止められない涙
アストリアの前で風が一瞬にして吹き抜けていく感覚があった。次の瞬間、クアトロはクロエの懐に潜り込んでいた。
クロエが自身の驚愕を表すかのように、その瞳を見開いている。
見開いた瞳でクロエが視線を落とした先では、クアトロが咥えている長剣がクロエの胸を深々と貫いていた。
「き、貴様……」
その言葉と共に唇の端からクロエの顎に向かって一筋の鮮血が流れ落ちていく。
クアトロが咥えていた長剣を口から離すと同時に、足下に広がる赤黒い液体に向かってクロエが力なく仰向けに倒れていった。
クロエが倒れると同時に、赤黒い液体から伸ばされた無数の手がクロエを引き摺り込もうとその体に覆いかぶさってくる。
クアトロはその様子を黙したままで見つめていた。
「止めろ! 止めてくれ。おい、貴様、何とかしろ。私は貴様たちの創造主だぞ!」
伸ばされてくる無数の手から逃れようと、身を捩りながらクロエは悲痛な叫び声を上げる。
「クロエさん、例えわたしたちが創造主だとしても、生み出した生命を意のままにすることはできないのですよ。わたしたちはそれに気づかなかった。わたしもこの姿になって初めて分かったことですがね……」
クアトロの横に立ったトルネオが誰に言うでもないかのように呟いている。
「ふざけるな、骸骨が! ふざけるな、魔族風情が。ふざけるな……私は……私は!」
クロエは呪詛を多分に含んだ言葉を撒き散らす。だが、やがて無数の手に覆いかぶさられ、掴まれながらゆっくりと赤黒い液体の中に飲み込まれていった。
それを見つめているトルネオの表情が変わるはずのない横顔が寂しげに見えたのは、アストリアの気のせいだったろうか。
「アストリア様!」
気がつけばダースが血の気を失った顔でアストリアの傍で片膝を着いて頭を垂れていた。
「申し訳ございませんでした。何のお役にも立てず……」
ダースの言葉にアストリアは明るい栗色の頭を左右に振った。
「私は大丈夫です。心配をかけましたね、ダース」
まだ少しだけ顔が引き攣ったかもしれなかったが、アストリアは血の気を失った顔のダースに笑顔を浮かべてみせた。
「ろりろり姫、無事だったか?」
エネギオスもヴァンエディオやトルネオを伴って、アストリアの近くにやってきた。顔も含めてエネギオスの体には所々に血が滲んでいて、それがこれまでの激戦を物語っていた。
「おい、エネギオス! 何でお前が最初にアストリアへ声をかけるんだ?」
ヴァンエディオの背後から、どうでもいいような文句を言いながらクアトロが姿を現した。
「あ、クアトロー。早く腕をくっつけるんですよー。 あれ? エリンはどこですかー」
スタシアナの言葉に誘われて左右を見渡したアストリアは、エリンに支えられるようにしてアストリアたちに向かって歩いてくるマルネロを見つける。
よかった。やっぱり無事だったのだとアストリアは安堵する。
そして再びアストリアはクアトロに深緑色の瞳を向けた。クアトロはそんなアストリアを見て口を開いた。
「すまなかった、アストリア。随分と怖い思いをさせてしまったな」
アストリアは頭を左右に振った。その途端、自分の意思に反して瞳から涙がぼろぼろと溢れてくる。
安堵したせいなのだろうか。駄目だ、泣いてはいけない。そう思って涙を止めようとするアストリアだったが、次から次へと涙が溢れてきて一向に止まる気配がない。
「お、おい、どうした、アストリア。大丈夫か? どこか痛いのか? エネギオスなら、怖い顔のごりらなだけで、危険はないんだぞ」
「ごりらじゃねえ!」
狼狽するクアトロにアストリアは明るい栗色の頭を左右に振った。
「クアトロさん……皆さん……助けて頂いて……本当にありがとうございました……」
涙が止まらない。クアトロたちがきっと助けてくれる。そう強く思っていても、やはり怖かった。
でも、やはり皆が助けてくれた。何もできなくて、守られるしかない自分を皆がこんなにも傷つきながら助けてくれた。本当に申し訳ないと思う。
でも、それでもやはり申し訳ないと思いながらも、自分は嬉しかったのだ。
「大丈夫だぞ、アストリア。皆、無事なんだ。それにアストリアが無事だったことを皆がこんなにも喜んでいるんだ……」
未だに涙を止めることができないアストリアに、クアトロがそう優しく語りかけるのだった。




