約束の終わりと夢の続き
「……でっか……⁉︎」
ようやく訪れたコーリタニアで、ぼくは件のチーズを前に言葉を失っていた。
初めて見るのは、ぼくもクラファ陛下も同じだ。とは思うが、それでも陛下は満足そうに巨大なチーズをぺんぺんと叩く。
「そうだろう、そうだろう。これは、わたしが自費で買い取った。全て食ってもらってかまわんぞ!」
「いや、無理でしょう陛下、いくらなんでも」
なんせこのコーリタニアチーズ――小・中・大・特大とあるうちの“特大”らしいけど――大きさが、ちょっとしたトラックのタイヤくらいある。直径は一メートルを超え、厚みはその半分といったところか。
大きいものほど長期熟成らしくて、クラファ陛下が購入してくれたのは二年もの。表面は赤茶けた感じの色合いになっていて、チーズ工房の女将さんからは最高の熟成具合だといわれた。
「さて、女将。用意はどうかな」
「ええ、できとりますよ陛下ー」
工房前庭には大きなテーブルが並べられ、こちらの名物だという楕円形の全粒粉パンが運ばれてくる。大きな竃で炭が焚かれ、腸詰めと細長い芋が蒸かされていた。隣の竃では塊肉のグリルのようなもの。香りからして仔羊のようだ。
飲み物は素焼きの瓶に入った香草茶と果汁、樽入りの果実酒と麦酒が揃えられた。
最後に本命の巨大チーズが、戸板のような俎板に乗せられてやってくる。いったい何キロあるやら、運ぶだけで男性四人がかりだ。
「よーしマークス、好きなだけ切るが良いぞ。なんなら丸ごと炙っても良い!」
「へいかへいかー、ちーずは、くしにさすのよー?」
「さすのー」
五十センチくらいの鉄串をいっぱい持った幼い女の子ふたりが、クラファ陛下に教えてくれる。
揃いのエプロンを掛けてお手伝いをしている、女将さんの孫娘だ。ミエルちゃんとティエルちゃん。従姉妹同士らしいけど、見た目はそっくりで双子のようだ。
ちなみに、エレオさんから聞いた話によると少子傾向のエルフに双子はほとんどいないのだそうな。
「あんまりおおきいと、おちちゃうのよー?」
「このくらい、さすのー」
「ほう、なるほど。こうか?」
「そーなのよー?」
「ここに、たてるのー」
切り分けられたコーリタニアチーズが串に刺して炙られ、香ばしい匂いが広がる。すごく美味しそう。
ぼくの記憶には当然のこと、初めて訪れるマークスの記憶にもないはずなのに、訳のわからない郷愁みたいなもので胸がいっぱいになる。
なんでか号泣しそうになって焦る。ホント意味わかんない。
「ちょ、っと……失礼します」
煙が目に沁みた、とでもいう感じで少し焚き火から離れたぼくを、クラファ陛下が振り返る。
「珍妙な顔になっているが、どうした」
「わかりません。マークスが、感傷的になったんでしょうかね」
「……そうか。実をいえば、わたしもだ」
少し目を赤くした陛下が、困った顔で微笑む。
コーリタニアの小集落には、護衛を含む旧“クラファ派”のメンバー数十人が集まっていた。
山村ミケルディアから避難した子供たちの姿もある。あちこちで幸せそうにつまみ食いしている瑞龍も。
集落のひとたちが手伝いに来てくれているが、エルフだけでなくドワーフや獣人、見た目が人間ぽいひともいて、人種の壁はあまり感じられない。ずっとこうだったのか、王都解放後に戻ってきたのかまでは聞いてないけど。これから多民族多人種が共存共栄していくエルロティアの未来が、こうだったら良いなと思う。
「エレオたちは、よくやってくれている。一世紀近くを無為に浪費した無能な老害の巣が、もう少しで国としての体裁を整えられるところまで復興して来ているのだからな」
「そうですね。陛下が即位されたことで全てが動き出したんです」
「少しは自分の功績を認めたらどうだ、マークス。貴様がいなければ、わたしはヒューミニアの屋敷を出ることも出来ずに死んでいたんだぞ」
うーん、転生前のことはマークス自身の功績だと思います。わずかに覗き見た彼の記憶によれば、必死に逃げて隠れて囮になって、“クラファ殿下を故郷に届ける”という信念で突き進んでいたようだ。
彼自身は、志半ばで斃れたわけだが。
「へいかー、やけたのよー?」
「パンも、あぶったのー」
ミエルちゃんとティエルちゃんが、チーズのたっぷり乗った全粒粉パンを持ってきてくれた。
大きさも形もラグビーボールみたいなパンを、恐ろしいことに水平に切ってある。
こういうの、切るならふつう垂直でしょう⁉︎
「美味そうだな。マークスも、いただこうではないか」
「はい」
半分にしたラグビーボール大のパンに、とろけて焦げ目のついたコーリタニアチーズがたっぷりと掛かっている。スパイスかハーブか香りの良い粉が振られて、食欲をそそる。
端に木のフォークが刺さっているから、これで食べるのかな?
