだけれど浅ましい考えだと思いませんこと」
「そうなのですか。私は世間知らずなので、そういったことはよくわかりませんが」
「あらそう」
反応が鈍いクララの様子を見て、つまならそうに返事をするミリーア。
「彼女はエリザベートさんのライバルだと思っていたのだけれど、もしかしてお友達だったのかしら?」
「いいえ。まだ一度もお会いしたことはありません。私はわけあって社交界デビューが遅くなってしまったので、ブルーナ様だけではなく、他の宮の皆様全員と面識がございません」
「クララさんはお身体が弱かったと聞いているわ。七妃の中にお知り合いはいらっしゃらないのね」
次々と質問してくるミリーア。
「はい。あくまでも私は『月の宮』の穴埋めみたいなものですので、皆さんのお邪魔にならないよう、静かに過ごそうかと思っています」
「そうなの? あなたはわたくしたちと競う気はないということ?」
「その通りでございます。私はこの年になるまでお友達ができなかったので、皆さんとは仲良くしていただけるだけで、とても嬉しく思います」
「確かにクララさんみたいな、病弱でおとなしそうな方には、オーティス様のお相手は務まらないでしょうね」
「自分でもそう思っております。精霊宮に入っただけで心臓が破裂しそうなほど緊張しているので、ミリーア様には可愛がっていただけると嬉しいです。こちらはお近づきのしるしにご用意いたしました。お気に召していただけるとよろしいのですが」
イルサがミリーアの侍女に香水瓶を渡した。それをミリーアが受け取る。
「まあ、素敵な香水瓶だこと。中身はどちらの製品かしら?」
「お好みもあると思いまして、あえて空のままでお持ちしました」
「そう。ありがたく使わせていただくわ」
「それでは、私はこれで失礼いたします」
退出するためにクララは足をうしろに一歩引いた。
「ちょっとお待ちになって、あなたとは是非仲良くなりたいわ。ここで暮らす仲間として、これからわたくしとお茶でもいかが」
クララは敵視されたくないし、王妃のことを考えれば、いずれは味方になってほしいとは思っている。
しかし、今はイルサが言っていたように、まだ特定な誰かと仲良くしないほうがいいのかもしれない。
人見知りということで、大人しくひかえめにしておいて、とりあえず精霊宮の全容を掴むのが先だろう。それに、誰が王妃の手の者かもわからないので、迂闊に信用して近づくのは危険である。
「お誘いいただきながら申し訳ございませんが、まだ他のお部屋にも伺う予定がございます。それはまた別の機会にお願いできますでしょうか」
「他の部屋ねえ。挨拶回りは、わたくしが一番最初だったのよね。あなたは月の宮なのだから」
「はい。しきたりにそって回る予定です」
「そう。それなら忠告しておきますけれど、これから向かうブラッドストーン家のキンバリーとルチル家のメルティは汚い手を使ってくるかもしれないから気をつけた方がよろしくってよ」
(汚い手?)
「お忠言ありがとうございます」
クララが廊下に出ると、火の宮のドアはパタンと閉まった。
イルサと二人きりになってから、クララはふうっと一息吐く。
ミリーアは初対面のクララに対して、ブルーナやキンバリー、メルティの悪口を平気で口にした。といことはミリーアと親密になった場合、敵対している令嬢との間に溝ができてしまうだろう。
王妃と対抗するためには、誰からも敵認定されたくない。味方が敵になってしまうのはとても困る。
失敗は絶対に許されないので、知らず知らずのうちにクララの肩には力が入ってしまうのだった。