「皆も、好きなものを好きなだけ食ってくれ、追加が欲しければ女将に頼め。払いはわたしだ、遠慮など要らん」
「「「「ありがとへいかー♪」」」」
「「「「ありがとうございます」」」」
こちらのひとたち、公式行事でもない限りそんなに“畏まって挨拶してお食事会スタート”、みたいのはないようだ。あちこちで皿や器が回され、酒杯が配られる。
特に今回は、単なる陛下の個人的なお忍び旅行だ。久しぶりの休暇に合わせて慰安会的な宴席を企画しただけで。思った以上の大所帯にはなったけど、みんな楽しそうで何よりだ。
「う、美味ッ!」
ひと口齧ったぼくは、予想以上の味わいに思わず声を上げた。
“焚き火で炙ったチーズを、全粒粉のパンに乗せて食べる”と聞いてたから、ピザパンの親戚くらいのイメージしかなかったのに、全然違う。
これは、完全にチーズが主役だ。あえていえば、チーズフォンデュか、溶かして掛けるスイスチーズをワンプレートにした感じ?
そのプレートが、全粒粉パンだった。
外側の硬いパンは、いっぺん中身をくり抜いて、食べやすいサイズ切った後で半分ほど戻してある。残った隙間に、いろんな食材が入っていた。
ジャガイモみたいなホクホクの蒸かし芋と、ぷりぷりの腸詰めと、羊肉と根菜のグリル。ハムに似た薄切り燻製肉。小さなゆで卵。“ピリ辛のラッキョウ”としか表現のしようがないピクルス。
そこにチーズが染み渡って絡まって、旨味の洪水になっている。
「な、なんですかこれ、うっわ……美味すぎる……」
ふと他の皆さんに目をやると、同じように器になったパンを傾けガツガツと中身を頬張り、幸せそうに中身お代わりを繰り返している。鍋や焼き台から好きなものを入れて、好きな量のチーズを掛けるのだ。その量が、またシャレにならないほど多い。
「おおぅ……そんな、チーズを飲み物のように……」
「あれがコーリタニアでの作法のようだぞ、マークス。パンは硬いので、脂が染みて柔らかくなった頃に食べるのだ」
なるほど、だけど真似するのは無理なのでマイペースでいただく。クラファ陛下もさすがに流し込むような食べ方はできないらしく――王としてのマナー云々の前に、ふつうできないと思う――綺麗に優雅にフォークで食べていた。
「かりかり、できたのよー?」
「ここが、おいしいのー」
フライパンとトングを持ったミエルちゃんとティエルちゃんが、ぼくらの器に薄焼き煎餅みたいのを乗せてくれる。
「かりかり、とは?」
「ちーず、やくと、こうなるのよー?」
「おいしいのー」
なるほど。お焦げというか、タイ焼きの端っこというか、薄焼きになったカリカリが人気のトッピングなわけだ。食べると意外なほどに風味と味わいが違っていて、本当に美味しい。
「ありがと、すっごく美味しい」
エプロン姿の天使ふたりが、笑顔のまま急にグニャリと歪んで見える。
まずい。
ぼくは飲み物を取りに行く振りをしてその場を離れた。まずい。まずい、なんで、いまなんだ。いや、タイミングとしてはそうだろうけど。いつかはこうなると思っていたけど。
「おい、マークス!」
涙で、視界が歪む。血の気が引いて、目の前が暗く瞬く。
遠くでクラファ陛下が叫ぶ声が聞こえた気がする。
――でも行かなきゃ。もう行かなきゃ。
「“ふぁむ”? おい、行くって、どこへ?」
不思議な気持ちだ。嬉しくて、楽しくて、切なくて、寂しい。
望みを果たして多くを得て、なにもかも上手く進んでいるはずなのに。ずっと、なにか大事なものがポロポロとこぼれていく感じがしていた。覚えていなければいけないことが、記憶から消えてく気がしていた。
ぼくは、口にはしなかったけど。クラファ陛下もそれを感じているのがわかった。
ぼくらは、知ってた。
ぼくのなかの、マークスが、消えかけていることを。
「待て!」
背後から、陛下がぼくを呼び止める。
開けた牧草地の端。午後の日差しを浴びて、キラキラと輝く草原。遠くに群れ遊ぶ家畜と、牧童の歌うような掛け声。
――ああ、クラファ陛下から聞いた、お話と同じだ。思ってた通りだ。風の匂いも、光の色も。
「なに、いってんだ、お前。しゃべれよ、前みたいに。できんだろ⁉︎」
思わず漏らしたぼくの声に、ぼくのなかのマークスが笑う。身体のなかで、心のなかで、ぴったり重なり合っていたものが少しずつズレて、剥がれてゆく。押さえることはできない。
「陛下に黙って、消えるつもりなのかよ。ふざけんな、お前が消えて、あのひとがどんだけ気に病んだか……」
――ありがと、****。***で、***てくれて。
「なに? なんていった? おい!」
「マークス!」
追いついてきた陛下が、背後からぼくを抱き留める。無理矢理に振り向かせて、まっすぐに目を見据えてきた。
ぼくのなかでマークスの存在が振れているのが、わかったのだろう。クラファ陛下の視線が揺れ、端正な顔がクシャリと歪んだ。
「行くな……頼む、もう少しだけ」
ふわりと、ぼくらの周囲に青白い光が浮かぶ。キラキラした光の細片として、瞬きながら宙に舞う。
それは一瞬だけクラファ陛下を包み込むと、霧散して消えた。
「ありがと、ねえね。……だいすき」
ぼくの口からではなく響いた声を最後に、マークスは二度と現れることはなかった。